ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり

柳内たくみ

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外伝3黄昏の竜騎士伝説編

外伝3黄昏の竜騎士伝説編-3

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 組合の事務所は、職員が全員帰宅してしまったため真っ暗だった。

「テュカ。ヨウジィは、どこにいるのぉ?」
「応接間のソファーに寝かしつけてきたわ」

 そんな所に、ロゥリィ、テュカ、レレイ、ヤオ、ジゼルの五人が抜き足差し足、音を立てないように忍び込む。普段の伊丹なら静音魔法でも使わなければ、目を覚ましてしまう。だが今宵ばかりは疲れのせいか深く深く寝入っていた。
 やがて五人は、伊丹が毛布をかぶって横たわるソファーを取り囲んだ。
 窓から差し込む月明かりに照らされた伊丹の寝顔を見れば、眉間に深い皺が刻み込まれていた。「う~、う~」と苦しそうにしているところを見ると、何か悪い夢でも見ているのかも知れない。
 ロゥリィは伊丹の額に手を置くとしわをなんとか伸ばそうとする。だが、おでこの皮膚ひふを引っ張った程度でどうにか出来るはずもなく、無理と諦めてすぐに顔を上げた。

「さて……どうするのぉ?」

 するとレレイが一緒に眠ろうとしてか、伊丹の懐で丸くなろうとしていた。

「ちょ、ちょっとレレイ! 何うらやましいぃことしようとしているのよぉ! ってヤオ、あんたはなんで服を脱ごうとしているのぉ?」
「あ、いや、つい」

 前述したように耳の良い伊丹は側に近づくと大抵、目を覚ましてしまう。なのでこんな無防備な姿を見ることはなかなか出来ない。そのため二人もついつい暴走してしまったようだ。
 ロゥリィは嘆息すると、レレイとヤオを伊丹から引き離した。

「ああ、もう。テュカぁ、さっさと済ませてちょうだぁい」
「はいはい、ちょっと待っててね」

 テュカは「コホン」と咳払いして呼吸を整えると、静かにうたうような呪文を唱え始めた。

「ring ring ring……」

 それは唄うような、というより歌そのものだった。
 意思ある精霊に手伝いを求める呪文は、その対象となる精霊や求める効果によって、呪句だけでなく詠唱の響きが大切となる。攻撃魔法なら単節に強く、裂帛れっぱくの気合いを込めて、というわけだ。
 何かと反抗的な魔種を相手にする時は、弱気は禁物。女王様的に上から目線できっぱりと命令を放たなければならない。

「mojat fyujat farrute Narucowss!」

 すると伊丹の頭上に薄緑色の光が浮かんだ。

「ssirjyun!」

 光球はゆっくりと伊丹に下りて行き、やがて伊丹自身を包み込んだ。

「ssirjyun! ssirjyun!」

 テュカが命令を重ねる。すると寝苦しそうにしていた伊丹の表情が、みるみるうちに柔らかくなっていった。
「さて……では問うわよ」とテュカ。

「イタミ。お前が一番愛しているのは誰だ?」

 横合いから突然発せられた問いに、ロゥリィ、テュカ、レレイ、ヤオの背筋に戦慄せんりつが走った。
 それは誰もが問いたいと思いつつも、出来ないでいたことだからである。そんな質問をこの四人がそろっている中で発するなど爆弾を放り込んだに等しい。

「げ、猊下。あなたはなんということを!」

 ヤオが質問者を睨み付けた。だがジゼルは知らんがなと言わんばかりにそっぽを向く。

「そ、それは……」

 譫言うわごとのごとく口を開く伊丹。皆の視線はジゼルから伊丹へと向かった。

「それは誰?」
「エミュリナ……」
「えみゅりなって誰よ!?」

 初めて聞く名前に騒然とする女性達。四人とも、もしそのエミュリナが、このアルヌスに住んでいたらただではおかないぞという口ぶりだった。
 だが、伊丹は続けた。

「めい☆コンの……ヒロイン。エミュは俺の嫁……」

 などという答えが返ってくる。

「ああ、作中人物ってことね」

 四人の間に、ホッとした空気が流れた。

「おい! ここでどうして安心するんだよ! それって、あんたらが紙の女に負けてるってことなんだぞ! いいのかよ!?」

 ジゼルは四人に問いかけた。が、「そんなこと何を今更」とロゥリィは鼻を鳴らした。

「わたしぃたちの敵は強大よぉ。わたしぃ達が一人ではぁ、決して対抗できないくらいにねぇ」

「そう。私達は互いに助け合わなければならない」とレレイ。
「だから、此の身達はいがみ合うことなく手を取ることができるのだ」とヤオ。
 そして三人は心を一つにしてテュカに本題へと入るよう求めたのである。


