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飲み会の隣の個室から、彼の声が聞こえた
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飲み会の隣の個室から、彼の声が聞こえた
週末の夜、同期の送別会。
新宿の小さな居酒屋、個室をいくつも区切った店内は、笑い声と煙で少し霞んでいた。
私は乾杯のあと、少し離れた隅の席に座っていた。
あの頃よりお酒が強くなった気がする。
でも今夜は、どれだけ飲んでも酔えそうになかった。
「先輩、もっと飲みましょうよ」
向かいの後輩が差し出すジョッキに、無理に笑顔を作ってグラスをぶつける。
乾いた音が響いて、心の奥に沈んでいく。
ふと、隣の個室から男たちの笑い声が聞こえてきた。
ざわめきの中に、ひときわ聞き覚えのある声が混ざっている。
――あれ。
心臓が一瞬止まった。
聞き間違いじゃない。
低くて、少し掠れた声。
笑うときに喉の奥で息を吸う癖。
間違いなく、彼の声だった。
彼とは、同じ会社で三年一緒に働いた。
最初は上司と部下として、そしていつのまにか――
帰り道に同じ電車で帰るようになり、休日に映画を観に行くようになった。
でもそれも、彼が会社を辞めた日で終わった。
「今の会社にいたら、君と距離を置けない」
そう言われたのが、最後だった。
それから一年。連絡は一度もない。
私は静かにグラスを置いて、周りの声が遠くなるのを感じた。
どうして、今夜なんだろう。
どうして、同じ店なんだろう。
耐えきれず、席を立った。
トイレに行くふりをして、廊下を歩く。
隣の個室の前で足が止まる。
――笑ってる。
彼の声。
誰かと何かを話して、あの頃と同じように、少し照れたように笑ってる。
ドアの隙間から、ほんの一瞬だけ中が見えた。
そこにいたのは、彼と、見知らぬ女性。
その女性が彼の腕に手を置いて、楽しそうに話している。
そして彼が、その手を、自然に包み込んだ。
喉の奥が痛くなった。
視界がにじんで、息が苦しくなる。
あの頃、私も同じように、彼の手を握っていた。
寒い帰り道で、駅の改札を出たあと、誰にも見られないように。
「手、冷たいね」って言われるたび、胸がぎゅっとなった。
でも――彼は、もう前を向いている。
私だけが、あの時間に取り残されている。
そのまま、店の外に出た。
夜風が頬に当たる。
スマホを取り出して、無意識に彼の連絡先を開く。
“既読”のつかないトーク画面が、そこに残っていた。
「元気ですか?」
一年前に送った最後のメッセージ。
送信取り消しをしようとしても、もう遅い。
あの時も、今日も、私は同じ場所で立ち止まってる。
居酒屋の外に並ぶ自販機で、缶のハイボールを買った。
開けた瞬間、ぷしゅっと音がして、涙がこぼれた。
「……ほんと、ばかみたい」
声に出すと、夜の街に溶けて消えた。
ふと、隣の個室の窓越しに明かりが漏れているのが見えた。
中の笑い声はまだ続いている。
彼の声も、まだ。
楽しそうで、満たされていて、私の知らない時間を生きている。
涙が止まらないまま、私は缶を持った手をぎゅっと握りしめた。
せめて、この痛みだけは、誰にも見せたくなかった。
タクシーに乗ると、窓の外にぼんやりと街の灯りが流れた。
バックミラー越しに、自分の顔が映る。
少し笑ってみる。
でも、唇の端が震えて、結局また涙がこぼれた。
「……次、どこ行かれます?」と運転手が聞いた。
少し考えて、私は小さく答えた。
「まっすぐ帰ります」
家に着くころには、ハイボールの缶は空だった。
テーブルに置いて、照明を落とす。
暗い部屋の中で、スマホの画面が光る。
“未読1”
思わず目を疑った。
開くと、そこには――
『久しぶり。今日、隣の部屋にいた?』
その一文だけが届いていた。
指が止まった。
返事を打とうとして、やめた。
打ちかけた言葉は「うん」だったのか、「どうして気づいたの」だったのか、自分でもわからない。
結局、画面を閉じて、スマホを裏返した。
胸の奥が、静かに痛んでいた。
それでも、どこかで少しだけ救われた気もした。
ちゃんと、覚えていてくれた。
あの頃の私を、あの夜の私を。
冷めたハイボールの缶に、最後の一滴が残っていた。
それを飲み干すと、唇の端が少しだけ笑っていた。
