心のすきまに【社会人恋愛短編集】

山田森湖

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社内チャットの履歴は、彼の退職とともに消えた

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社内チャットの履歴は、彼の退職とともに消えた


 朝のオフィスは、いつも通りの静けさに包まれていた。私はPCの前に座り、社内チャットを開く。

 「……もうすぐ、退職日なんだな」

 彼のアカウントが最後にログインしたのは昨日。私たちはリモート勤務が多く、顔を合わせることはほとんどなかったが、毎日のようにチャットでやり取りをしていた。仕事のことだけではなく、些細な雑談や冗談まで交わすうちに、私は彼の存在に依存していた。

 「最後に、声が聞きたい」

 私は小さくメッセージを送った。もちろん、チャットの文字だけでしか、気持ちは伝えられない。でも、今日だけはどうしても、彼に最後の想いを届けたかった。

 画面の向こうで、彼の顔を思い浮かべる。あの穏やかな笑顔、ふとした仕草、そして時折見せる色気。チャットの文字だけでは気づけない温度が、私の胸を熱くする。

 でも……既読がつかない。何度も確認するが、反応はない。時間だけが過ぎていく。

 昼休み、窓の外を眺めながら、私は思い出す。

 初めてチャットでやり取りした日のこと。
 「これ、確認してもらえますか?」と送った私に、すぐに
 「もちろん、任せて」と返信があった。
 その文字の端々に、優しさと少しの色気を感じた。

 リモート勤務で顔を合わせないからこそ、文字の中にしか現れない彼の気持ちを読み取ろうと、私は必死だった。そして、私もまた、文字で彼に気持ちを伝えようとした。

 午後、静まり返ったオフィスで再びチャットを開くと、画面には「アカウントが存在しません」という文字が表示されていた。

 ――消えた。

 彼のすべての履歴、会話、私への想いも、すべてが消えたのだ。

 胸の奥がきゅっと締め付けられる。文字の中でしか感じられなかった温度、会話の中の微かな息遣い、それらすべてが消えてしまった。

 あの日、彼に言えなかったことが頭をよぎる。
 「……好きです」
 「会いたい」
 「もっと近くで触れたい」

 アダルトな夜を共にしたいとまで思ったこともあった。けれど、画面の向こうにいる彼には、文字だけでは伝えられなかった。

 その夜、私は一人で帰宅し、机の上のメモ帳に書き残す。
 「今日、最後に言えなかったけど……ありがとう」

 文字にすると少しだけ心が軽くなる。画面越しでしか通じなかった感情も、手書きの文字になら、少しだけ自分の手元に残せる。

 夜、ベッドに横たわりながら思う。

 ――もう二度と、あの穏やかな笑顔を見ることはないだろう。声を聞くことも、手のぬくもりを感じることも。

 でも、胸の奥に熱く残る想いは、誰にも消せない。彼の退職とともに、すべてが消えたはずなのに、私の心の中だけは消えなかった。

 明日から、このオフィスは変わる。彼も消えた。けれど、私は確かに、彼の温度と笑顔を胸に抱きしめて生きていくのだ。
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