 尋問じんもんの結果、判明したのは伊丹の心に刻まれた深刻な傷跡だった。
 それは、伊丹が幼稚園児だった頃の話。彼の通っていた幼稚園には滑り台があった。
 滑り台の遊び方にも色々あるが、子供達の間では、本来の用途である『上から下に滑り降りる』ではなく、下から上に駆け上がるという遊びが流行していたのである。
 だが、その幼稚園に備え付けられた遊具は大きな物が多く、滑り台もなんと建物の二階ほどの高さがあった。その高さを征服することは幼稚園児の身体では、いささか厳しかったのである。
 まず、くつを履いていては無理。勢いが尽きると同時に滑落かつらくしてしまう。運動能力に優れた子供が裸足になって、ようやく頂上に達することができるのだ。
 それだけにこの滑り台を上り切ることは子供達の間では名誉と見なされており、多くの子供達がこれに挑戦してはくじけ、また勇気を振り絞って挑戦しては滑落してを繰り返していたのである。
 ある日、伊丹もこの滑り台上りに挑戦した。
 滑り落ちてきた子供を衝撃から保護するための砂場ゾーンを駆け抜け、勢いをつけて上った。
 だが何度挑戦しても、下から半分くらいのところで勢いが尽きて、そのままずりずりと滑り落ちてしまう。裸足であっても、砂場を走り抜けた時に足の裏に砂がついて滑ってしまうのだ。
 そこで伊丹は、何度かの失敗の果てに滑り台のへりにしがみついた。勢いで駆け上がるのが難しいならよじ登れと思ったのだ。そして、伊丹はじわじわと少しずつ頂上へと近づいていった。
 頂上では既にこの挑戦に成功した友達が待っていた。みんなが「がんばれ、がんばれ」と声援を投げかけてくれた。伊丹は誇らしい気持ちになり、ゆっくりと、だが確実に上っていったのである。

「よー君がんばれ!」

 頂上で待っていたのは、伊丹と趣味の合う仲良しのコーちゃん(仮称)である。このコーちゃん、先生の言うことを素直に聞く、頭の切り替えがとても良い子だった。
 コーちゃんは伊丹を助けるべく手を差し伸べてくれた。伊丹も右手を懸命に伸ばした。
 あと一メートル、あと五十センチ、二十センチ。もう少しで手が触れる。ゴールが近い。
 その時、伊丹と趣味の方向性が似ていたコーちゃんは叫んだ。

「ふぁぃとー」

 伊丹もお約束に従って、滑り台の縁から左手を離して大きく立ち上がった。

「いっぱ~つ」

 二人の脳裏にあったのは、コマーシャルでおなじみの暑苦しい男と男がガッシリと手と手を組み合う瞬間の再演だ。だがその寸前――カランカランという合図の音とともに、おやつの時間ですよという幼稚園の先生達の声が響いた。
 とても素直で、切り替えの早いコーちゃんの頭の中は、その瞬間おやつで満たされた。伸ばされた伊丹の手を取ることなく、そのまま滑り降りて遊戯室へと走って行ってしまったのである。

「えっ!?」

 伊丹の手は、あえなくくうを切った。

「そ、そんなぁ」

 伊丹の足の裏は砂場の砂によって良く滑るようになっている。幼稚園児伊丹は、建物の二階分の高さから後ろ向きに転げ落ちていった。
 座って滑るなら斜面の摩擦による減速が期待できただろう。だが転がってとなると最下部につくまでに加速する一方である。その運動エネルギーは伊丹の身体が砂場を飛び越えスプリング遊具の上にまで届くほどだった。少しばかり詳しく情景を描写すると、土台がスプリングで、その上に馬をした人形を据えた遊具に、伊丹は落下したのである。

「ぐきゅ!」

 スプリング遊具は伊丹を優しく受け止めてはくれなかった。その役割通り、飛んできた伊丹をそのままの勢いで跳ね飛ばし、さらに隣のブランコを囲う鉄柵までの跳躍をもう一度体験させた。そして伊丹は、鉄柵に跨がるように二度目の落下をした。
 伊丹はその全衝撃を、股間こかんで受けた。ダメージは深刻だった。局部が腫れ上がって二日ほど入院しなければならなくなったと語れば、男性諸氏はその凄まじさをご想像いただけると思う。
 女性衆は是非とも、身近な男性に尋ねてみて頂きたい。筆者も幼少の頃、ブランコから放り出され、鉄の柵に跨がるように落下したことがあったが、それはもう、壮絶な苦しみではっきり言って死んだほうがマシ、というか、幼いながらも死んでしまいたいと思ったほどだ。
 しかも、伊丹の場合はその後の体験がまた良くなかった。幼い子供にとって病院というのは怖いところだ。白衣の先生や看護師達がかもし出す緊迫した雰囲気に呑み込まれ、「ボク、死んじゃうの?」という不安に陥ってしまったのだ。
 実は怪我をした箇所、そしてその原因を知った女性小児科医や看護師達が「笑ったら、ヨウジ君に悪いわよね」と必死になって笑いを噛み殺していただけなのだが、張りつめた(と伊丹が感じていた)空気と、笑いを堪えるが故に引きつってしまう顔は見ようによってはとても深刻に見え、伊丹の魂には深い不安と恐怖心が刻み込まれたのである。


