リフレイン ―368,000時間の初恋―

武蔵

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第十三話:家族 ―青とピンクの、小さな肌着―

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一月二十二日
 日曜の午後の陽光は、冬の澄んだ空気を通していっそう鋭く、今月オープンしたばかりのショッピングモールに足を運ぶ。
 巨大なガラス屋根は、吹き抜けのフロアを光の海へと変えていた。
 僕たちは、地方都市の郊外に佇むその巨大な箱の中を、宛てもなく彷徨っている。そこは、二〇〇六年の始まりという瑞々しい時間が結晶化したような場所だった。
「ねえ、タカシ見て。このコート、襟元のファーがすごくふわふわしてる」
 レイコが、トレンドの大きなリボンがついたコートに指先を躍らせる。
 二〇二六年の世界から持ってきた重い荷物も、守るべき生活も、今は心の奥底にある見えない箱の中に固く封印していた。
 今日の僕たちは、ただの「タカシ」と「レイコ」だ。
 二十年という歳月が作り上げた溝を埋めるのではなく、ただ隣に並んで歩く。その事実だけで、背負っていた肩の荷がふわりと浮き上がるような感覚があった。
「レイコによく似合いそうだよ。今年はこういう、少し甘めのデザインが流行りなのかな」
「そうみたい。雑誌でも特集されてた。あ、あっちのショップも見ていい?」
 彼女が軽やかに駆け寄る先では、レミオロメンの『粉雪』が、どこか切なげに、けれど温かく流れていた。
 ドラマのヒットと共に街の至る所で耳にするこの旋律は、今この瞬間の僕たちの背景幕として、あまりにも完璧な色彩を添えている。
 雑貨屋、家電店、様々なショップに足を踏み入れて過去の今を楽しむ。
「あ、これ! 最近みんな持ってるよね、このクリスタルのストラップ」
「懐かしいなぁ、iPod nanoがあるよ」
「iモードって当時で考えると画期的だよね」
 僕たちは、最新のガジェットや流行の香水テスターを前に、まるで子供のような好奇心で言葉を交わした。
 そこには、裏側に隠された感情や、不確かな未来への怯えなど欠片もなかった。ただ「これが可愛い」「これが格好いい」という、剥き出しの感性だけを共有する。
「このグロス、ベリーの香りがする。タカシ、どう思う?」
 レイコが唇に少しだけ色を乗せ、僕の方を向いて微笑む。
「いいね!。すごく……自然で、綺麗だ」
 洗練された二〇二六年の美しさとは違う、二〇〇六年の少し背伸びをしたような、けれど瑞々しい輝き。彼女の笑顔は、冬の午後の光を吸い込んで、真珠のような光沢を放っていた。
 ふと、平積みされた『脳を鍛える大人のDSトレーニング』のパッケージが目に入った。
「あ、これ流行ったよね! タカシ、脳年齢自信ある?」
「いや、どうだろうな。レイコと一緒にやったら、僕の方がおじいちゃん判定されるかもしれない」
「ふふ、じゃあ今度勝負しなきゃね」
 そんな何気ない「いつか」を口にしても、今は胸が痛まなかった。この巨大なショッピングモールという迷宮の中では、時間は直線的に流れるのをやめ、僕たちを包む円環のようになっていたからだ。
 僕たちはエスカレーターに乗って、フロアを移動する。
 上へと昇るにつれ、モール全体を見渡すことができた。家族連れ、中高生のグループ、幸せそうなカップル。誰もがこの二〇〇六年一月という「現在」を謳歌している。
「なんだか、夢の中にいるみたい」
 エスカレーターのベルトに手を置きながら、レイコが小さく呟いた。
「嫌な夢じゃないよ」
「わかってる。すごく……楽しい。ただ、買い物をして、お喋りして。そんなことが、こんなに特別に感じるなんてね」
 彼女の横顔には、二十年分の渇望を癒やすような、穏やかな充足感が漂っていた。
 僕たちは、デニムのローライズジーンズや、流行りのブーツを試着する彼女を待ち、喉が渇けば紙コップのコーヒーを分け合った。
 会話の中に、「将来」や「家庭」という言葉が混じることは一度もなかった。けれど、服の好みを教え合い、お互いのセンスを笑い合うその時間は、どんな重々しい誓いの言葉よりも深く、僕たちの魂を近づけていた。
 外はそろそろ、夕暮れの予感を含んだ金色の光に変わり始めている。
 けれど、このモールの中だけは、永遠に続く日曜日の午後だった。
 僕たちは、買い物をしたわけでもないのに、心がパンパンに膨らんだ紙袋を抱えているような、幸福な重みを感じていた。
 二人の歩幅はいつしか完璧に揃い、その影は、磨き上げられたタイルの床の上で、美しく重なり合っていた。