でもその笑顔は、誰にも見せない。
もう、会うこともない人のために――
私の中だけで終わる笑顔だった。
週末の夜、同期の送別会。
新宿の小さな居酒屋、個室をいくつも区切った店内は、笑い声と煙で少し霞んでいた。
私は乾杯のあと、少し離れた隅の席に座っていた。
あの頃よりお酒が強くなった気がする。
でも今夜は、どれだけ飲んでも酔えそうになかった。
「先輩、もっと飲みましょうよ」
向かいの後輩が差し出すジョッキに、無理に笑顔を作ってグラスをぶつける。
乾いた音が響いて、心の奥に沈んでいく。
ふと、隣の個室から男たちの笑い声が聞こえてきた。
ざわめきの中に、ひときわ聞き覚えのある声が混ざっている。
――あれ。
心臓が一瞬止まった。
聞き間違いじゃない。
低くて、少し掠れた声。
笑うときに喉の奥で息を吸う癖。
間違いなく、彼の声だった。
彼とは、同じ会社で三年一緒に働いた。
最初は上司と部下として、そしていつのまにか――
帰り道に同じ電車で帰るようになり、休日に映画を観に行くようになった。
でもそれも、彼が会社を辞めた日で終わった。
「今の会社にいたら、君と距離を置けない」
そう言われたのが、最後だった。
それから一年。連絡は一度もない。
私は静かにグラスを置いて、周りの声が遠くなるのを感じた。
どうして、今夜なんだろう。
どうして、同じ店なんだろう。
耐えきれず、席を立った。
トイレに行くふりをして、廊下を歩く。
隣の個室の前で足が止まる。
――笑ってる。
彼の声。
誰かと何かを話して、あの頃と同じように、少し照れたように笑ってる。
ドアの隙間から、ほんの一瞬だけ中が見えた。
そこにいたのは、彼と、見知らぬ女性。
その女性が彼の腕に手を置いて、楽しそうに話している。
そして彼が、その手を、自然に包み込んだ。
喉の奥が痛くなった。
視界がにじんで、息が苦しくなる。
あの頃、私も同じように、彼の手を握っていた。
寒い帰り道で、駅の改札を出たあと、誰にも見られないように。
「手、冷たいね」って言われるたび、胸がぎゅっとなった。
でも――彼は、もう前を向いている。
私だけが、あの時間に取り残されている。
そのまま、店の外に出た。
夜風が頬に当たる。
スマホを取り出して、無意識に彼の連絡先を開く。
“既読”のつかないトーク画面が、そこに残っていた。
「元気ですか?」
一年前に送った最後のメッセージ。
送信取り消しをしようとしても、もう遅い。
あの時も、今日も、私は同じ場所で立ち止まってる。
居酒屋の外に並ぶ自販機で、缶のハイボールを買った。
開けた瞬間、ぷしゅっと音がして、涙がこぼれた。
「……ほんと、ばかみたい」
声に出すと、夜の街に溶けて消えた。
ふと、隣の個室の窓越しに明かりが漏れているのが見えた。
中の笑い声はまだ続いている。
彼の声も、まだ。
楽しそうで、満たされていて、私の知らない時間を生きている。
涙が止まらないまま、私は缶を持った手をぎゅっと握りしめた。
せめて、この痛みだけは、誰にも見せたくなかった。
タクシーに乗ると、窓の外にぼんやりと街の灯りが流れた。
バックミラー越しに、自分の顔が映る。
少し笑ってみる。
でも、唇の端が震えて、結局また涙がこぼれた。
「……次、どこ行かれます?」と運転手が聞いた。
少し考えて、私は小さく答えた。
「まっすぐ帰ります」
家に着くころには、ハイボールの缶は空だった。
テーブルに置いて、照明を落とす。
暗い部屋の中で、スマホの画面が光る。
“未読1”
思わず目を疑った。
開くと、そこには――
『久しぶり。今日、隣の部屋にいた?』
その一文だけが届いていた。
指が止まった。
返事を打とうとして、やめた。
打ちかけた言葉は「うん」だったのか、「どうして気づいたの」だったのか、自分でもわからない。
結局、画面を閉じて、スマホを裏返した。
胸の奥が、静かに痛んでいた。
それでも、どこかで少しだけ救われた気もした。
ちゃんと、覚えていてくれた。
あの頃の私を、あの夜の私を。
冷めたハイボールの缶に、最後の一滴が残っていた。
それを飲み干すと、唇の端が少しだけ笑っていた。
でもその笑顔は、誰にも見せない。
もう、会うこともない人のために――
私の中だけで終わる笑顔だった。
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