「なるほどね」とテュカ。
「これは深刻だわぁ」とロゥリィ。

「…………」

 レレイとヤオ、ジゼルは、どうコメントしていいのか分からないらしく黙ったままだ。
 しかしながら五人とも、幼児期にこれだけの体験をすれば心に傷を負うのも当然ということは理解した。これを一朝一夕で癒やすなど、たとえ神であっても無理だ。
 恐怖症の克服は、「古典的条件付け」の解消(消去)に似る。古典的な条件付けとは、パブロフの行った実験で明らかとなったもので、犬に餌を与える時にベルの音を聞かせ続けると、ベルの音を聞くだけで犬が唾液を垂らすようになるといった現象を言う。
 不安症、あるいは恐怖症と呼ばれるものもこれで説明可能だ。つまりはきっかけとなる刺激……例えば高所の風景、鋭い刃物の先端、広い場所、あるいは皆の注目を浴びるといった刺激と、不安や恐怖、心拍数の増大、冷や汗、過呼吸といった生理的反応とが結びついてしまった現象なのだ。
 それを解消するには「きっかけ刺激」と反応の結びつきを絶たねばならない。
 先ほどのパブロフの犬の場合は、ベルを鳴らしても餌が出て来ない状態を長く続けていれば、いずれベル→唾液という結びつきが消えて行く。
 現代の精神科医が行う治療も、抗不安薬などを投与した上で、不安感や動悸どうきといった反応の発生を抑え、きっかけとなる刺激が実は何でもないことなのだと、身体に納得させるというやり方をとる。
 とは言え、これには時間が必要だ。大抵の人間は『怖いものみたさ』なところがあり、『きっかけ刺激』によって、不安や生理的反応が発生することを何度も何度も確認して条件付けを強化してしまう。そのためなかなかこの結びつきを断ち切ることができないのだ。
 言うまでもなく伊丹の回復を待つだけの暇は、今のテュカにはない。パルミア族はバーレントにいるらしいが、冬が来る前には南に向かって居所が分からなくなってしまう。そうそう時間をかけられないのだ。

「どうしよう」

 テュカは爪を噛んで呻いた。このままでは伊丹について来てもらうのは難しい。

「時間がないわねぇ」

 ロゥリィはこうなったら姑息こそく療法に頼るしかないと言った。

「姑息療法ってなに?」

 テュカの問いにジゼルは乱暴な言い回しで答える。

「要するに、精霊魔法で、こいつの恐怖感を抑え込んじまえってことさ」

 だが、テュカは浮かない顔をした。

「それ、禁忌きんきになってるんだけど」
「うむ。此の身もやめておいた方が良いと思うぞ」

 夢魔を用いて伊丹の記憶を覗くことには積極的だったヤオも、感情を麻痺まひさせることには否定的なようである。
「どうしてだい?」とジゼル。
「感情を操るのは、人格を操るのと同じだからよ。だから禁忌なの」とテュカ。
 だが、それだけでは説明が足りないと言ってヤオが付け加えた。

「それだけではないぞ。感情を抑えつけるのは草花を踏みつけるのと同じだ。少しの間なら元通りになるが、長時間にわたって重しを乗せておくと枯れてしまう。心も同じで、下手をすると物事を感じる力が鈍くなり、荒れ果てた荒野のようになってしまうのだ」
「もう少し分かりやすく言ってくれねぇかな?」
「つまり、イタミヨウジという男の、その人らしさが失われてしまうのです。猊下」
「そ、それはちょっと嫌かも」

 ヤオの解説を聞いて、ロゥリィは顔をしかめた。言葉に『ちょっと』をつけたがそれは会話上の修辞しゅうじに過ぎない。実際にはとても、大変に、大いに、嫌だ。

「そうでしょう? それに恐怖心というのは良くない感情のように思われるが実は違います。危険を避け、身を守る行動を促すための大切な情緒の一つ。それを麻痺させたら、人間はどんどん危険な方角に踏み入ってしまいます」
「やっぱりあたし、一人で行ってくる。一人で父さんを探してくる!」

 テュカは思い詰めたように叫ぶと立ち上がった。
 だがそんなテュカを捕らえる手があった。

「駄目だぞ。一人で遠くに行くなんて」

 いつの間にか目を覚ましていた伊丹であった。

「ど、どうして? ……はっ、もしかして愛の力が、ヨウジの眠りを破ってあたしを引き留めさせたのね?」
「何言ってるんだか。耳元でこれだけ騒がれたら、誰だって目を覚ますに決まってるだろ?」

 ジゼルのうそぶきも耳に入らないのか、伊丹はテュカの手を掴んだまま言った。

「テュカ。その魔法をかけることで俺が飛竜に乗れるようになるならやってくれ」
「でもそんなことしたらヨウジが、本を読んだり絵双紙を見ても面白いとか思えなくなっちゃうのよ……」
「そ、それは嫌だな……やっぱやめようかな」
「でしょ……だったらあたしが一人で行くしかないじゃない」
「けど、お父さんが死んだと思っただけで、テュカはあんな風になっちまったろ? なら一人にはさせられないよ。誰かがついてかなきゃ」

 伊丹は言った。テュカの父親が生きているとしても、それが健全を意味するとは限らない。記憶喪失。人格崩壊。身体に重い障害を負っている等々、様々な状況が考えられる。
 それによってテュカがどんなショックを受けるか、そしてどのような精神状態に陥るか。そう考えたら目を離すことなどとてもできない。皆がそれぞれの理由で忙しく、付き添うことができないのなら自分が行くしかないのだ、と。
 するとロゥリィが頷いた。

「そうねぇ。じゃあこうなさい。テュカ、精霊使役の条件を弱めて、ほうっておいても夜には解けるようにするのぉ。もちろん、必要がなくなったら出来るだけ早く精霊を退去させるのよぉ。そうすればヨウジの心にかかる負担は最小限で済むわぁ。旅の途中で様子を見てぇ、もし必要だと思ったら休みの日をとるようになさぁい」

