リフレイン ―368,000時間の初恋―

武蔵

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第十八話:葬送 ―愛し合うための別れ―

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 テーブルの上には、湯気を立てる料理が用意されていた。
「今日は結構歩いたから、お腹が空いてるんだ」
 僕が椅子を引くと、レイコが手際よくカレーをよそって運んでくる。
 スパイシーな香りが部屋を満たし、冷え切った身体に温かな生命力を吹き込んでいく。
 一口食べると、深みのある味が口の中に広がった。実家の母とも、二〇二六年の妻の味とも違う、レイコだけのカレー。彼女がこの時代で一人、丁寧に生きてきた証のようなその味に、僕は自然と顔をほころばせた。
「この味、すごく美味しい。……おかわり、たくさんしちゃうかも」
「本当? よかった。隠し味、色々凝ってるんだから。インスタントコーヒーと蜂蜜。私がいろいろ試して辿り着いた味よ!」
 レイコは少し自慢げに、スパイスや煮込みのコツについて語り始めた。その口調は驚くほど軽やかで、屈託がない。
「うちの娘もね、このカレーが大好きなの。いつも『ママ、また作って』っておねだりされちゃう」
 かつてなら、未来の家族の話は胸を刺す棘(とげ)でしかなかった。けれど今は違う。あの子の存在を語ることが、二人の共通の誇りとなっていた。
「うらやましいな。僕もいつか、あの子達とそんな話をしてみたいよ」
 そんな会話が、ごく当たり前の「親同士」として交わせることが、今は何よりも愛おしかった。
     *
 食事を終えた二人は、冬の夜の冷気を楽しむように、近くのツタヤへと向かった。
 ネオンの光が路面を彩る店内には、二〇〇六年の「最新」がひしめき合っている。『スター・ウォーズ エピソード3』や『宇宙戦争』。かつて通り過ぎたはずの時代の欠片たちが、鮮やかに棚を埋めていた。
 ふと、レイコが一枚のDVDを手に取った。『チャーリーとチョコレート工場』。
「これ、観たことある?」
「いや……なんだかんだで、結局観る機会がなかったな」
「私もなの。じゃあ、これにしよっか」
 コンビニでお菓子を買い込み、秘密基地へ向かう子供のような高揚感を胸にアパートへ戻る。飲み物を用意し、テレビの前に肩を並べて座る。
 再生ボタンを押すと、ジョニー・デップ演じるウィリー・ウォンカの極彩色で奇妙な世界が幕を開けた。
 物語が終盤に差し掛かった時、部屋の空気はしんと静まり返った。
 ウォンカが、純粋な心を持つ少年チャーリーに「工場を譲る」という究極の幸運を提示するシーン。だが、それには「家族を捨てること」という非情な条件が添えられていた。
 それまでお菓子をつまみながら映画の世界を楽しんでいたレイコの身体が、目に見えて強張った。僕が握っている彼女の手が、微かに震え始める。
 画面の中のチャーリーは、戸惑うことなく答えた。
「家族を捨ててまで手に入れる価値のあるものなんて、この世にはないよ。たとえそれが、世界中のチョコレートよりも素晴らしいものだとしても」
 その言葉は、そのまま僕たちの心に重なった。
 僕たちが今、掌(てのひら)から零(こぼ)れ落とそうとしている「二人だけの幸せ」は、チャーリーにとってのチョコレート工場なのだ。
 けれど、それ以上に重い価値が、二〇二六年に待つあの子たちの命にはある。
 映画のラスト、ウォンカが長年疎遠だった父と再会するシーン。歯科医である父が、成長した息子の口内を一目見ただけで、それが我が子であると悟る描写。
 言葉など必要なかった。共に過ごした時間の長さでもない。親が子を思い、子が親を求めるという魂の引力が、血の繋がりを証明していた。
「……いい映画だったね」
 レイコが、涙を拭わずに微笑んだ。
「うん。……本当に」
 僕はリモコンで画面を消した。鮮やかな極彩色の余韻が去り、部屋には再び、青白い月光と冬の静寂が戻ってきた。
 けれど、そこにあるのは虚無ではない。自分たちの選択が、間違いではなかったという確信に満ちた誇りだった。
 自分たちの愛を犠牲にしてでも、守り抜かなければならない未来がある。その残酷で気高い決意を、ウィリー・ウォンカの孤独な背中が、静かに肯定してくれているような気がした。
