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社内カラオケ大会で、彼女は“歌わないけど来る”と言った
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社内カラオケ大会で、彼女は“歌わないけど来る”と言った
会社の飲み会って、嫌いじゃない。
盛り上げるのも、笑いを取るのも得意なほうだ。
けれど、誰かがふとつぶやいた「来月、部署合同のカラオケ大会でもやりますか」という一言で――俺は頭を抱えた。
幹事、俺。
企画を立てて、店を予約して、みんなの希望曲を集める。
その中で、たった一人だけ、返事が来なかった人がいる。
経理の佐藤さん。
いつも静かで、声を聞いたこともほとんどない。
それでも、席が近いからか、なぜか彼女のことが気になっていた。
コーヒーを入れる仕草、書類をめくる指先、昼休みに小さくため息をつく姿――全部、耳の奥に残る。
「佐藤さん、カラオケ大会、どうですか? 無理なら全然」
そう声をかけたとき、彼女は少しだけ考えてから言った。
「……歌わないけど、来るだけなら」
その一言で、心臓が跳ねた。
歌わないけど、来る。
それだけで、理由が欲しくなる。
当日。
カラオケボックスの中は、いつもの会社と違う空気で満たされていた。
スーツを脱ぎ、笑い声が溢れ、酒が回る。
けれど、彼女だけは静かにソファの端に座って、グラスの水を見つめていた。
「佐藤さん、大丈夫? 退屈してない?」
「ううん。……みんな楽しそうだから、それでいい」
笑ったようで、笑っていなかった。
ライトに照らされた横顔は、影の中に溶けていくように綺麗だった。
その無防備さに、目を逸らせなくなった。
順番が回ってきて、俺はマイクを取った。
「陽キャ代表でいっちょ盛り上げるか!」なんて誰かが言う。
けれど、心の中では一つの曲しか浮かばなかった。
――彼女が、昼休みに小さく鼻歌で口ずさんでいたあの曲。
イントロが流れた瞬間、彼女の肩がぴくりと動いた。
視線が合う。
ほんの数秒、世界が止まる。
俺はそのまま、彼女を見ながら歌った。
他の誰でもない、彼女のためだけに。
マイク越しの声が、少しだけ震えていた。
歌い終えると、拍手と笑いが起こる。
けれど、彼女だけが――静かに、小さく、手を叩いていた。
その仕草が、誰よりも心に残った。
終電が近づき、みんなが帰り支度を始める頃。
外は小雨。
駅までの道を歩いていると、後ろから小さな声が聞こえた。
「……さっきの曲、私、好きです」
振り返ると、彼女が傘を持たずに立っていた。
頬が少し濡れていて、髪が雨に張り付いている。
「知ってた。よく鼻歌で歌ってたから」
「え……気づいてたんですか?」
「うん。たぶん、俺だけが気づいてた」
彼女は、ふっと小さく笑った。
その笑顔は、さっきより少しだけ柔らかかった。
「変ですね、会社の人にそんなこと気づかれてるなんて」
「俺、佐藤さんのこと、結構見てるから」
言った瞬間、彼女の目が丸くなった。
次の瞬間、耳まで赤くなって、視線を落とす。
沈黙。
だけど、その沈黙が、少しも苦しくなかった。
「……傘、入ります?」
俺が傘を差し出すと、彼女は少し迷ってから、静かに頷いた。
肩が触れる距離。
小さく息を吸う音が聞こえた。
「近いですね」
「いや、もうちょっと寄らないと濡れる」
「……そういうことにしておきます」
そんな会話の合間に、街の明かりがぼんやり滲む。
歩道の白線を踏みながら歩く彼女の足音が、妙にリズムを刻んでいた。
それが、さっきの曲のテンポと重なっているのに気づいて、笑いそうになった。
駅に着くと、電車はあと5分で来るところだった。
ホームの端、人も少ない。
彼女はポケットからハンカチを出して、髪についた水滴を拭った。
「さっきの歌、すごくよかったです。なんか……泣きそうになりました」
「泣くほどの歌じゃないけどな」
「……そうかも。でも、優しかった。
みんなが大声で笑ってる中で、ひとり静かに歌ってるの、あなたらしいなって」
「らしい?」
「はい。無理して盛り上げてるけど、本当は優しいだけの人」
「……そんな風に見える?」
「今日、そう思いました」
そう言って、彼女は俺の腕にそっと触れた。
冷たい指先。
けれど、触れた瞬間、熱が流れ込んでくるみたいだった。
俺は、そのまま彼女の手を包んだ。
彼女は驚いたように顔を上げ、けれど、すぐに目を閉じた。
一瞬だけ、唇が触れた。
雨の匂いと、微かな甘さ。
それが、夢のように溶けていった。
電車が入ってくる音で、彼女はそっと手を離した。
「……今日は、来てよかったです」
「俺も」
「また、誘ってもいいですか?」
「もちろん」
ドアが閉まる直前、彼女が小さく笑った。
それは、初めて見た、心の底からの笑顔だった。
翌週。
昼休み、俺の席のパソコンに通知が届いた。
差出人は「佐藤美咲」。
メッセージは、ただ一行。
『また、歌ってください。私の好きな曲で。』
俺は画面を見つめながら、思わず微笑んだ。
