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出張先のホテルで、同期の彼女と同じ部屋だった
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出張先のホテルで、同期の彼女と同じ部屋だった
地方出張なんて、たいていは面倒なものだ。
資料の準備、客先との段取り、終わらないメールの処理。
だけど今回は、少しだけ違った。同行メンバーに“あいつ”がいたからだ。
同期の美月。
入社して三年、何度も同じチームになったけれど、ちゃんと二人で話したことはあまりない。
まじめで、でも笑うと子どもみたいに顔がほころぶ。男の先輩たちに人気があるのもわかる。
僕にとっては、少し眩しすぎる存在だった。
出張の目的は地方支社のシステム導入サポート。
到着したのは夕方、ホテルにチェックインする頃にはすでに外は薄暗かった。
フロントで名前を告げると、受付の女性が困ったような顔をした。
「申し訳ありません、手配の関係でお部屋が一室しか……」
美月と目が合う。
冗談みたいなミスに、一瞬、時が止まった。
「どうする? 別のホテル探す?」
彼女が小声で言う。
「この辺、空いてないみたいですよ」
フロントの女性が申し訳なさそうに続ける。
結局、僕らは“同室”で泊まることになった。
部屋に入ると、ツインベッドが並んでいた。
まだ救いがある――そう思いかけた瞬間、美月がベッドの端に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「なんか、ドラマみたいだね」
「そうですね。笑えないけど」
笑い合いながらも、互いの視線はすぐに逸れた。
夕食はコンビニで買ったお弁当。
テレビをつけても、話題はほとんど仕事のことばかり。
でも、酔いも手伝ってか、少しずつ空気が変わっていくのを感じた。
「ねぇ、桐生くんって、昔からそうなの?」
「そうって?」
「なんでも我慢しちゃう感じ」
ドキリとした。
「そう見えます?」
「うん。今日も、支社長の無茶ぶり、ちゃんと飲み込んでたでしょ」
「まぁ、波風立てたくなくて」
「そういうとこ、優しいよね。でも……損してると思う」
彼女の声が少しだけ低くなった。
缶ビールを口に運びながら、視線が重なる。
そのまま、何か言葉を探していた僕の胸の鼓動が、妙に大きく響いた。
「美月さんは、我慢しないタイプですよね」
「ううん、してるよ。今日も」
「え?」
「……こうやって、同じ部屋にいても、何も起こらないの、我慢してる」
その言葉に、息が止まった。
彼女は笑っている。でも、その目は笑っていなかった。
照明の柔らかい光の中で、ほんの少しだけ震えていた。
「冗談です」
そう言って立ち上がり、彼女はバスルームに消えた。
シャワーの音が響く。
僕は動けなかった。
心のどこかで“何も起きないほうがいい”とわかっている。
だけど、彼女の言葉が頭から離れない。
――我慢してる。
シャワーが止まった。
美月は白いバスローブ姿で出てきた。
濡れた髪をタオルで拭きながら、何気ない声で言う。
「桐生くん、お風呂どうぞ」
視線を逸らそうとしたけれど、無理だった。
襟元から覗く鎖骨のライン。バスローブの裾から覗く足。
そのすべてが、現実味を帯びすぎていた。
「……美月さん」
「ん?」
「なんで、さっき“冗談です”って言ったんですか?」
彼女はタオルを止め、こちらを見た。
しばらく沈黙が続いたあと、ふっと笑った。
「桐生くんが、そういうの、してこない人だって知ってるから」
「もし、したら?」
「……どうだろ。嫌じゃない、かもね」
心臓の音が、うるさいほど響いた。
気づけば、僕は立ち上がっていた。
でも、彼女の前で立ち止まり、拳を握りしめた。
触れたい。でも触れたら、戻れなくなる。
僕は、ただ彼女の目を見つめることしかできなかった。
「やっぱり、桐生くんは優しいね」
そう言って彼女は、ほんの少し寂しそうに笑った。
夜は静かに過ぎていった。
ベッドの間の距離は、たった一歩分。
眠れないまま、天井を見上げていると、彼女の寝息が微かに聞こえた。
翌朝、チェックアウトの時。
フロントで彼女が笑って言った。
「やっぱり、あなたなら何もしてこないと思ってた」
「……そう見えます?」
「うん。でも、それが桐生くんらしいよ」
そう言って、彼女は少しだけ目を細めた。
その表情が、やけに優しくて、少しだけ残酷だった。
帰りの新幹線の窓から、流れる景色をぼんやり見つめながら思う。
僕は、何を我慢したんだろう。
彼女の言葉を信じた“優しさ”か。
それとも、自分の中にあった“衝動”か。
わからないまま、ただ遠ざかる街を見送った。