「そっか。魔法をかけるのは、飛んでいる間だけにするのね?」とテュカ。
「重しをかけている時間を極力短くするなら、心への負担も減るな」とヤオ。

「そうすれば、ヨウジィのヨウジィらしさもなくさずに済むわぁ」
「それでいい?」

 テュカは伊丹に確認した。

「ああ。そうしてくれ」

 伊丹は覚悟を決めるように目を閉じて、大きく深呼吸した。

「じゃあ、試してみるわよ」

 テュカは皆が見ている前で、ベン・ゾジアの魔霊を呼び出し、伊丹に感情抑制の魔法をかけた。
 するとその効果は凄まじく、伊丹はたちまちきりっとした顔つきになる。唇は若干への字に、その眼光は鋭く、全てを観察し分析するような冷たさをたたえていた。

「おおっ!」

 何故かジゼルが、興奮して目の色を変えた。

「ど、どうしたの?」
「この目の輝き……ゾクゾクするぜ」

 どうやら、爬虫類はちゅうるい系の亜人の目には、冷たい態度の男が魅力的に映るらしい。

「わっ、やばい。やばいぜ。なんかこう足蹴あしげにしてくれって言いたくなっちまう。なあ、イタミ。頼みがあるんだけどさ、ちょっと、ちょっとでいいから、オレのこと踏みつけてみてくれない?」
「踏みつけてって……」

 伊丹の前に横たわろうとするジゼルを見て、テュカとヤオは盛大にどん引きした。レレイは興味津々とばかりに、しゃがんでジゼルを観察している。
 あまりのことに氷結状態に陥っていたロゥリィは、状況を理解すると再起動を果たした。

「だ、駄目よぉ!」

 感情に欠けるせいか伊丹は躊躇ためらいがない。「腰とか、尻のあたりに……」と頼まれるままにジゼルのことを遠慮なく踏みつけようとしていた。
 ロゥリィは慌てて伊丹に抱きつくと、ジゼルから引き離す。ゴツンという鈍い激突音が床と半長靴はんちょうかから発せられる。それを見てジゼルは、ああもったいないという顔をした。

「な、何でだよお姉様!? 良いじゃねぇか、減るもんじゃなし」
「減るのよぉ! ヨウジが精神的に減るのよぉ! 靴の裏も減るしぃ! だいたい今は、あんたのその変態的な嗜好しこうを満たしている時じゃないのよぉ! ヨウジィがこの状態で飛竜に乗れるかどうか確かめてぇ、すぐに魔法を解かないと!」

 ジゼルは「ちぇっ!」と盛大に舌打ちしたのだった。


「じゃあ、まずオレの背中にまたがってみな」

 ジゼルはしゃがんだ。だが、皆の冷たい視線を一身に浴び「じょ、冗談だよ」と訂正する。

「それじゃエフリーに乗ってみな」

 指図のままに、伊丹はエフリーに歩み寄りあぶみに足をかけてさっと跨がった。
 その動作に、飛竜を恐れる気持ちや気後れは微塵も感じられない。伊丹はあたかも毎日乗っている自転車に跨がるように、すっとエフリーに乗ったのである。
 するとエフリーが伊丹を、試すように身じろぎした。乗っている者を振り落とすような動きだ。
 だが伊丹は少しも慌てない。手綱を軽くたぐり、股でぎゅっとエフリーの胴を挟み、軽く腰を上げて振り落とされるのを防いだ。

「ふむ……なるほど。こうか?」

 伊丹は短く呟くとエフリーの腰をかかとで軽く叩く。するとその合図で、エフリーは大地を蹴って宙空に舞い上がった。翼を大きく広げ、空気を抱いてゆっくりと滑空を始める。
 伊丹は、飛竜エフリーを駆って夜の空を舞うことに成功したのだ。

「へぇ、凄いのねぇ」

 それを見上げてロゥリィは呟く。
 テュカもレレイも、驚いたような顔で大空を舞う伊丹を見つめた。精霊魔法の助けを得たとは言え、もう少しじたばたするかと思っていた。なのに伊丹はまるで熟練じゅくれんの竜騎士のごとく大空を翔けている。その姿に、皆が見とれた。

「よし、飛べることは分かった。一旦戻れ!」

 ジゼルの声で伊丹がゆっくりと降りてくる。
 こうして伊丹にかけられた精霊魔法は短時間で解かれた。そのため、魔霊ベン・ゾジアの長時間使用がどんな副作用を持つのか、伊丹もテュカもこの時点で知ることが出来なかったのである。


    *    *


 伊丹とテュカが出発する日がやって来た。
 街の広場には既にエフリーとイフリーの二頭が待機している。ジゼルの手で鞍や頭絡もくしといった旅装の装着を終え、テュカと伊丹が来るのを待っているのだ。
 その周りには街の皆や、倉田くらた栗林くりばやしら自衛官達が見送りと野次馬のために集まっている。

「おっ、隊長が来たぞ」

 そんな中にまず姿を現したのは、伊丹だった。
 翼竜の鱗で作られた鎧で身を固めて居心地悪そうにしている。着慣れていないせいか動作も妙にぎこちなく、鎧の中に入れられている感じになっていた。

