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社内コンテストの打ち上げで、彼女は泣いていた
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社内コンテストの打ち上げで、彼女は泣いていた
年度末に行われた社内プレゼンコンテスト。
僕は準優勝だった。
そして、優勝したのは――同期の佐伯。
打ち上げの居酒屋は、笑い声と拍手で満ちていた。
誰もが彼女のプレゼンを称賛し、上司たちが次々と乾杯を交わす。
その中心で、彼女は笑っていた。
けれど僕には、あの笑顔がどこか引きつって見えた。
みんなが二次会に流れていく頃、彼女の姿が見えなくなった。
なんとなく気になって、店の奥の個室を覗くと――そこに彼女がいた。
照明が少し暗い個室の隅で、彼女は一人、グラスを見つめていた。
「……おめでとう」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「田島くん……まだ帰ってなかったんだ」
「みんな二次会に行ったよ。君は?」
「行く気になれなくて」
笑っているようで、どこか影のある表情。
僕は隣に腰を下ろし、黙って同じ酒を注文した。
「優勝、おめでとう。本当に、すごかったよ」
「ありがとう。でも……」
「でも?」
「……本当は、あなたにだけは勝ちたくなかった」
静寂の中で、彼女の言葉が落ちる音が聞こえた気がした。
僕は、何も返せなかった。
彼女は小さく息を吐き、目を伏せた。
「自分でもわからないの。あなたのプレゼン、すごく良かった。聞いてて、胸が熱くなった。なのに、勝ちたいって思ってた。勝ったらきっと、あなたが笑ってくれると思ってたのに……」
彼女の声が、かすかに震えていた。
僕は黙って、テーブルの上に手を置いた。
その手のすぐ横に、彼女の指があった。
触れそうで、触れられない距離。
「悔しいのは、僕のほうだよ」
「……どうして?」
「君の努力、ずっと見てた。毎朝、誰より早く出社して、夜遅くまで練習してた。負けて悔しいけど、そんな君に惹かれてた。だから、複雑なんだ」
彼女がゆっくり顔を上げた。
その目は、涙で少しだけ滲んでいた。
「惹かれてたって……そんなこと、今さら言わないでよ」
グラスの中の氷が、カランと音を立てた。
僕は言葉を探したが、何も見つからなかった。
代わりに、彼女が小さく笑った。
「ねえ、覚えてる? 初めて一緒に残業した夜。あなた、私のプレゼンのスライド直してくれたよね」
「ああ。あのとき、君、泣きそうだった」
「泣いたよ。悔しくて。でも、あのときあなたが“自分の言葉を信じろ”って言ってくれたの、今も覚えてる」
彼女はそう言って、グラスを置いた。
そして、テーブルの下で、そっと僕の手に触れた。
その温度に、呼吸が止まりそうになった。
「……ねえ田島くん。負けた人と勝った人が、同じ夜に同じ気持ちになってるって、変だね」
「たぶん、それだけ真剣だったんだよ」
「ううん、違うと思う」
彼女は少しだけ身を乗り出して、僕の目を見つめた。
「きっと私たち、勝ち負けよりも……お互いを見てたんだと思う」
その距離のまま、彼女がそっと僕の肩に頭を預けた。
髪が頬に触れる。
香水ではない、彼女自身の匂いがした。
触れたい。けれど、触れたら戻れない。
そんな迷いが、胸の奥でせめぎ合っていた。
「このまま……何もなかったことにする?」
彼女の声が小さく響いた。
僕は息を飲んだ。
「それでいいの?」
「……よくない。でも、今のままも、壊したくない」
沈黙のあと、彼女がゆっくり僕の手を握った。
その指は少し震えていた。
「田島くん。もし私が泣いてたら、それは悔しいからじゃなくて……」
そこまで言って、彼女は唇を噛んだ。
「怖いんだ。あなたを好きになってしまいそうで」
僕はその言葉に、何も言えなかった。
ただ、彼女の手を強く握り返した。
誰もいない個室。
酒の匂いと、彼女の息遣いだけが混ざり合っていく。
唇が触れそうになった瞬間、
彼女が小さく首を振った。
「……ダメだね。今、泣いたら全部崩れる」
そう言って、彼女はそっと立ち上がった。
涙が一粒、テーブルに落ちた。
僕は立ち上がれなかった。
彼女の背中を見送ることしか、できなかった。
個室のドアが静かに閉まる。
グラスの中の氷が、溶けきっていた。
――あの夜、僕は何も言えなかった。
彼女の涙の意味も、触れられなかった指のぬくもりも、
今でも、思い出すたび胸が痛む。