あの夜の余韻が、まだ胸の奥で鳴っている。
静かな音で、確かに。
――たぶん、これは恋だ。
音のない場所で、始まった恋。
会社の飲み会って、嫌いじゃない。
盛り上げるのも、笑いを取るのも得意なほうだ。
けれど、誰かがふとつぶやいた「来月、部署合同のカラオケ大会でもやりますか」という一言で――俺は頭を抱えた。
幹事、俺。
企画を立てて、店を予約して、みんなの希望曲を集める。
その中で、たった一人だけ、返事が来なかった人がいる。
経理の佐藤さん。
いつも静かで、声を聞いたこともほとんどない。
それでも、席が近いからか、なぜか彼女のことが気になっていた。
コーヒーを入れる仕草、書類をめくる指先、昼休みに小さくため息をつく姿――全部、耳の奥に残る。
「佐藤さん、カラオケ大会、どうですか? 無理なら全然」
そう声をかけたとき、彼女は少しだけ考えてから言った。
「……歌わないけど、来るだけなら」
その一言で、心臓が跳ねた。
歌わないけど、来る。
それだけで、理由が欲しくなる。
当日。
カラオケボックスの中は、いつもの会社と違う空気で満たされていた。
スーツを脱ぎ、笑い声が溢れ、酒が回る。
けれど、彼女だけは静かにソファの端に座って、グラスの水を見つめていた。
「佐藤さん、大丈夫? 退屈してない?」
「ううん。……みんな楽しそうだから、それでいい」
笑ったようで、笑っていなかった。
ライトに照らされた横顔は、影の中に溶けていくように綺麗だった。
その無防備さに、目を逸らせなくなった。
順番が回ってきて、俺はマイクを取った。
「陽キャ代表でいっちょ盛り上げるか!」なんて誰かが言う。
けれど、心の中では一つの曲しか浮かばなかった。
――彼女が、昼休みに小さく鼻歌で口ずさんでいたあの曲。
イントロが流れた瞬間、彼女の肩がぴくりと動いた。
視線が合う。
ほんの数秒、世界が止まる。
俺はそのまま、彼女を見ながら歌った。
他の誰でもない、彼女のためだけに。
マイク越しの声が、少しだけ震えていた。
歌い終えると、拍手と笑いが起こる。
けれど、彼女だけが――静かに、小さく、手を叩いていた。
その仕草が、誰よりも心に残った。
終電が近づき、みんなが帰り支度を始める頃。
外は小雨。
駅までの道を歩いていると、後ろから小さな声が聞こえた。
「……さっきの曲、私、好きです」
振り返ると、彼女が傘を持たずに立っていた。
頬が少し濡れていて、髪が雨に張り付いている。
「知ってた。よく鼻歌で歌ってたから」
「え……気づいてたんですか?」
「うん。たぶん、俺だけが気づいてた」
彼女は、ふっと小さく笑った。
その笑顔は、さっきより少しだけ柔らかかった。
「変ですね、会社の人にそんなこと気づかれてるなんて」
「俺、佐藤さんのこと、結構見てるから」
言った瞬間、彼女の目が丸くなった。
次の瞬間、耳まで赤くなって、視線を落とす。
沈黙。
だけど、その沈黙が、少しも苦しくなかった。
「……傘、入ります?」
俺が傘を差し出すと、彼女は少し迷ってから、静かに頷いた。
肩が触れる距離。
小さく息を吸う音が聞こえた。
「近いですね」
「いや、もうちょっと寄らないと濡れる」
「……そういうことにしておきます」
そんな会話の合間に、街の明かりがぼんやり滲む。
歩道の白線を踏みながら歩く彼女の足音が、妙にリズムを刻んでいた。
それが、さっきの曲のテンポと重なっているのに気づいて、笑いそうになった。
駅に着くと、電車はあと5分で来るところだった。
ホームの端、人も少ない。
彼女はポケットからハンカチを出して、髪についた水滴を拭った。
「さっきの歌、すごくよかったです。なんか……泣きそうになりました」
「泣くほどの歌じゃないけどな」
「……そうかも。でも、優しかった。
みんなが大声で笑ってる中で、ひとり静かに歌ってるの、あなたらしいなって」
「らしい?」
「はい。無理して盛り上げてるけど、本当は優しいだけの人」
「……そんな風に見える?」
「今日、そう思いました」
そう言って、彼女は俺の腕にそっと触れた。
冷たい指先。
けれど、触れた瞬間、熱が流れ込んでくるみたいだった。
俺は、そのまま彼女の手を包んだ。
彼女は驚いたように顔を上げ、けれど、すぐに目を閉じた。
一瞬だけ、唇が触れた。
雨の匂いと、微かな甘さ。
それが、夢のように溶けていった。
電車が入ってくる音で、彼女はそっと手を離した。
「……今日は、来てよかったです」
「俺も」
「また、誘ってもいいですか?」
「もちろん」
ドアが閉まる直前、彼女が小さく笑った。
それは、初めて見た、心の底からの笑顔だった。
翌週。
昼休み、俺の席のパソコンに通知が届いた。
差出人は「佐藤美咲」。
メッセージは、ただ一行。
『また、歌ってください。私の好きな曲で。』
俺は画面を見つめながら、思わず微笑んだ。
あの夜の余韻が、まだ胸の奥で鳴っている。
静かな音で、確かに。
――たぶん、これは恋だ。
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