「うひょ、すげぇや隊長。なんであんな格好してるんだ?」

 倉田が言い、栗林が答える。

「そりゃ休暇だからでしょ? 官品を私用に使うわけにはいかないんだから、こっちの防具をそろえるしかなかったんでしょ」
「でも隊長、あんな鎧、いつ用意したんだろう」

 組合の子供達が行っていた鱗の採集販売事業はもう終了した。アルヌスのあちこちに散在していた翼竜の遺骸は、全て片付いたのだ。それでも伊丹がこれを用意できたのは、組合の子供達が伊丹のおじさんのためにと、とっておきの鱗を出して仕立ててくれたからだった。
 伊丹はエフリーに近づくと、着替えや食料の入ったバッグを鞍の後ろに取り付けていった。すると自衛官達の列から、一人の陸曹が出て伊丹に近づく。

「伊丹二尉、これを……」

 差し出された紙袋に伊丹は首を傾げる。その陸曹は記憶に少ししか残っていない顔だった。

「えっと、あんたは確か……礼文れぶんって言ったっけ?」

 胸の名札をちらっと見て確認する。記憶によると特殊作戦ぐんの武器係陸曹だったはずだ。

「はい。礼文一等陸曹です。これを貴方にお渡しせよと出雲いずも隊長よりお預りしてまいりました。周りに見せないよう中をご確認後、荷物にしまって下さい」

 何が入っているのか手提げ紙袋は妙に重い。開いて見るとまず目に入ったのは、特殊作戦群でしか使われていないPDWで、ごつい携行用ホルスターに入れられた状態となっていた。先端部に真鍮しんちゅう製の薬莢やっきょうが輝く予備弾倉が五本も入っている。

「え……っとこれ何?」
「4・6㎜短機関銃(B)です。ドイツ・ヘッケラー&コッホ社製のPDW・MP7A1、愛称は『シャーリーン』です。それともう一つが散弾銃の『セレッサ』です」
「どうしてこれを俺に?」
「お忘れですか? シャーリーンもセレッサも貴方が持ってきたものです。ウチで管理してましたが、こういう時こそ員数外の武器を使えと出雲隊長がおっしゃってまして、お渡しすることにしました」
「シャリーンとか、セレッサって何?」
「シャーリーンとセレッサです。それぞれの銃の名前です。自分が命名しました」

 伊丹の記憶が間違っていなければ、セレッサはゲーム『ベヨネッタ』の主人公。シャーリーンは映画『フルメタル・ジャケット』で、その鈍臭さから微笑みデブとあだ名され、訓練に耐えられずに心を病んで、ハートマン軍曹を撃ち殺して自殺した海兵隊員が愛銃につけていた名のはず。
 銃をあたかも女性のように扱い、「可愛いよ、シャーリーン」と愛を語りながら手入れするシーンは、映画ながらゾッとした気分を味わったものである。
 伊丹はその微笑みデブが、狂気に陥って以降放っていた空気と同種のものを、この礼文一曹から感じていた。

「シャーリーンを可愛くするためにドレスアップして、アクセサリーをつけました。照準補助具としてホロサイトを装着、サプレッサーをつけてないのは、こちらでは銃が武器という認識のない土地が多いので、ただ銃口を突き付けても牽制にならないからです。威嚇するなら発砲音を鳴り響かせる方が良いという戦訓です。ホロサイトがあるのにさらにレーザーサイトを装着しているのはナンセンスに見えるでしょうが、目標の目を幻惑させたり、自分が狙われているという認識をさせるためとご理解下さい。弾倉は四十発の拡張型を六本。一本は既に装着してありますので五本見えると思います。弾は全部で二百三十七発装填済み。弾数が中途半端なのは、ゼロインの際に試射させて頂いたからです。予備弾丸も二百発入れておきましたが、こちらは持ち帰って下さるとありがたいです。セレッサですが、取り回しを良くするためとは言え、高価なイタリア・インベスターム社製二連散弾銃の銃身を中途で切断したのはもったいないことをしましたね。そこで自分なりに手を加えました。銃身をさらに詰めて、弾は非殺傷用のお手玉弾ビーンバッグを二十発用意してあります。ヘビー級のプロボクサー並みの威力でバレットアーツをかましてやれますよ。今回は好き勝手にカスタムさせてもらえて、自分はもう至福な気分です」

 ああ、そういうことか。
 伊丹は、この陸曹が銃をこよなく愛するオタクであることを悟った。研究、訓練用として東西のあらゆる軍用火器を収集、使用する特殊作戦群の武器係という役職は、彼にとってこの上なく天職であるに違いなく、それ故にの微笑みデブがごとき凶行に走ることもないのだ。

「ありがたく使わせてもらうよ」

 伊丹はそう言って、紙袋をエフリーの鞍の後ろにとりつけたバッグにしまい込んだ。アルヌスを出てしばらくしたら、腰の後ろにでもホルスターを装着することにしようと考える。
 そんな感じで礼文一曹と話をしていると、テュカがロゥリィとレレイの二人を伴ってやって来た。こちらは伊丹と違って髪をお下げにしてバンダナを巻き、下はホットパンツにジーンズ。そして長いブーツを履くという出で立ちだ。

