61 / 70
研修旅行の自由時間、彼女は一人で本屋にいた
しおりを挟む
研修旅行の自由時間、彼女は一人で本屋にいた
地方の研修施設で迎える三日目の午後。
昼の講義が終わり、「この後は自由時間です」という講師の声に、教室の空気がふっと緩んだ。
同期たちは誰もが、観光地やカフェ、温泉の話で盛り上がっていた。
僕は特に予定もなく、宿のロビーでコーヒーを飲みながら外を眺めていた。
曇り空の向こうに、商店街の看板がいくつも並んでいる。ふと、あの中に古本屋があると聞いたことを思い出した。
気分転換に行ってみようかと思い、スマホの地図を頼りに歩き出した。
宿から少し離れた通りに、小さな古本屋があった。
木製の引き戸、少し色あせた「文藝書・思想書・絵本」という文字。
戸を開けると、ほのかに紙と埃の匂いが混ざった空気が鼻をくすぐる。
そして、視線の先に、彼女がいた。
背を少し丸めて、文庫コーナーの棚を眺めていたのは、同期の佐伯だった。
普段はあまり話したことがない。グループ行動よりも一人でいることが多く、どちらかといえば“静かな人”という印象だった。
彼女も僕に気づいて、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……あ、田島くん」
「偶然だね。ここに来てたんだ」
「うん。静かで落ち着く場所、探してたら……ここに」
言葉を交わすと、店内の空気が妙に近く感じた。
周囲には誰もいない。ページをめくる紙の音だけが響く。
棚の前で、彼女が一冊の文庫を手に取る。
表紙には、僕もよく知る作家の名前があった。
「それ、好きなの?」と尋ねると、彼女は少し迷ってから小さく頷いた。
「……この作家、誰にも言ったことないけど、ずっと好き。言うと、ちょっと“重い”って思われる気がして」
僕は笑って首を振った。
「いや、わかるよ。僕もその人の描く“孤独の描写”、すごく刺さる」
その瞬間、彼女が目を見開いた。
まるで、思いもよらないところで“自分を理解する人”に出会ったような顔だった。
気づけば、僕らは並んで店の奥へと歩いていた。
詩集、短編集、装丁の話。
普段の研修では出てこないような話題ばかりが、自然と続いた。
彼女の声は小さいけれど、言葉の一つひとつに芯があった。
やがて、古い柱時計が午後五時を告げた。
店を出ると、夕陽が差し込み、通りが金色に染まっていた。
歩道の端で、彼女が少しだけ肩を寄せてきた。
「ねえ……田島くん、今夜の懇親会、出る?」
「一応、顔は出すつもり。佐伯さんは?」
「……あんまり、ああいう賑やかなの苦手で。部屋で読書してようかな」
彼女の声はかすかに風に溶けて、僕の心をくすぐった。
――そのあと。
夜の懇親会を早々に抜け出し、廊下を歩いていると、客室の前に明かりが漏れていた。
何気なくその前を通ったとき、ドアが少し開いて、中から彼女が顔を出した。
「……やっぱり、来た」
小さく笑うその表情に、僕は言葉を失った。
「来た、って……?」
「なんとなく、そんな気がしてた」
誘われるように中へ入ると、部屋は小さなデスクランプの光だけ。
机の上には、昼間話していたあの作家の本が開かれていた。
「続きを、読んでたの?」
「うん。でも、さっきの会話がずっと頭に残ってて……ページ、進まなくて」
その言葉に、僕の心拍が静かに速くなる。
ソファに腰を下ろすと、彼女も隣に座った。
距離はほんの数センチ。
彼女の髪から、ほのかなシャンプーの匂いがした。
指先が、同じページに触れる。
触れた瞬間、どちらともなく息を飲んだ。
「田島くんって、思ってたより……」
「なに?」
「……優しい人なんだね」
言葉の終わりと同時に、彼女の視線が落ちて、そして僕の肩に頭を預けた。
静かに流れる時間。外では風の音だけが響いていた。
抱き寄せるように腕を回すと、彼女は抵抗しなかった。
それどころか、そっと僕の胸のあたりを掴むようにして、
小さく「……こんな風に誰かに触れたの、久しぶり」と呟いた。
唇が触れるのは、時間の問題だった。
それは激情ではなく、ずっと奥底に沈んでいた想いが、ゆっくり浮かび上がっていくような感覚。
お互いの体温を確かめ合いながら、やがて静かに唇が重なった。
数秒、いや、もっと長かったかもしれない。
離れたあと、彼女は小さく微笑んだ。
「この作家、恋愛の場面ってほとんど書かないけど……たぶん、今みたいな“静かな瞬間”を描きたかったんだと思う」
僕は息を整えながら、「たしかに」と呟いた。
――翌朝、研修最終日。
出発のバス停で、彼女が隣に立っていた。
昨夜のことを言葉にすることはなかったけれど、
目が合うたび、静かに微笑みが交わった。
バスが動き出すとき、彼女が小さく言った。
「ねえ、今度……東京に戻ったら、あの古本屋みたいな店、一緒に行こう」
窓の外を見ながら、僕は心の中で答えた。
――あの夜を、“偶然”のまま終わらせたくない。
