納品される妻 ー管理番号373番ー

武蔵

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プロローグ:空洞の礎

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午後八時を回った。
​フロントガラスを叩く雨粒が、ワイパーに弾かれてはまた新たな飛沫となり、視界を滲ませている。
私の運転するセダンは、市内の喧騒から切り離された山間部へと続く、街灯の少ない県道を滑るように走っていた。
​タイヤが濡れたアスファルトを噛む音と、規則的な雨音だけが、車内という密室を支配している。
​バックミラーに目をやる。
後部座席の闇に沈むようにして、妻のミナミが座っていた。
​助手席ではない。私自身がそれを望んだのだ。
記憶は曖昧だが、この「運転手と乗客」という配置こそが、今の私たち夫婦の歪な関係性を正しく表していた。
​ミナミは、車窓を流れる漆黒の森を、うつろな瞳で眺めていた。
その瞳に映っているのは、過ぎ去っていく木々の残像か、それとも自身の逃げ場のない未来か。
​彼女は今夜のために誂(あつら)えた、背中の大きく開いた深紅のドレスを身に纏っている。
車内の薄暗がりでも分かるほど、その肌は白く、そして陶器のように冷たく見えた。
​会話はない。
沈黙は金(きん)などではなく、ただの重りだ。
鉛のような空気が、私たちの肺をゆっくりと押し潰していく。
​「……ミナミ」
​バックミラー越しに、私は努めて平坦な声を投げた。
​「なに」
​彼女は窓の外を向いたまま、唇だけを動かした。
その声には、拒絶すら含まれていない。
ただ、そこに存在するだけの現象のような響き。
​「今日の相手は、D建設の佐藤専務だ。うちの来期の公共工事、下請けの割り振りは彼が握っている」
​「……そう」
​「粗相のないように。あの男は、少し指癖が悪いと聞いているが」
​「大丈夫。慣れたから」
​慣れた、という言葉が私の胸の奥を小さな針で突いたような感覚を残した。
もやっとした正体不明の不快感が、胃のあたりで熱を持つ。
​それは嫉妬などという高尚なものではない。
自分が丹精込めてメンテナンスしてきた重機を、粗暴なオペレーターに貸し出すときのような、所有者としての不快感に近かった。
​やがて、木立の切れ間から、灯りが見え始める。
郊外の観光地にひっそりと佇む、会員制の隠れ家ホテル。
​ヨーロッパの古城を模したというその建物は、雨に濡れて黒光りし、まるで森の中に口を開けた巨大な捕食者のように見えた。
私はハンドルを切り、砂利の敷かれた駐車場へと車を滑り込ませる。
​ヘッドライトが、降りしきる雨の筋を白く照らし出した。
エンジンを切ると、世界はさらに静寂に包まれた。
屋根を打つ雨音だけが、鼓膜を圧迫する。
​「……傘、あるか?」
​数十分ぶりに発した私の問いは、ひどく乾燥していた。
夫が妻を気遣う言葉ではない。
現場監督が、作業員の装備を確認するような響きだった。
​「なくても、大丈夫。エントランスまですぐだし」
​ミナミはそう言って、膝の上に置いた小さなクラッチバッグを強く握りしめた。
その指先が、微かに震えているのを私は見逃さなかった。
​「今日も綺麗だよ、よろしく」
​私の言葉は、呪文のように彼女の動きを止めた。
ミナミはゆっくりと私の方を向き、初めて鏡越しに視線を合わせた。
​その瞳には、深い嫌悪の色が澱のように沈んでいた。
だが、彼女はそれを言葉にはしない。
言葉にすれば、自分が維持している薄氷のような精神の均衡が崩れ、ただの「売春婦」に成り下がることを知っているからだ。
​「あなたにとっても。これで会社の業績が上がるなら、安いものよね」
​ミナミの精一杯の皮肉だ。
​「経営者として、これほど投資効率の良いリソースは他にない」
​突き放すような私の言葉に、彼女は自嘲気味な笑みを一瞬だけ浮かべた。
その表情が、かつて私の醜い手を「働いてきた男の手、素敵ですね」と言ってくれたあの時の笑顔と重なり、また胸の奥がもやっとした。
​私はハンドルを握る手に力を込めた。
​ミナミはドアに手をかけ、一瞬だけ動きを止めた。
躊躇(ためら)いか、諦めか。
​しかし、彼女はすぐにドアを開け、冷たい雨の中へと身を躍らせた。
​「いつも通り、朝九時に迎えに来る」
​「……はい」
​ミナミは雨に打たれながら小さく頷いた。
​小走りでホテルのエントランスへと向かう彼女の背中。
華奢な肩甲骨、細い腰、そしてヒールの音。
​彼女は一度も振り返らなかった。
自動ドアが開き、暖かなロビーの光が彼女を飲み込み、そして閉じた。
​彼女はこれから、私ではない男に抱かれる。
私の知っている妻の顔を脱ぎ捨て、商品としての「女」になり、他人の欲望を受け入れる。
​私は無機質な表情のまま、再びエンジンをかけた。
ワイパーが動き出し、彼女の残像を視界から拭い去る。
アクセルを踏み込み、私は逃げるように夜の道へと車を出した。
​建設業に携わる人間には、ある種の職業病がある。
世界を、そして人生そのものを、「構造」と「コスト」、そして「リスク」に分解して見てしまう癖だ。
​どんなに豪奢なタイルで飾られた邸宅であっても、どんなに美しい塗装が施されたビルであっても、それを支える基礎のコンクリートに「空洞(ジャンカ)」があれば、それは住居とは呼べない。
​外見がいかに堅牢に見えようとも、内部に鬆(す)が入っていれば、耐用年数を待たずに必ず歪みが生じる。
いつか音を立てて崩落する、ただの瓦礫の山だ。
​数十分前、彼女を降ろしたあのホテル。
その構造計算書を私は以前見たことがある。
RC造の頑丈な造りだ。
​だが、その中で行われる行為は、私たちの人生の「構造」を確実に蝕んでいる。
​かつてのミナミは、私のコンプレックスそのものだったこの「不格好な手」を愛してくれた。
節くれだった指、消えない傷跡、油の染み込んだ爪。
​『この手があるから、街が作られるんですね。かっこいいです』
​その言葉を信じた。
だからこそ、彼女の裏切りを知ったとき、私は自分の手で積み上げてきたすべてを、自分の手で叩き壊してやりたいという衝動に駆られたのだ。
​ハンドルを握る私の手を見る。
かつて彼女が愛したはずの手。
​今、この手はハンドルを握り、妻を地獄へと送り届けている。
​私は知っている。
私たちの関係という名のコンクリートには、修復不可能なほど巨大な「空洞」が空いていることを。
​そして今夜もまた、その空洞を埋めるために、私は妻を売り、魂を削り続けているのだ。
​ルームミラーに映る自分の顔は、驚くほど無表情だった。
だが、胸の奥で燻る「もやっとした何か」は消えない。
​それは彼女が他の男に汚されることへの不快感なのか。
それとも、汚されるほどに艶を増していく彼女の美しさに、無意識のうちに惹かれ始めている自分への恐怖なのか。
​雨は激しさを増し、ワイパーの速度を上げても視界は開けない。
​私は暗い山道を、ただひたすらに、孤独な運転手として走り続けた。
朝九時までのあと十時間ちょっと。
​私はこの「空洞」の中で、自分自身の正気と対峙しなければならない。
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