「最後の一週間……僕はここにいるよ。最後の瞬間まで、君と一緒にいたい」
「私も。……最後まで、あなたと一緒に」
 僕は立ち上がり、台所に向かった。そして、実家の母へ電話をかけた。
「……母さん。急で悪いけど、今日これから東京に戻ることにした。顔を見せられなくてごめん」
 電話口で、母の困惑する声が聞こえる。無理もない、数時間前まで二階にいた息子が、突然の別れを告げているのだ。
「とりあえず、また連絡するから」
 僕は短く言って電話を切った。
 これで、二〇〇六年の「タカシ」としての未練をすべて断ち切った。
 これからの一週間、僕はこの部屋で、レイコの「夫」として、そして未来の子供たちの「父」として生きる。
 窓の外では、冬の星が凛と輝いていた。
 二人の間に流れる空気は、驚くほど軽やかだった。それは、明日をも知れぬ恋人たちの焦燥ではなく、永遠の絆を手に入れた家族の、凪いだ海のような安らぎだった。
 僕たちは、どちらからともなく微笑み合い、最後の一週間の始まりを祝うように、冷えた紅茶で小さく乾杯した。
 映画の余韻が冷たい空気の中に溶け込み、部屋を支配していた静寂が、いつしか熱を帯びた重力へと変わっていった。
 僕は、ソファに身を預ける彼女の身体をゆっくりと押し倒した。
 レイコは拒むことなく、深く吸い込まれるような瞳で僕を見つめ返した。その瞳には、これから行われることが単なる情欲の果てではなく、二人で選び取った「決断」への最後の手向けであることを悟っている、静かな色があった。
 僕は、彼女のすべてを記憶の深淵に刻み込もうとした。
 視覚、触覚、聴覚、そして嗅覚――五感のすべてを極限まで磨き澄ませ、レイコという一人の女性の輪郭を、僕というキャンバスに写し取っていく。
 もしこの先、あまりにも過酷な日常の中で、彼女の声を、その笑顔を思い出せなくなる日が来たとしても。僕の細胞の一つひとつが、彼女と交わしたこの瞬間の対話を、永遠に忘れないように。
 指先が彼女の滑らかな肌を滑る。耳元の柔らかな産毛、光を弾く鎖骨の曲線、そして微かに震える睫毛。
 それは、神話の断片を指先でなぞるような、おごそかな行為だった。
 レイコもまた、僕のすべてを慈しむように、全身を使って僕を求めてきた。言葉を交わすよりも雄弁に、彼女の指先が僕の背中を、肩を、髪を愛撫する。
 いつしか二人は溶け合い、どちらがどちらの鼓動を聞いているのかさえ分からなくなるほど、密接に脈動し始めた。
 そして、その夜、僕たちは初めて「避妊」という名の冷徹な理性を放棄した。
 四十歳という分別も、未来への配慮も、社会的な後ろめたさもすべてを脱ぎ捨て、お互いの最も聖なる場所で、生の熱を剥き出しのまま感じたかった。
 それは、明日からの「親」としての人生を引き受けるための、唯一の、そして最後のわがままだった。
 僕の熱い想いが、レイコの身体の一番奥深い場所、生命が生まれる根源の場所に幾度となく触れる。
 その衝撃が走るたび、僕たちの想いは火花を散らして溶け合い、決して消えることのない「刻印」として放たれた。それは二人の愛を証明する、魂の署名(サイン)のようなものだった。
 その瞬間、レイコの瞳から大粒の涙が溢れ、枕を濡らした。
 この二週間、僕たちが溺れ、惑い、そして縋りついてきた「男」と「女」としての未練に、今、自分たちの手で幕を下ろす。
 激しく重なり合いながらも、二人の心はどこまでも静かだった。まるで、雪の降り積もる聖堂で祈りを捧げているかのように、その行為は神聖な静謐さに満ちていた。
 肌を合わせ、互いの体温を分け合いながら、僕たちは暗闇を見つめた。
 情欲の嵐が去った後の身体は、驚くほど軽く、そして透き通っていた。かつての背徳感や焦燥はどこにもない。そこにあるのは、互いを一人の人間として、一人の親として深く敬い、認め合った者同士の、高潔な連帯感だった。
 そして彼女は大事そうに、自らの下腹部を両手で優しく抱え込んだ。
「……ありがとう」
 その短い言葉に、すべての祈りが込められていた。
 これは、愛し合う喜びを享受する宴であると同時に、あまりにも清らかで、悲しい「葬送の儀式」でもあったのだ。
 僕たちは、どちらからともなく、もう一度だけ固く手を握りしめた。
 それは、二〇〇六年の恋人たちに捧げる、最後で最高の、愛の弔辞だった。
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