心のすきまに【社会人恋愛短編集】

山田森湖

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研修旅行の自由時間、彼女は一人で本屋にいた

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研修旅行の自由時間、彼女は一人で本屋にいた

 地方の研修施設で迎える三日目の午後。
 昼の講義が終わり、「この後は自由時間です」という講師の声に、教室の空気がふっと緩んだ。
 同期たちは誰もが、観光地やカフェ、温泉の話で盛り上がっていた。
 僕は特に予定もなく、宿のロビーでコーヒーを飲みながら外を眺めていた。
 曇り空の向こうに、商店街の看板がいくつも並んでいる。ふと、あの中に古本屋があると聞いたことを思い出した。

 気分転換に行ってみようかと思い、スマホの地図を頼りに歩き出した。
 宿から少し離れた通りに、小さな古本屋があった。
 木製の引き戸、少し色あせた「文藝書・思想書・絵本」という文字。
 戸を開けると、ほのかに紙と埃の匂いが混ざった空気が鼻をくすぐる。

 そして、視線の先に、彼女がいた。

 背を少し丸めて、文庫コーナーの棚を眺めていたのは、同期の佐伯だった。
 普段はあまり話したことがない。グループ行動よりも一人でいることが多く、どちらかといえば“静かな人”という印象だった。

 彼女も僕に気づいて、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……あ、田島くん」
「偶然だね。ここに来てたんだ」
「うん。静かで落ち着く場所、探してたら……ここに」

 言葉を交わすと、店内の空気が妙に近く感じた。
 周囲には誰もいない。ページをめくる紙の音だけが響く。

 棚の前で、彼女が一冊の文庫を手に取る。
 表紙には、僕もよく知る作家の名前があった。
「それ、好きなの?」と尋ねると、彼女は少し迷ってから小さく頷いた。
「……この作家、誰にも言ったことないけど、ずっと好き。言うと、ちょっと“重い”って思われる気がして」
 僕は笑って首を振った。
「いや、わかるよ。僕もその人の描く“孤独の描写”、すごく刺さる」
 その瞬間、彼女が目を見開いた。
 まるで、思いもよらないところで“自分を理解する人”に出会ったような顔だった。

 気づけば、僕らは並んで店の奥へと歩いていた。
 詩集、短編集、装丁の話。
 普段の研修では出てこないような話題ばかりが、自然と続いた。
 彼女の声は小さいけれど、言葉の一つひとつに芯があった。

 やがて、古い柱時計が午後五時を告げた。
 店を出ると、夕陽が差し込み、通りが金色に染まっていた。

 歩道の端で、彼女が少しだけ肩を寄せてきた。
「ねえ……田島くん、今夜の懇親会、出る?」
「一応、顔は出すつもり。佐伯さんは?」
「……あんまり、ああいう賑やかなの苦手で。部屋で読書してようかな」
 彼女の声はかすかに風に溶けて、僕の心をくすぐった。

 ――そのあと。

 夜の懇親会を早々に抜け出し、廊下を歩いていると、客室の前に明かりが漏れていた。
 何気なくその前を通ったとき、ドアが少し開いて、中から彼女が顔を出した。

「……やっぱり、来た」
 小さく笑うその表情に、僕は言葉を失った。
「来た、って……?」
「なんとなく、そんな気がしてた」

 誘われるように中へ入ると、部屋は小さなデスクランプの光だけ。
 机の上には、昼間話していたあの作家の本が開かれていた。

「続きを、読んでたの?」
「うん。でも、さっきの会話がずっと頭に残ってて……ページ、進まなくて」
 その言葉に、僕の心拍が静かに速くなる。

 ソファに腰を下ろすと、彼女も隣に座った。
 距離はほんの数センチ。
 彼女の髪から、ほのかなシャンプーの匂いがした。
 指先が、同じページに触れる。
 触れた瞬間、どちらともなく息を飲んだ。

「田島くんって、思ってたより……」
「なに?」
「……優しい人なんだね」

 言葉の終わりと同時に、彼女の視線が落ちて、そして僕の肩に頭を預けた。
 静かに流れる時間。外では風の音だけが響いていた。

 抱き寄せるように腕を回すと、彼女は抵抗しなかった。
 それどころか、そっと僕の胸のあたりを掴むようにして、
 小さく「……こんな風に誰かに触れたの、久しぶり」と呟いた。

 唇が触れるのは、時間の問題だった。
 それは激情ではなく、ずっと奥底に沈んでいた想いが、ゆっくり浮かび上がっていくような感覚。
 お互いの体温を確かめ合いながら、やがて静かに唇が重なった。

 数秒、いや、もっと長かったかもしれない。
 離れたあと、彼女は小さく微笑んだ。
「この作家、恋愛の場面ってほとんど書かないけど……たぶん、今みたいな“静かな瞬間”を描きたかったんだと思う」
 僕は息を整えながら、「たしかに」と呟いた。

 ――翌朝、研修最終日。

 出発のバス停で、彼女が隣に立っていた。
 昨夜のことを言葉にすることはなかったけれど、
 目が合うたび、静かに微笑みが交わった。

 バスが動き出すとき、彼女が小さく言った。
「ねえ、今度……東京に戻ったら、あの古本屋みたいな店、一緒に行こう」

 窓の外を見ながら、僕は心の中で答えた。
――あの夜を、“偶然”のまま終わらせたくない。
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