リフレイン ―368,000時間の初恋―

武蔵

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第十五話:観測 ―時を司る者のルール―

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 バックミラー越しに、年配の運転手が二人を一瞥した。
 白髪混じりの短髪に、深い皺の刻まれた目元。
 その瞳は、乗客の目的地を確認するだけの事務的なものではなく、まるで二人の「魂」の在り処を遠くから見透かしているような、奇妙な静謐さを湛えていた。
「……見たところ、新婚さんですかな?」
 運転手が不意に口を開いた。その声は低く、よく響く。
 僕は迷うことなく、隣に座るレイコの指先に力を込め、誇らしげに答えた。
「ええ、最近、結婚したばかりなんです」
 その嘘は、今の僕たちにとっては真実よりも純粋な響きを持っていた。
 けれど、運転手は鼻先に掛かった眼鏡を指で押し上げると、感情を読み取らせない淡々とした口調で、独り言のように呟いた。
「…………いい夢を見られたようですが、そろそろ、目が覚める時間ですよ」
 車内の空気が、一瞬にして凝固した。
 心臓が跳ね、嫌な汗が背中を伝う。
「……えっ?」
 聞き返した僕の言葉を遮るように、運転手は淡々と言葉を重ねた。
「時間は不公平なものです。特に、自分以外の誰かの時間を背負っている者にとってはね」
 何を言っているのか、理屈では分からなかった。
 しかし、本能が警鐘を鳴らしていた。レイコの体が隣で強張るのが伝わってくる。
「二人は……二〇二六年から来られたのでしょう?」
 その一言で、車内は真冬の氷河に閉じ込められたような静寂に包まれた。
 鼓動が耳元で暴力的なほど激しく打ち鳴らされる。
「なぜ、それを……。このタイムリープについて何か知っているんですか?」
 身を乗り出して問い詰める僕を、運転手はバックミラー越しに穏やかに制した。
「私はただの『観測者』です。時を遡り、あまりに強い想いに囚われた者たちの行く末を、ただ見届けるだけの存在です」
 観測者は、ハンドルを握る手を緩めることなく、この異常な事象の成り立ちを説き始めた。
 過去への執着が臨界点に達した時、同じ周波数の想いを抱く二つの魂が共鳴し、一瞬だけ開く「時の裂け目」。それがタイムリープの正体なのだと。
「私たちは……どうなるんです? もといた時間に戻れるのか、それとも戻れないのか。それを教えてください!」
 僕の切実な問いに、観測者は非情なまでのルールを突きつけた。
「戻るか、残るかは自分たちの選択です。だが、チャンスは一度きり。その瞬間を逃せば、二度と元の時間は戻らない。永遠にこの時間軸に囚われ、生き続けることになる」
「戻らなければ……ここで、二人で生きていけるということですか?」
 レイコが震える声で尋ねた。観測者は重く頷いた。
「そうです。だがその場合、君たちの『未来の記憶』はすべて消去される。二〇二六年の生活も、君たちが育てた家族のことも、すべてだ。今の記憶のまま二十歳の若者として、この二〇〇六年から人生をやり直すことになる。つまり、君たちの子供たちは、この世から消えてなくなるということだ」
「記憶が……消える?」
 レイコが僕の腕を掴む指先に、悲鳴のような力がこもった。
 ショウタとレイナ。
 二〇二六年の世界で僕たちの帰りを待っているはずの、愛おしい子供たちの顔が脳裏をよぎる。この場所でレイコと結ばれる代償は、子供たちの存在そのものを抹消すること。
「戻るための『門』が開くのは一月三十日。タカシ君、君が今の奥さんと出会う、あの瞬間だ」
 全身に悪寒が走った。
 あの日の光景が鮮明に蘇る。大学の教室前、抱えきれないほどの資料を抱えて立ち往生していた、若き日の妻。僕が声をかけ、荷物を運ぶのを手伝ったあの日。そこから僕の人生のすべてが始まったのだ。
「あの出会いを無視すれば、お二人はこの世界で結ばれます。だが、君たちの家庭は消滅することになります。逆に彼女を手助けすれば、君たちの『今』は消滅し、元の二〇二六年に戻ることになります」
 究極の選択。
 神が仕組んだあまりにも残酷な審判だった。
 レイコが、消え入るような声で観測者に問いかけた。
「もし戻ったら……今のこの記憶はどうなるんです? これも消えてしまうの?」
「過去は改変できません。今の記憶も、未来の君たちには現実の過去として記憶されます。ただ、この期間の出来事は、輪郭を失った遠い夢のような記憶として残るだけです」
「それってどういう……?」
「『そういうことがあった』という事実だけを、記録として覚えているに過ぎません。お二人にも、事象だけを記憶している過去がありませんか? 何を買ったか、何をしたかは覚えていても、その時の震えるような感動や、胸を突くような痛みまでは忘れてしまっている。そんな無機質な一コマに留まるということです」
「なぜ? そんな、ひどい……」
「お二人の未来にこの記憶は必要でしょうか? 逆に重大な支障を来たすでしょう。未来を大きく変化させる要因は最小限度にとどめさせて頂くという配慮です」
 この正論は配慮という名の暴力で、言葉を完全に封じ込めてしまった。
 無言のまま揺れるタクシーは、住宅街に入ると、街灯の乏しいレイコのアパートの前に静かに停車した。
 自動ドアが、無機質な音を立てて開く。
「さあ、お客さん。着きましたよ。お代は結構です。……」
 車内を支配していた異様な重圧から解放されたはずなのに、外の冷気は幸福に酔いしれていた僕たちの肌を、容赦なく突き刺した。
 走り去るタクシーのテールランプを、僕たちは言葉もなく見送った。 
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