「テュカは鎧を着ないの?」

 栗林がむき出しの足を眩しげに見ながら問いかけた。

「身体を覆っちゃうと精霊魔法を使うのに不便なの。だから胴着だけ」

 テュカはお腹のあたりのシャツをたくし上げ、下に着ているボディスーツ状の鎧を見せた。それは伊丹の物と違って、軽くて柔らかく伸び縮みし、それでいて強靱な翼竜の皮膜に、小さな鱗をわずかずつ重なるように縫い付けて作ったもの。一見するとスパンコールの下着みたいである。
 普通の弓から放たれた矢程度なら、決して貫通させることはないだろう。
 テュカが身につける武器は、コンパウンドボウと、自作の矢だ。それと腰の後ろには短めのナイフが装着されている。
 天然素材で身を包んでいることもあって、そんなテュカの姿を見た倉田は「なんかインディアンの女の子って感じ」とその印象を呟いた。

「そろそろ行こうか」

 伊丹がテュカに声をかけると、二人を呼び止める声がした。
 振り返ると、最近アルヌスに住み着いた巨大なドワーフの亜神だった。

「モーターさん、なんでしょう?」
「お嬢ちゃんの眷属けんぞくやら友人が旅に出ると聞いてな、手ぶらで行かせるわけにはいかんと、急ごしらえじゃがいろいろと用意したんじゃ。持って行くがいい」

 モーターは、青く塗装された竜槍と兜を伊丹に差し出した。
 テュカには鏑矢かぶらややじりだ。
 竜槍は伊丹の身長の二倍くらいあるが、真ん中でジョイントになっていて二つに分解して運ぶことが出来るというもの。どんな材料で作られているのか分からないが異様に軽い。さらにその穂先は軽く触っただけでも突き刺さりそうな鋭さがある。
 また兜は、フルフェイスのヘルメットに近い形状となっていた。塗装されておらず鏡面加工と言って良いほどに磨かれた地金がそのまま輝いている。
 飾り気が全くなくて、目の部分のスリットは細い。口から下は露わとなるが、顎にぴったりと張り付く形状の皮革がついていて、これで喉やあご周りの急所を守るようになっているのだ。
 伊丹や倉田、栗林はこれを見た瞬間、「ロボコップ?」とか思ったりした。

「いいんですか?」

 テュカの問いに、好々爺こうこうや然としたモーターは気にせず納めなさいと告げた。
 ロゥリィも賛成した。

「折角だから貰っておきなさぁい。モーターの作った竜槍やら鏑矢なんてぇ、普通に買ったらぁ、とんでもなくお金がかかるんですからねぇ」
「なら、ありがたく」

 伊丹とテュカはモーターに礼を告げて餞別せんべつを受け取った。こころみにヘルメットをかぶってみると、あつらえたようにぴったりであった。
 こうして様々なものを受け取った伊丹はテュカに告げる。

「じゃあ、テュカ……頼むわ」

 テュカが、掌を伊丹の額に乗せてベン・ゾジアの魔霊を召喚し、感情の働きを抑えさせる。

「じゃ、乗って」
「分かった……」

 伊丹はエフリーを少しも恐れることなく跨がった。

「じゃあ行ってくるわね」

 テュカが挨拶する。だが伊丹は挨拶の必要性を感じないのか振り返りすらしない。
 こうして二人は、アルヌスから旅立ったのである。


    *    *


「あいつら、行ったな」

 ジゼルは自衛官や街の住民達が見送りを終えて行ってしまっても、しばらくの間、二頭と二人が消えた空を眺めていた。今回は、彼女らしからぬ苦労をしているので感慨もひとしおなのだろう。
 ロゥリィがそんなジゼルに尋ねる。

「じゃあジゼルぅ? そろそろどういうつもりなのかぁ聞かせてもらえるぅ?」
「えっ!?」

 ジゼルは、ロゥリィとレレイの二人に挟まれていることに気付いた。言い逃れは許さないぞという尋問態勢だ。
 少し離れた場所にモーターも控えていて、楽しそうな表情をしている。

「わたしぃと、レレイの二人を、アルヌスに残したい理由があったぁ。だからぁ飛竜を二頭しか用意しなかったぁ。そうでしょう?」
「やっぱし……バレるよな」

 ジゼルはかりかり後ろ頭を掻いた。

「分かるようにやってたくせにぃ」
「姉さん。これは主上さんの啓示けいじという奴だよ」
「ハーディの意思ぃ?」
「そう。姉様に執着していた主上さんとしちゃあ、あのイタミの野郎が姉様にふさわしいか、確かめなきゃいられないってところなのさ。だから姉様とちょっと引き離すことにしたのさ」
「……ったくぅ、ハーディの奴ぅ」

 ロゥリィはうとましげに嘆息した。だが髭の老ドワーフ、モーターまでもが言った。

「いやいや、お嬢ちゃんを心配しているのはハーディばかりではないぞ。わしのとこのダンカンもあの眷属を試すつもりじゃ。先の大祭典で……ほら、グランハムの眷属の、眷属の……」

 高齢のモーターが、名前を思い出せないでいるところにレレイが助け船を出す。

「ユエル」
「そうそう、ユエルじゃ。黒髪のユエルがイタミに絡んで決闘騒ぎになったのは、実はフレアの差し金だったらしいしな」
「え、太陽神のフレアまでもぉ!?」
「要するに、かなりの数の神がお嬢ちゃんの眷属に興味を持っているってことだ。眷属になったことに増長してユエルもどきになり果てるか、それともお嬢ちゃんが見立てた通りの奴で居続けることが出来るか、とな。この旅でも奴は試しを受けるじゃろう」
「試しって、どんな試しよぉ?」
「まあ、赤くなるかどうかを試すなら、朱に交わらせて見るのが一番じゃろ?」

