心のすきまに【社会人恋愛短編集】

山田森湖

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ランニングサークルで出会った彼は、転職を考えていた

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ランニングサークルで出会った彼は、転職を考えていた

 会社と家の往復だけの毎日が、急に息苦しくなったのは、去年の冬だった。
 残業ばかりで、朝の電車の景色も覚えていない。
 そんな自分を変えたくて、思いつきで参加したのが「週末ランニングサークル」だった。

 最初は走るなんて無理だと思っていた。運動なんて学生の頃以来だし、正直、三分も走れば息が上がる。
 でもその日、私のペースに合わせて並走してくれた人がいた。
 ──彼、カズキさん。

「焦らなくていいよ。走るのって、誰かと話しながらの方が続くから」

 そう言ってくれた笑顔が、冬の冷たい風の中でやけに温かく見えた。

 翌週から、自然と私たちは並んで走るようになった。
 彼は私より少し年上で、社会人五年目。営業職で、私と同じように忙しい毎日を過ごしているらしかった。
 けれど、不思議と彼の話には“疲れ”がなかった。

「会社、辞めようかと思ってるんだ」

 初めて夜のコースを走った帰り道、彼はぽつりとそう言った。
「え……どうして?」
「このままじゃ、何も変わらない気がしてさ」
 街灯の明かりが彼の横顔を照らしていた。
 その表情が、まるで自分の鏡を見ているみたいで、胸の奥がぎゅっと締まった。

 その夜を境に、私たちは連絡を取り合うようになった。
 ランニングの記録を送り合ったり、仕事の愚痴を言い合ったり。
 そして、ある週末。雨が降って、サークルの練習が中止になった。

「走れないね」
「じゃあ……飲みに行く?」

 その軽い誘いが、私の心を一瞬で熱くした。

 夜の居酒屋で、二人だけの時間。
 会社でも家でもない場所で、私は初めて“素の自分”で笑っていた。
 彼の話す将来の夢、仕事への迷い、過去の恋。
 気づけば、全部を知りたいと思っていた。

 帰り際、駅までの道。
 雨が上がり、街灯が水たまりに滲んでいた。
 ふと彼の手が、私の指先に触れた。
 その瞬間、時間が止まった気がした。

「……送るよ」

 そう言った彼の声が、妙に低くて、胸の奥まで響いた。
 マンションの前まで来て、別れ際に言葉を探していると──
 彼が、私を抱き寄せた。

 呼吸が混ざり合って、何も考えられなくなった。
 唇が触れたとき、彼の手が背中にまわり、震えるように肌をなぞった。

 止められなかった。
 ドアを開け、部屋に入ると同時に、互いの身体が求め合った。
 汗の匂いと、雨上がりの空気が混ざる。
 シャツのボタンを外す手が震えていた。
 彼の指先が、私の頬を撫で、首筋を、そして胸元へ。

「ごめん……もう止められない」
「止めないで……」

 その夜、彼の腕の中で何度も名前を呼ばれた。
 走るよりも速い鼓動が、二人の距離を埋めていった。

 翌朝、カーテン越しに光が差していた。
 ベッドの隣で眠る彼の寝息を聞きながら、私は現実に戻る勇気を探していた。
 彼は転職する。私はこのまま同じ会社に残る。
 この関係が続くはずがないことなんて、分かっていた。

 けれど、別れ際に彼が言った言葉が忘れられない。

「走るの、好きになれたのは君のおかげだよ」

 あの優しい声を思い出すたびに、胸が痛くなる。
 彼が新しい職場に行った日、私はひとりで河川敷を走った。
 いつもより少し長く、少しだけ速く。

 風の中に、彼の声が聞こえた気がした。

『次の場所でも、走り続けます』

 スマホの画面には、未送信のメッセージが残っている。
 ──「また、走ろうね。」

 けれど私は、その文字を送らない。
 息が切れるほど走ったあと、空を見上げて笑った。

 あの夜の温もりも、あの約束も、
 全部、私の“人生を走らせてくれた”証だから。
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