けれど、ひとつだけ確かに言える。
彼女が流した涙の中に、僕の想いも溶けていた。
年度末に行われた社内プレゼンコンテスト。
僕は準優勝だった。
そして、優勝したのは――同期の佐伯。
打ち上げの居酒屋は、笑い声と拍手で満ちていた。
誰もが彼女のプレゼンを称賛し、上司たちが次々と乾杯を交わす。
その中心で、彼女は笑っていた。
けれど僕には、あの笑顔がどこか引きつって見えた。
みんなが二次会に流れていく頃、彼女の姿が見えなくなった。
なんとなく気になって、店の奥の個室を覗くと――そこに彼女がいた。
照明が少し暗い個室の隅で、彼女は一人、グラスを見つめていた。
「……おめでとう」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「田島くん……まだ帰ってなかったんだ」
「みんな二次会に行ったよ。君は?」
「行く気になれなくて」
笑っているようで、どこか影のある表情。
僕は隣に腰を下ろし、黙って同じ酒を注文した。
「優勝、おめでとう。本当に、すごかったよ」
「ありがとう。でも……」
「でも?」
「……本当は、あなたにだけは勝ちたくなかった」
静寂の中で、彼女の言葉が落ちる音が聞こえた気がした。
僕は、何も返せなかった。
彼女は小さく息を吐き、目を伏せた。
「自分でもわからないの。あなたのプレゼン、すごく良かった。聞いてて、胸が熱くなった。なのに、勝ちたいって思ってた。勝ったらきっと、あなたが笑ってくれると思ってたのに……」
彼女の声が、かすかに震えていた。
僕は黙って、テーブルの上に手を置いた。
その手のすぐ横に、彼女の指があった。
触れそうで、触れられない距離。
「悔しいのは、僕のほうだよ」
「……どうして?」
「君の努力、ずっと見てた。毎朝、誰より早く出社して、夜遅くまで練習してた。負けて悔しいけど、そんな君に惹かれてた。だから、複雑なんだ」
彼女がゆっくり顔を上げた。
その目は、涙で少しだけ滲んでいた。
「惹かれてたって……そんなこと、今さら言わないでよ」
グラスの中の氷が、カランと音を立てた。
僕は言葉を探したが、何も見つからなかった。
代わりに、彼女が小さく笑った。
「ねえ、覚えてる? 初めて一緒に残業した夜。あなた、私のプレゼンのスライド直してくれたよね」
「ああ。あのとき、君、泣きそうだった」
「泣いたよ。悔しくて。でも、あのときあなたが“自分の言葉を信じろ”って言ってくれたの、今も覚えてる」
彼女はそう言って、グラスを置いた。
そして、テーブルの下で、そっと僕の手に触れた。
その温度に、呼吸が止まりそうになった。
「……ねえ田島くん。負けた人と勝った人が、同じ夜に同じ気持ちになってるって、変だね」
「たぶん、それだけ真剣だったんだよ」
「ううん、違うと思う」
彼女は少しだけ身を乗り出して、僕の目を見つめた。
「きっと私たち、勝ち負けよりも……お互いを見てたんだと思う」
その距離のまま、彼女がそっと僕の肩に頭を預けた。
髪が頬に触れる。
香水ではない、彼女自身の匂いがした。
触れたい。けれど、触れたら戻れない。
そんな迷いが、胸の奥でせめぎ合っていた。
「このまま……何もなかったことにする?」
彼女の声が小さく響いた。
僕は息を飲んだ。
「それでいいの?」
「……よくない。でも、今のままも、壊したくない」
沈黙のあと、彼女がゆっくり僕の手を握った。
その指は少し震えていた。
「田島くん。もし私が泣いてたら、それは悔しいからじゃなくて……」
そこまで言って、彼女は唇を噛んだ。
「怖いんだ。あなたを好きになってしまいそうで」
僕はその言葉に、何も言えなかった。
ただ、彼女の手を強く握り返した。
誰もいない個室。
酒の匂いと、彼女の息遣いだけが混ざり合っていく。
唇が触れそうになった瞬間、
彼女が小さく首を振った。
「……ダメだね。今、泣いたら全部崩れる」
そう言って、彼女はそっと立ち上がった。
涙が一粒、テーブルに落ちた。
僕は立ち上がれなかった。
彼女の背中を見送ることしか、できなかった。
個室のドアが静かに閉まる。
グラスの中の氷が、溶けきっていた。
――あの夜、僕は何も言えなかった。
彼女の涙の意味も、触れられなかった指のぬくもりも、
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けれど、ひとつだけ確かに言える。
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