森へ消えた悪役令嬢

ともえなこ

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「殿下、次の公務の予定でございます」

側近が厚い書類を差し出すが、ハロルドの表情は浮かない。ここ数日、彼は何をしていても気持ちが晴れないままだ。

「わかった。机に置いておいてくれ」

低い声でそう言うと、側近は深く一礼して執務室を後にする。広々とした室内に戻った静寂。ハロルドは眉間にシワを寄せながら、自分の胸に手を当てる。

「……やはり気になる。あれだけ大きな騒ぎになったグレイスが、今どこで何をしているのか」

彼が感じるのは罪悪感だ。あの日、公の場で婚約破棄を言い渡したときのグレイスの表情が何度も蘇る。自分は本当に正しいことをしたのだろうか。その問いが頭から離れない。

「殿下、少々お時間をいただけますか」

執務室の扉が再び開き、今度は伯爵家の令嬢ソフィアが現れる。彼女は優雅に歩み寄り、ハロルドにさりげなく微笑みかけた。

「先ほど殿下のお部屋にご挨拶に伺ったのですが、お疲れのご様子だったので気になりまして」

ソフィアは気遣うような口調だが、その瞳には一瞬の揺らぎもない。王太子妃の座を狙う一人として、ハロルドへの接近を怠らない。

「……仕事が忙しいだけだ。心配には及ばない」

ハロルドは視線を外すように答える。ソフィアが申し分ない才色兼備だと知りつつも、どうしても心が動かない自分をもどかしく思っていた。

「そうですか。殿下のためにできることがあれば、いつでもお申し付けくださいね」

ソフィアは優雅に微笑むと、まるで自分の居場所を確保するようにハロルドの机のそばへ歩み寄る。その動きを見ながら、ハロルドは内心で複雑な思いを噛み締める。

「わかった。お気遣い感謝する」

曖昧な返事で終わらせると、ソフィアは一礼して執務室を出ていく。その際、彼女の瞳にはわずかな不満が滲んでいたが、ハロルドは気づかないふりをした。

「……ああ、グレイス」

心の中でその名を呼びながら、ハロルドは拳を固める。冷たく突き放したのは自分自身。だが、いつしか彼女が笑顔で支えてくれていた日々を思い返すたび、胸が締め付けられるのだ。

「私が見誤ったのか。それとも、彼女は本当に……」

確かに、グレイスに対する悪い噂は絶えなかった。けれど、彼女自身が直接誰かを陥れた証拠を見たわけではない。周囲の声に流されて、自分は安易に婚約破棄を決行してしまったのではないか。そう考えるほど、ハロルドは後悔が募る。

「もし、もう一度会えたならば、何か言葉をかけられるのだろうか」

その問いかけに答える者は誰もいない。エルメラルド家は混乱し、グレイスの妹シャーロットが何か行動を起こしていると噂される。だが、王太子として簡単に動くことはできない。宮廷の圧力と、ソフィアをはじめとする令嬢たちの存在を考えれば、自分から事を荒立てるのは難しいというのが現実だった。

ハロルドは深いため息をつく。デスクの上の書類に目を通そうとしても集中できず、頭を抱えるようにうなだれる。婚約破棄を告げたときの彼女の瞳が、まざまざと浮かぶ。後悔と迷いに苛まれ続ける王太子。その姿は、王宮の華やかさとは裏腹に、どうしようもなく孤独だった。
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