そして今も、彼女の声が耳に残っている。
――「嫌じゃない、かもね」
その一言が、何度も何度も、頭の中で反響する。
地方出張なんて、たいていは面倒なものだ。
資料の準備、客先との段取り、終わらないメールの処理。
だけど今回は、少しだけ違った。同行メンバーに“あいつ”がいたからだ。
同期の美月。
入社して三年、何度も同じチームになったけれど、ちゃんと二人で話したことはあまりない。
まじめで、でも笑うと子どもみたいに顔がほころぶ。男の先輩たちに人気があるのもわかる。
僕にとっては、少し眩しすぎる存在だった。
出張の目的は地方支社のシステム導入サポート。
到着したのは夕方、ホテルにチェックインする頃にはすでに外は薄暗かった。
フロントで名前を告げると、受付の女性が困ったような顔をした。
「申し訳ありません、手配の関係でお部屋が一室しか……」
美月と目が合う。
冗談みたいなミスに、一瞬、時が止まった。
「どうする? 別のホテル探す?」
彼女が小声で言う。
「この辺、空いてないみたいですよ」
フロントの女性が申し訳なさそうに続ける。
結局、僕らは“同室”で泊まることになった。
部屋に入ると、ツインベッドが並んでいた。
まだ救いがある――そう思いかけた瞬間、美月がベッドの端に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「なんか、ドラマみたいだね」
「そうですね。笑えないけど」
笑い合いながらも、互いの視線はすぐに逸れた。
夕食はコンビニで買ったお弁当。
テレビをつけても、話題はほとんど仕事のことばかり。
でも、酔いも手伝ってか、少しずつ空気が変わっていくのを感じた。
「ねぇ、桐生くんって、昔からそうなの?」
「そうって?」
「なんでも我慢しちゃう感じ」
ドキリとした。
「そう見えます?」
「うん。今日も、支社長の無茶ぶり、ちゃんと飲み込んでたでしょ」
「まぁ、波風立てたくなくて」
「そういうとこ、優しいよね。でも……損してると思う」
彼女の声が少しだけ低くなった。
缶ビールを口に運びながら、視線が重なる。
そのまま、何か言葉を探していた僕の胸の鼓動が、妙に大きく響いた。
「美月さんは、我慢しないタイプですよね」
「ううん、してるよ。今日も」
「え?」
「……こうやって、同じ部屋にいても、何も起こらないの、我慢してる」
その言葉に、息が止まった。
彼女は笑っている。でも、その目は笑っていなかった。
照明の柔らかい光の中で、ほんの少しだけ震えていた。
「冗談です」
そう言って立ち上がり、彼女はバスルームに消えた。
シャワーの音が響く。
僕は動けなかった。
心のどこかで“何も起きないほうがいい”とわかっている。
だけど、彼女の言葉が頭から離れない。
――我慢してる。
シャワーが止まった。
美月は白いバスローブ姿で出てきた。
濡れた髪をタオルで拭きながら、何気ない声で言う。
「桐生くん、お風呂どうぞ」
視線を逸らそうとしたけれど、無理だった。
襟元から覗く鎖骨のライン。バスローブの裾から覗く足。
そのすべてが、現実味を帯びすぎていた。
「……美月さん」
「ん?」
「なんで、さっき“冗談です”って言ったんですか?」
彼女はタオルを止め、こちらを見た。
しばらく沈黙が続いたあと、ふっと笑った。
「桐生くんが、そういうの、してこない人だって知ってるから」
「もし、したら?」
「……どうだろ。嫌じゃない、かもね」
心臓の音が、うるさいほど響いた。
気づけば、僕は立ち上がっていた。
でも、彼女の前で立ち止まり、拳を握りしめた。
触れたい。でも触れたら、戻れなくなる。
僕は、ただ彼女の目を見つめることしかできなかった。
「やっぱり、桐生くんは優しいね」
そう言って彼女は、ほんの少し寂しそうに笑った。
夜は静かに過ぎていった。
ベッドの間の距離は、たった一歩分。
眠れないまま、天井を見上げていると、彼女の寝息が微かに聞こえた。
翌朝、チェックアウトの時。
フロントで彼女が笑って言った。
「やっぱり、あなたなら何もしてこないと思ってた」
「……そう見えます?」
「うん。でも、それが桐生くんらしいよ」
そう言って、彼女は少しだけ目を細めた。
その表情が、やけに優しくて、少しだけ残酷だった。
帰りの新幹線の窓から、流れる景色をぼんやり見つめながら思う。
僕は、何を我慢したんだろう。
彼女の言葉を信じた“優しさ”か。
それとも、自分の中にあった“衝動”か。
わからないまま、ただ遠ざかる街を見送った。
そして今も、彼女の声が耳に残っている。
――「嫌じゃない、かもね」
その一言が、何度も何度も、頭の中で反響する。
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