     *
 賑やかな雑貨店や色とりどりの衣料品店を通り抜け、フロアの角を曲がると、そこだけ時間の流れが凪いだような一画が現れた。
 淡いパステルカラーが、柔らかな照明を反射して、空間全体を無垢な祈りで満たしている。
 二人は吸い込まれるように、その乳幼児服のコーナーの前で足を止めた。
 そこには、清潔なコットンの香りと、生まれてくる命への純粋な祝福だけが、静かに並んでいた。
 最初は、ただなんとなく三歳用や二歳用の服を眺めていた。
「この色のTシャツなら元気に見えるかな」
「こっちは、少し大人びて見えるね」
 たわいもない会話。
 けれど、歩みを進めるうちに、二人の視線は自然と一番奥にある、最も小さく、最も無垢な場所――新生児用のコーナーで釘付けになった。
 そこは、命の始まりだけが許された聖域だった。
 僕はおもむろに手を伸ばし、ハンガーにかかった一枚の肌着を手に取った。
 それは、生まれたばかりの命が最初に身に纏う、青い肌着だった。
 何の飾り気もない、ただひたすらに清潔で、儚いほどに薄い綿の布。
 それを両手で広げると、そのあまりの小ささに、二人は息を呑んだ。僕の手のひらの上で、その肌着は頼りなく、今にも溶けてしまいそうに見えた。
 レイコがそっと近づき、その小さな袖口に指先で触れる。
「……わぁ、小さい」
 彼女の口から漏れたのは、言葉というよりは、ため息に近い音だった。
 その瞬間、二人の間に流れていた静寂が、急速に熱を帯びた。
 もしも。
 言葉には出さないけれど、二人の心臓が同じリズムでその仮定を刻んだ。
 もしも、この小さな袖に、腕を通す存在がいるのなら。
 もしも、この小さな布が、私たちの間に生まれた温かな重みを包み込む日が来るのなら。
 それは、まだ形を持たない、あまりにも不確かな未来への問いかけだった。けれど、その肌着を通して二人の指先が触れ合った瞬間、その「もしも」は、強烈な引力を持って二人の現在(いま)を揺さぶった。
 ここには、まだ誰もいない。
 泣き声も、ミルクの匂いも、柔らかな頬の感触もない。
 あるのは、ただ二人が共有する静かな視線と、彼の手の中にある、あまりにも小さな布だけ。
 けれど、見つめる二人の瞳の奥には、切ないほどの祈りと、自分たちでも気づいていなかった深い渇望が、静かに渦を巻いていた。
 周囲の喧騒が遠のき、世界には今、この小さな肌着を挟んで佇む、二人だけしかいないようだった。
 愛おしさと、それがまだ手の中にないという微かな痛みが、胸を締め付ける。
「もし……私たちの間に子供ができるなら、男の子かな、女の子かな」
 レイコが、肌着の裾を指先でなぞりながら、夢を見るような声で呟いた。その指先は、壊れ物に触れるかのように震えている。
「男の子なら、活発な子がいい。泥だらけになって笑うような。女の子なら……こんな可愛いワンピースを着せて、一緒に並木道を歩きたいな」
 レイコの瞳は、目の前の布地を見つめているようでいて、その実、決して訪れることのない「もう一つの未来」を凝視していた。
 二〇二六年の日常に戻れば、僕たちには守るべき場所があり、別の名字を持つ我が子たちがいる。けれど、この刹那、僕たちは自分たちの血が混じり合い、分かち合うはずだった唯一無二の命を、狂おしいほどに切望していた。
 今後がどうなるかなんて、誰にも分からない。
 だからこそ、今この手の中に、せめてその「願い」の破片だけでも留めておきたかった。
「……仲が良いですね。新婚さんですか?」
 不意に、店員が柔らかな笑みを浮かべて声をかけてきた。
 あまりに無邪気で、残酷なまでの祝福。
 喉の奥に言葉を詰まらせる僕の隣で、レイコは顔を上げた。
 その表情には一点の曇りもなく、まるで世界で一番の幸せを掌中に収めたかのように、眩しい笑顔で答えた。
「はい!」
 その晴れやかな声が、僕の胸を鋭利なナイフのように締め付ける。
 彼女はこの瞬間、偽りの中に、自分たちの真実の居場所を作り上げたのだ。
 僕たちは、男の子用と女の子用。二枚の小さな青とピンクの肌着を買い求める。
 それは、この狂おしいほどに短く、切ない逢瀬の中で、僕たちが唯一形にすることのできた「家族」の姿だった。
 レジ袋の中でかすかに音を立てる、二枚の薄い綿。
 袖を通すべき主(あるじ)のいないその肌着は、悲しいほどに白く、そして僕たちの愛のように、どこまでも純粋で行き場のない輝きを放っていた。
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