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先輩の送別会で、彼女は泣いた
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先輩の送別会で、彼女は泣いた
先輩の送別会なんて、何度も見送ってきたはずだった。
でも今日だけは、少しだけ違う。
会社の居酒屋フロア、ざわつく笑い声とグラスの音。
僕の視線は、ずっとひとりの人に向かっていた。
営業部の先輩、麻衣さん。
僕が入社したときから、ずっと憧れていた人。
上司に怒られても、彼女だけは庇ってくれた。
会議で詰まると、さりげなくフォローしてくれる。
それが嬉しくて、でもどこか寂しかった。
彼女は、僕にとって“会社の光”みたいな存在だった。
「田島くん、ビールいる?」
麻衣さんがグラスを差し出す。
「はい、注ぎます」
「ありがと。……そういうとこ、ほんと真面目だよね」
その笑顔が、酔いよりも心に効いた。
もうすぐこの人は、ここからいなくなる。
転職。理由は「環境を変えたくなったから」。
だけど、誰もが気づいていた。彼女がこの職場で、少し疲れていたことに。
夜も更けて、同僚たちが少しずつ帰り始める。
最後に残ったのは、僕と麻衣さん、そして人事の課長。
課長が「もう一軒いく?」と聞くと、麻衣さんは笑って首を振った。
「ごめんなさい、今日はもう十分飲みました」
課長が会計を済ませて出ていくと、店内には僕らだけが残った。
流れるBGMと、グラスの中で揺れる氷の音。
静かな間が、妙に心地よくて、でも少し怖かった。
「田島くん、なんか言いたそうだね」
「え……いえ、そんな」
「本当? なんか、ずっと見られてた気がするよ」
彼女はそう言って笑った。
けれど、その笑顔の端が少し震えていた。
「寂しいです。麻衣さんがいなくなるの」
その言葉が、思っていたよりもずっと素直に口から出た。
麻衣さんは驚いたように目を見開き、そしてゆっくりと笑った。
「ありがと。そう言ってもらえるの、嬉しい」
グラスを置いた彼女の指先が、微かに僕の手に触れた。
偶然か、それとも。
その一瞬で、酔いが一気に醒めた。
「……田島くん、覚えてる? 一年前、あの展示会のとき」
「はい」
「あなたが大雨の中、資料抱えて走ってきた日。あれ見てね、すごく嬉しかったの」
「嬉しかった?」
「うん。あのとき思ったの。あ、この子、ちゃんと頑張ってるなって」
“この子”。
その言葉に少し引っかかる自分がいた。
「俺、麻衣さんのこと……ずっと尊敬してました」
「……うん、ありがとう」
「でも、尊敬だけじゃなくて」
そこまで言って、口が止まった。
麻衣さんが静かに僕を見つめている。
その目は、いつもの上司の目じゃなかった。
「田島くん」
「はい」
「言わなくていいよ。今は」
彼女は微笑みながら、グラスを空けた。
でもその笑顔の奥に、ほんの少し涙が光っていた。
「送っていきます」
「……うん、ありがとう」
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
繁華街のネオンが滲んで、通りにはタクシーの灯が揺れる。
麻衣さんは小さく息を吐いた。
「やっぱり、泣いちゃうね。最後って」
「泣いていいですよ」
「だめだよ、先輩が泣いたら、かっこ悪いじゃん」
「俺は……泣いてくれて、嬉しいです」
言葉がこぼれた瞬間、彼女の表情が少しだけ崩れた。
そして、僕の胸に額を預けた。
肩に伝わる体温。
髪に触れると、ふっと柔軟剤の匂いがした。
彼女の指が、僕のシャツをぎゅっと掴む。
「ずるいね、田島くん。そう言われたら、離れたくなくなる」
「離れなくていいですよ」
「……ダメだよ」
彼女はそう言いながらも、僕の胸の中から動かなかった。
夜の街のざわめきが遠ざかる。
ただ、静かな呼吸だけが重なった。
「麻衣さん」
「……なに?」
「名前で、呼んでもいいですか」
「ふふ、もう呼んでるじゃん」
「違います。苗字じゃなくて」
少し間があって、彼女は顔を上げた。
涙で濡れた目が、街灯の光を反射してきらめいていた。
「……いいよ。呼んで」
「……麻衣」
その名を呼ぶと、彼女は微笑んだ。
「ありがとう。……ねぇ田島くん」
「はい」
「あなたがいたから、頑張れたよ」
その言葉のあと、彼女は背伸びして僕の頬に唇を触れさせた。
ほんの一瞬、柔らかく、そして静かに。
「これでおしまいね」
「……そうですか?」
「うん。いい思い出として、ちゃんと持っていく」
彼女は笑ってタクシーに乗り込み、窓越しに手を振った。
僕はその手を見つめながら、小さく頭を下げた。
タクシーのテールランプが遠ざかる。
赤い光が消えるまで、ずっとその場に立っていた。
胸の奥が熱い。
泣きたいような、笑いたいような。
きっとこれが、恋だったんだと思う。
報われなくても、伝えきれなくても。
――それでも、出会えてよかった。
そう思いながら、僕は夜の街を一人で歩き出した。
彼女の名前を、心の中で何度も呼びながら。
先輩の送別会なんて、何度も見送ってきたはずだった。
でも今日だけは、少しだけ違う。
会社の居酒屋フロア、ざわつく笑い声とグラスの音。
僕の視線は、ずっとひとりの人に向かっていた。
営業部の先輩、麻衣さん。
僕が入社したときから、ずっと憧れていた人。
上司に怒られても、彼女だけは庇ってくれた。
会議で詰まると、さりげなくフォローしてくれる。
それが嬉しくて、でもどこか寂しかった。
彼女は、僕にとって“会社の光”みたいな存在だった。
「田島くん、ビールいる?」
麻衣さんがグラスを差し出す。
「はい、注ぎます」
「ありがと。……そういうとこ、ほんと真面目だよね」
その笑顔が、酔いよりも心に効いた。
もうすぐこの人は、ここからいなくなる。
転職。理由は「環境を変えたくなったから」。
だけど、誰もが気づいていた。彼女がこの職場で、少し疲れていたことに。
夜も更けて、同僚たちが少しずつ帰り始める。
最後に残ったのは、僕と麻衣さん、そして人事の課長。
課長が「もう一軒いく?」と聞くと、麻衣さんは笑って首を振った。
「ごめんなさい、今日はもう十分飲みました」
課長が会計を済ませて出ていくと、店内には僕らだけが残った。
流れるBGMと、グラスの中で揺れる氷の音。
静かな間が、妙に心地よくて、でも少し怖かった。
「田島くん、なんか言いたそうだね」
「え……いえ、そんな」
「本当? なんか、ずっと見られてた気がするよ」
彼女はそう言って笑った。
けれど、その笑顔の端が少し震えていた。
「寂しいです。麻衣さんがいなくなるの」
その言葉が、思っていたよりもずっと素直に口から出た。
麻衣さんは驚いたように目を見開き、そしてゆっくりと笑った。
「ありがと。そう言ってもらえるの、嬉しい」
グラスを置いた彼女の指先が、微かに僕の手に触れた。
偶然か、それとも。
その一瞬で、酔いが一気に醒めた。
「……田島くん、覚えてる? 一年前、あの展示会のとき」
「はい」
「あなたが大雨の中、資料抱えて走ってきた日。あれ見てね、すごく嬉しかったの」
「嬉しかった?」
「うん。あのとき思ったの。あ、この子、ちゃんと頑張ってるなって」
“この子”。
その言葉に少し引っかかる自分がいた。
「俺、麻衣さんのこと……ずっと尊敬してました」
「……うん、ありがとう」
「でも、尊敬だけじゃなくて」
そこまで言って、口が止まった。
麻衣さんが静かに僕を見つめている。
その目は、いつもの上司の目じゃなかった。
「田島くん」
「はい」
「言わなくていいよ。今は」
彼女は微笑みながら、グラスを空けた。
でもその笑顔の奥に、ほんの少し涙が光っていた。
「送っていきます」
「……うん、ありがとう」
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
繁華街のネオンが滲んで、通りにはタクシーの灯が揺れる。
麻衣さんは小さく息を吐いた。
「やっぱり、泣いちゃうね。最後って」
「泣いていいですよ」
「だめだよ、先輩が泣いたら、かっこ悪いじゃん」
「俺は……泣いてくれて、嬉しいです」
言葉がこぼれた瞬間、彼女の表情が少しだけ崩れた。
そして、僕の胸に額を預けた。
肩に伝わる体温。
髪に触れると、ふっと柔軟剤の匂いがした。
彼女の指が、僕のシャツをぎゅっと掴む。
「ずるいね、田島くん。そう言われたら、離れたくなくなる」
「離れなくていいですよ」
「……ダメだよ」
彼女はそう言いながらも、僕の胸の中から動かなかった。
夜の街のざわめきが遠ざかる。
ただ、静かな呼吸だけが重なった。
「麻衣さん」
「……なに?」
「名前で、呼んでもいいですか」
「ふふ、もう呼んでるじゃん」
「違います。苗字じゃなくて」
少し間があって、彼女は顔を上げた。
涙で濡れた目が、街灯の光を反射してきらめいていた。
「……いいよ。呼んで」
「……麻衣」
その名を呼ぶと、彼女は微笑んだ。
「ありがとう。……ねぇ田島くん」
「はい」
「あなたがいたから、頑張れたよ」
その言葉のあと、彼女は背伸びして僕の頬に唇を触れさせた。
ほんの一瞬、柔らかく、そして静かに。
「これでおしまいね」
「……そうですか?」
「うん。いい思い出として、ちゃんと持っていく」
彼女は笑ってタクシーに乗り込み、窓越しに手を振った。
僕はその手を見つめながら、小さく頭を下げた。
タクシーのテールランプが遠ざかる。
赤い光が消えるまで、ずっとその場に立っていた。
胸の奥が熱い。
泣きたいような、笑いたいような。
きっとこれが、恋だったんだと思う。
報われなくても、伝えきれなくても。
――それでも、出会えてよかった。
そう思いながら、僕は夜の街を一人で歩き出した。
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