 モーターは髭をなでながら、『朱に交われば赤くなる』ということわざを倒置した言葉をうそぶいた。人は関わる相手や環境で、良くも悪くもなり得るという意味のことわざだが、伊丹を試すために、わざと悪い環境に放り込むというのだから、意地が悪いどころの騒ぎではない。

「ちょっと待ってよぉ。それってつまり、またユエルみたいな奴が登場するってこと?」

 そんな話に、ロゥリィは額に汗が浮かぶのを感じたのだった。



   03


 旅に出て五日目の朝を、伊丹とテュカはヤルン・ヴィエット城の迎賓館で迎えた。

「おはよう」

 伊丹は、目覚めと同時に軽い頭痛を自覚した。魔法で眠らされた翌日は常にこんな感じだ。軽い二日酔いにかかったような、切れの悪い睡眠薬の使用感にも似た重さが残ってしまう。
 瞼を開くとテュカの顔が視界いっぱいに広がっている――そんな光景も今更騒ぐようなことではない。テュカは、互いの鼻先が接するような近い距離で眠ることを好み、胴にしがみついていたり、首に腕を回していたり、胸に顔をうずめていたりする。要するにスキンシップの好きな甘えたがりなのだ。
 肌理きめの細かいシルクのような肌。桜貝のごとき淡い紅色の唇。眉や睫毛まつげは一本一本が金色。実に美しい造形をしている。これで化粧を全くしてないというのだから驚きだ。
 今朝はテュカの方が早起きしたようで、南国の海のような瞳で伊丹を見据えて、挨拶の返事をじっと待っていた。

「おはよう」

 伊丹は、どぎまぎする胸を抑えて冷静に挨拶を返した。
 魔法による睡眠の難点は、眠る寸前の約二十分間の記憶が残らないことだ。いや、全く残らないわけではない。何かうっすらとした記憶は残る。
 けどそれは夢のように現実感に欠け、しかも目を覚ました直後から時間が経過するにつれてどんどん消え失せていく。後に残るのは、「なんか、やらかしてしまったかも?」という感触。テュカの眼差しを浴びて、どうにも正体不明な後ろめたさが湧いてくるのだ。
 恐怖心を抑制する精霊魔法を数時間連続使用すると、反動としてしばしの間、感受性が高まることが分かったのは初日の夜のこと。伊丹は自分の中に湧き上がる衝動が抑えられず、テュカに襲いかかってしまった。
 そのために二日目以降は、魔法で眠らせてもらうようにしている。……している……はずなのだが、伊丹はどうにも腑に落ちなかった。何もしないうちに眠っているなら、こんな『やらかした感』が残るはずがない。もしかしてテュカを襲っているのではないか。何をどうしたという具体的なことまでは分からないが、テュカの柔らかな唇の感触とか、肌の弾力ある感触とかが記憶として残っているような気がするのだ。
 これが妄想だったり、本当の夢だったりして、それを現実と混同しているだけならまだ良いのだが、もしかするとという疑念も払拭ふっしょくできない。

「あ、あのさ、テュカ?」

 伊丹は、確認を試みた。

「なぁに……」
「お前さ、俺がお前に変なことをする前にちゃんと眠らせてくれてる? いや、この質問がさ、自分をきちんと抑制できてない情けなさを棚に上げたものだということは分かっているよ。けどさ、魔法とかいう今ひとつ理解できない超常現象に我が身を預けている以上はさ、その制御の責任の一端はテュカにもあると思うんだよね……」

 すると問われたテュカは、流れるような髪をさらさらとさばきつつ、寝台から上体を起こしてしどけない表情で伊丹を見下ろした。
 伊丹はぎょっとしてしまった。テュカが一糸まとわぬ姿だったからである。そんな格好でテュカは伊丹の隣に寝て、伊丹の足に生足を絡めていたのだ。
 しかもテュカの返事がまた、伊丹の予想の右斜め上を行っていた。

「変なことってなあに? 変なことなんて一つも起きてないのに」

 この時、伊丹にできたのはテュカから目を逸らすでも、恥ずかしげに布団に潜り込むでもない。テュカの裸身を凝視することだけだった。
 生まれたままの姿をシーツで隠すようにして寝台を降りて、部屋を横断し、隣室へと消えていくテュカ。伊丹は、その彫像のような姿に目を奪われて、その背中が見えなくなるまでずっと見入ってしまった。
 理由がある。それはテュカの肌に鬱血斑うっけつはんがあったからだ。しかも一つじゃない。どこかで何かにぶつけたとか、そういう理由でもない限り原因は自分としか思えない。

「や、やばいぞこれは。知らない方が良い。暴き立てようとするとかえって窮地に陥っていく可能性が高い」

 伊丹は、全身の毛穴という毛穴が全開となり、そこからぶわっと冷や汗が流れ出るのを感じた。
 知らないからこそ無責任でいられる。分からないからこそ、「はて、なんの話?」で済むことがこの世には存在するのだ。
 伊丹は、「何も起きてない」というテュカの言葉を盲信もうしんして、疑惑の二十分間に自分が何をしているかは考えないと決めたのである。