地方の研修施設で迎える三日目の午後。
昼の講義が終わり、「この後は自由時間です」という講師の声に、教室の空気がふっと緩んだ。
同期たちは誰もが、観光地やカフェ、温泉の話で盛り上がっていた。
僕は特に予定もなく、宿のロビーでコーヒーを飲みながら外を眺めていた。
曇り空の向こうに、商店街の看板がいくつも並んでいる。ふと、あの中に古本屋があると聞いたことを思い出した。
気分転換に行ってみようかと思い、スマホの地図を頼りに歩き出した。
宿から少し離れた通りに、小さな古本屋があった。
木製の引き戸、少し色あせた「文藝書・思想書・絵本」という文字。
戸を開けると、ほのかに紙と埃の匂いが混ざった空気が鼻をくすぐる。
そして、視線の先に、彼女がいた。
背を少し丸めて、文庫コーナーの棚を眺めていたのは、同期の佐伯だった。
普段はあまり話したことがない。グループ行動よりも一人でいることが多く、どちらかといえば“静かな人”という印象だった。
彼女も僕に気づいて、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……あ、田島くん」
「偶然だね。ここに来てたんだ」
「うん。静かで落ち着く場所、探してたら……ここに」
言葉を交わすと、店内の空気が妙に近く感じた。
周囲には誰もいない。ページをめくる紙の音だけが響く。
棚の前で、彼女が一冊の文庫を手に取る。
表紙には、僕もよく知る作家の名前があった。
「それ、好きなの?」と尋ねると、彼女は少し迷ってから小さく頷いた。
「……この作家、誰にも言ったことないけど、ずっと好き。言うと、ちょっと“重い”って思われる気がして」
僕は笑って首を振った。
「いや、わかるよ。僕もその人の描く“孤独の描写”、すごく刺さる」
その瞬間、彼女が目を見開いた。
まるで、思いもよらないところで“自分を理解する人”に出会ったような顔だった。
気づけば、僕らは並んで店の奥へと歩いていた。
詩集、短編集、装丁の話。
普段の研修では出てこないような話題ばかりが、自然と続いた。
彼女の声は小さいけれど、言葉の一つひとつに芯があった。
やがて、古い柱時計が午後五時を告げた。
店を出ると、夕陽が差し込み、通りが金色に染まっていた。
歩道の端で、彼女が少しだけ肩を寄せてきた。
「ねえ……田島くん、今夜の懇親会、出る?」
「一応、顔は出すつもり。佐伯さんは?」
「……あんまり、ああいう賑やかなの苦手で。部屋で読書してようかな」
彼女の声はかすかに風に溶けて、僕の心をくすぐった。
――そのあと。
夜の懇親会を早々に抜け出し、廊下を歩いていると、客室の前に明かりが漏れていた。
何気なくその前を通ったとき、ドアが少し開いて、中から彼女が顔を出した。
「……やっぱり、来た」
小さく笑うその表情に、僕は言葉を失った。
「来た、って……?」
「なんとなく、そんな気がしてた」
誘われるように中へ入ると、部屋は小さなデスクランプの光だけ。
机の上には、昼間話していたあの作家の本が開かれていた。
「続きを、読んでたの?」
「うん。でも、さっきの会話がずっと頭に残ってて……ページ、進まなくて」
その言葉に、僕の心拍が静かに速くなる。
ソファに腰を下ろすと、彼女も隣に座った。
距離はほんの数センチ。
彼女の髪から、ほのかなシャンプーの匂いがした。
指先が、同じページに触れる。
触れた瞬間、どちらともなく息を飲んだ。
「田島くんって、思ってたより……」
「なに?」
「……優しい人なんだね」
言葉の終わりと同時に、彼女の視線が落ちて、そして僕の肩に頭を預けた。
静かに流れる時間。外では風の音だけが響いていた。
抱き寄せるように腕を回すと、彼女は抵抗しなかった。
それどころか、そっと僕の胸のあたりを掴むようにして、
小さく「……こんな風に誰かに触れたの、久しぶり」と呟いた。
唇が触れるのは、時間の問題だった。
それは激情ではなく、ずっと奥底に沈んでいた想いが、ゆっくり浮かび上がっていくような感覚。
お互いの体温を確かめ合いながら、やがて静かに唇が重なった。
数秒、いや、もっと長かったかもしれない。
離れたあと、彼女は小さく微笑んだ。
「この作家、恋愛の場面ってほとんど書かないけど……たぶん、今みたいな“静かな瞬間”を描きたかったんだと思う」
僕は息を整えながら、「たしかに」と呟いた。
――翌朝、研修最終日。
出発のバス停で、彼女が隣に立っていた。
昨夜のことを言葉にすることはなかったけれど、
目が合うたび、静かに微笑みが交わった。
バスが動き出すとき、彼女が小さく言った。
「ねえ、今度……東京に戻ったら、あの古本屋みたいな店、一緒に行こう」
窓の外を見ながら、僕は心の中で答えた。
――あの夜を、“偶然”のまま終わらせたくない。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる