心のすきまに【社会人恋愛短編集】

山田森湖

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社内読書サークルに、彼女は“付き合いで入っただけ”と言った

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社内読書サークルに、彼女は“付き合いで入っただけ”と言った

俺は読書が好きだ。
静かな時間、ページをめくる音、コーヒーの匂い。
それさえあれば、世界と繋がっていなくてもいい――そう思っていた。

そんな俺が、珍しく“人と関わる”ことを選んだのは、社内の「読書サークル」に誘われたからだ。月に一度、昼休みに集まって、本の話をする。それだけのゆるい会だった。
参加メンバーは十人ほど。みんなそれぞれの本を持ち寄り、印象に残った箇所を話す。俺にとっては、唯一“自分を出せる場所”だった。

そこに、ある日――彼女が来た。

「えっと、佐伯美咲です。企画部の。…付き合いで入っただけなんで、よろしくお願いします」

そう言って笑った彼女は、いかにも陽キャというタイプだった。
誰とでもすぐに打ち解けて、声が明るくて、場をやわらかくする。
けれど、その笑顔を見た瞬間、俺は一瞬でわかった。
――この人は、俺のいる世界とは違う。

彼女は次の会でも、やっぱり「本はあまり読まないけど、雰囲気が好き」と言っていた。
それでも、みんなの話をちゃんと聞いて、うなずいていた。
それが不思議だった。興味がないのに、なぜ来るんだろうと。

そして、三回目の集まりのあと。
帰り際、俺が本を片付けていると、彼女が声をかけてきた。

「ねぇ、その本、好きなんでしょ?」

「…まぁ、はい」

「私、ああいう難しい話苦手。登場人物の気持ちとか、よく分かんない。でも、あなたが話してるの聞いてると、ちょっと読んでみようかなって思った」

その言葉に、心が少しだけ温かくなった。
人に“伝わる”ことなんて、ほとんどないから。

それから、彼女は毎回必ず来るようになった。
読書よりも、俺の話を聞くために来ているように見えた。
時々、昼休みに一緒にコーヒーを飲むようにもなった。
「話、聞いてると落ち着くんだよね」と言われるたびに、胸がじんわりする。

――でも、俺は知っていた。
彼女には、同じ部署に仲のいい男がいる。
二人で昼に出かけるのを、何度も見た。
それでも、俺の前ではいつも笑って「今日はどんな本?」と聞いてくれる。

ある日、俺は勇気を出して言った。

「美咲さん、この前言ってた“感情が分からない”って話…俺、少し分かる気がします。俺も、人の気持ちとか、空気を読むのが苦手で」

「ふふ、意外。あなた、ちゃんと人のこと見てるじゃん」

「いや、見てるだけで、届かないんです。いつも」

「…そういうの、ちょっと切ないね」

そのとき、彼女は少しだけ寂しそうな目をした。
まるで、俺よりもずっと深い場所で、何かを抱えているように。

その日の夜、俺は彼女から社内チャットをもらった。

「読書会のことで、少し話したい」

仕事が終わったあと、オフィスの隅で会うと、彼女はどこか落ち着かない様子だった。
「どうしたんですか?」と聞くと、彼女は小さく笑った。

「あなたって、変わってるよね。
静かで、何も言わないけど、話してると落ち着く。
…今日も、隣にいていい?」

そう言って、俺の肩に頭を預けた。
髪の香りがふわりと漂う。
心臓が、ゆっくり熱くなる。
何も言えなかった。
ただ、彼女の頭が俺の肩にある重みだけが、確かだった。

ほんの数分の沈黙。
けれど、その時間が、誰よりも長く、甘く感じた。

彼女が顔を上げたとき、唇がかすかに触れた。
互いに息を呑む音が聞こえる。
逃げられなかった。
彼女の目が、まっすぐ俺を見ていたから。

ほんの一瞬だけ、世界が溶けた。
誰もいない夜のオフィスで、俺は生まれて初めて“人と繋がる”ということを知った気がした。

けれど、そのあと――彼女は静かに言った。

「…ねぇ。これ、忘れてほしい」

「どうして?」

「あなたは、優しいから。私が誰と付き合ってても、傷つくのはあなただから」

頭の中が真っ白になった。
何も返せなかった。
彼女は、悲しそうに笑った。

「私ね、あの人と結婚するの。
でもね、あなたの話を聞いてると、自分が別の人生を歩いてる気がしたの。
…ごめんね」

そう言って去っていった彼女の背中が、今でも焼きついて離れない。

それから、読書サークルには行かなくなった。
みんなが「最近来ないね」と言っても、どうでもよかった。
本を読んでも、ページの中に彼女の声が残っていた。
あの笑い方、あの沈黙、あの体温。

最後に見た彼女は、オフィスのエレベーターの前。
彼女は結婚指輪をしていて、隣にその男がいた。
俺に気づくと、一瞬だけ視線を合わせて、そして――微笑んだ。

それだけで、胸の奥が痛くなった。
けれど、不思議と後悔はなかった。

彼女がくれた言葉が、今も俺を救っている。

「あなたが話すと、静かな世界が少しあたたかくなる」

俺は今も、本を読み続けている。
そして時々、あの言葉を思い出す。
もう誰にも届かないとしても――
あの一瞬だけは、確かに彼女の世界にいた。
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