 テュカの入っていった隣室から、水の流れる音がした。そこはいわゆる風呂場らしい。

「あらすごい。お湯が入っている! ハコネのお風呂みたぁい!」

 テュカが扉の向こうで声を上げている。
 特地の宿でも相応の費用はかかるが、頼めば風呂に温水を満たしてくれる。だが頼まなければ冷たい水しか入っていないのが普通だ。綺麗な水が大きなバスタブに満たされていれば上等な部類なのである。
 だが、小国とは言え外国からの賓客を泊める迎賓館である。上から二番目の扱いともなると、頼まずとも風呂には常時お湯が満たされているのだ。
 テュカが出た後、伊丹も湯につかることにした。冷や汗で全身ずぶ濡れになっていたからだ。
 旅に出てから野営が四日続いただけに温かい湯の感触は格別だ。
 どうなっているのか興味があったので、風呂の構造を見てみる。すると、どこか別室で沸かした湯がパイプを通じてバスタブへと注ぎ込まれるようになっていた。
 蛇口の類がないところを見ると、向こう側からバスタブを満たすのに必要な分の湯を、一方的に供給する仕組みのようだ。つまり湯の継ぎ足しは利用者側には出来ないのだ。
 あるいは風呂屋を舞台にしたジブリ映画のように、何か合図の方法が用意されていて、それでお湯の供給をしてもらうようになっているのかも知れない。だが、見たところそれらしきものはなかった。

「もしかして覗き見されてたりして」

 隠し部屋というには大げさかも知れないが、壁の裏に裏方専用の通路があり、そこから係員が常時監視している。そして客人が目覚めるとお湯を注ぎ込むとか。

「まさかね、考え過ぎか」

 伊丹が入浴を終えると、テュカは身支度を半分ほど終えていた。伊丹が初めて見る帝国風の衣服を身にまとい、髪を丹念にくしけずっている。
 耳朶にはサファイアのイヤリングまでつけていた。

「どうしたんだテュカ、おめかしして?」
「ヨウジがお風呂に入っている間に、女王陛下の伝言が届いたのよ。朝食に招待されたわ」
「あ、そうなんだ……」
「それでこの衣装よ。武具は殺伐さつばつとして朝食には向かないからだって」
「へぇ……」

 伊丹は自分用らしいトュガを手にとると、これを着ろっていうのかよと呻いた。馴染みがないどころか、どう着れば良いのか全く分からない。

「手伝ってあげるから、急いで。時間がないの」
「あ、はい」

 テュカが発した号令で、伊丹は肌の湯滴ゆてきを綺麗に拭き取った。そして慌ただしく、帝国でフォーマルとされる衣装を身に纏ったのだった。


 伊丹に「急いで」と言ったものの、支度を終えたのはテュカの方が後になった。
 女性は身につける部品が多いから仕方がない。伊丹の方が髪を編むのを手伝わされてしまったほどである。
 けれど、テュカだからまだ良いのである。これが普通のヒト種の女性となればさらに化粧が加わって、もっと時間を要する。儀礼上何もつけないという訳にはいかないので淡い色の口紅を引いているが、テュカはほとんど何もつけないで充分なのだ。

「ご支度は終わりましたか?」

 まるで見守ってましたと言わんばかりのタイミングで黒髪の女官がやって来る。伊丹は、覗かれているという疑惑が強まるのを感じ、部屋のあちこちを見渡してしまった。
 伊丹があたりを見渡している間に、女官は伊丹とテュカに視線をささっと走らせ、着付けに間違いがないかを素早く確認する。

「では……イタミきょう、テュカ様、どうぞおいで下さい」

 どうやら、服装に問題はなかったらしい。
 廊下を進む道々で、テュカは女官に尋ねた。

「この国の服装って帝国風なのね。帝国から移り住んできたの?」

 寒冷な北方では、普通毛皮やフェルトなどで衣服を作る文化が発展する。実際、この土地の住民達もそのような衣装を着ていた。
 ヤルン・ヴィエットという国がそうした土着の民族の国ならば、フォーマルな場で纏う衣服も、その系譜けいふの上にあるものでないとおかしい。

「いや。為政者いせいしゃが帝国の文化にあこがれてるのかも」

 伊丹が言った。日本も、明治維新後は西洋文化を取り入れて服装が欧米風に変わった。これによって日本の服飾文化の系譜が滅亡しなかったのは、日本に『ハレ』と『ケ』という使い分けの精神があり、旧来の系譜に連なる服装が『晴れ着』という形で残ったからである。
 すると黒髪の女官が説明してくれた。

「我々ソノートはこの地で発生した民族です。コノートのような余所者よそものとも、フロートのような野蛮人とも異なります。ヤルン・ヴィエットの宮廷文化はソノート風を採用するのが望ましいのですが、交易の便や地理的な側面から、首都はこのフロートに置かれることになりました。そうなるとフロート風が幅を利かせてしまいますため、陛下は国の諸制度に帝国風を採用されたのです」

 伊丹は、何かにつけてコノートやフロートに侮蔑的な発言をする女官を見て、「この国、上手く行くのかな」と心配になった。
 どんな国でも都市生活者が田舎人を揶揄やゆするところはあるが、この女官の言葉はもう少し重く、深刻なものと感じられるのだ。建国の経緯からして仕方のないことかも知れないが、どうにも内紛の火種が転がっているようにしか見えなかった。

「女王陛下が帝国に憬れてらっしゃることは間違いありませんけれどね」

 女官はそんなことを言いながら、食堂に通じる扉を開いたのである。


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