リフレイン ―368,000時間の初恋―

武蔵

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第二十四話:余熱 ―身体に残る幸福―

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二〇二六年一月十三日。

レイコの覚醒は、タカシのそれとは対照的に、どこかふわふわとした微睡(まどろみ)の中にあった。

枕元に差し込む冬の朝光が、閉じた瞼をオレンジ色に染める。
「夢を見た」というかすかな余韻だけが、甘い炭酸水のように身体の奥で弾けていた。

内容は思い出せない。
けれど、それは決して嫌な夢ではなく、誰かにずっと大切に守られていたような、温かな毛布の感触に似ていた。

「……ん?」

目覚まし時計を見て、レイコは飛び起きた。

「うそ、もうこんな時間!?」

いつもなら六時に起きてお弁当を作らなければならないのに、時計の針は七時を回ろうとしている。

慌ててガウンを羽織り、寝室を飛び出す。
不思議だった。普段なら寝坊をしたというだけで、「またやってしまった」「夫に嫌味を言われる」という自己嫌悪と恐怖で胃が縮みあがるのに、今日のレイコはなぜか、「まあ、なんとかなるわ」という根拠のない高揚感に包まれていた。

キッチンに駆け込むと、そこには既にスーツに着替えた夫が、不機嫌そうにコーヒーをすすっていた。

冷え切った空間。いつもの「現実」という名の重圧だ。
夫は新聞から目を離すと、氷のような視線を送る。

以前のレイコなら、その一瞥で萎縮し、「ごめんなさい、すぐに朝食を」と卑屈に謝っていただろう。

けれど、今日のレイコは違った。身体の芯に残る「正体不明の熱」が、夫の冷たさをはね除けたのだ。

「ごめんなさい! なんだか、すっごく深く眠っちゃって」

レイコは明るく声を上げると、テキパキと冷蔵庫を開けた。
夫が怪訝そうに眉を寄せ、新聞を下ろす気配がする。

「……そうか」

「すぐトースト焼くわね。コーヒー、入れ直しましょうか? 冷めちゃったでしょう」

レイコは夫のカップを覗き込み、自然な動作で新しいコーヒーを淹れ始めた。
その手つきには、迷いも恐れもない。むしろ、鼻歌でも歌い出しそうな軽やかさがあった。

淹れたてのコーヒーの香りが、殺伐としたキッチンを優しく満たしていく。

「はい、どうぞ」

コトリ、とソーサーを置く。

夫は狐につままれたような顔でレイコを見つめ、それから「……ああ、ありがとう」と、いつもより少しだけ柔らかい声で礼を言った。

「おはよう……」

そこへ、制服姿の娘、レイナが起きてきた。

受験を一ヶ月後に控えた彼女の表情は、連日の塾と、この家の冷たい空気に当てられて、能面のように強張っている。

レイナは、不機嫌な父と、それに怯える母――いつもの窒息しそうな朝の風景を覚悟してリビングに入ってきたはずだった。

しかし。

「あらレイナ、おはよう! 顔洗ってらっしゃい。今日は美味しいイチゴがあるのよ」

振り向いた母の顔を見て、レイナは目を丸くした。

そこには、いつもの疲れ切った「ごめんね」という顔ではなく、内側から発光するような、瑞々しい笑顔があったからだ。

エプロンの紐を結ぶ母の背中が、今日はなぜか、とても大きく、頼もしく見える。

「……お母さん、なんか今日、変だよ?」

レイナが戸惑いながら言うと、レイコは悪戯っぽくウインクをした。

「そう? 久しぶりによく寝たからかしら。なんだか、体が軽いのよ」

レイナは、ポカンとした後、ふっと口元を緩ませた。
張り詰めていた家の中の空気が、母の笑顔ひとつで、春の雪解けのように緩んでいくのを感じたからだ。

「ふふ、なにそれ。……でも、そっちの方がいいかも」

レイナが小さくつぶやき、席に着く。

自分の中に巣食っていた虚無感は、まだ消えていないかもしれない。
けれど、思い出せない「誰か」から受け取った愛の残響が、今のレイコを支え、家族を守るための「強さ」へと変わろうとしていた。


二〇二六年二月十三日。

夕方のキッチンには、換気扇の回る低い音と、野菜を煮込むコトコトという音が満ちていた。
私は、慣れた手つきで鍋をかき混ぜていた。

今夜のメニューはカレー。夫と、受験を終えた娘の好物だ。
隠し味に、少しだけインスタントコーヒーと蜂蜜を入れる。

それは、いつからか我が家の、いいえ、「私」の定番になった味付けだった。

小皿に少し取り、味見をする。
口の中に、スパイシーな香りとコクのある甘みが広がった。

「……あ」

その味が舌に乗った瞬間、時間が止まった。

狭いワンルームの空気。安っぽいテーブル。
向かい側で「うまい、うまい」と無邪気に笑ってくれた、誰かの笑顔。
目の奥に映るような感覚がレイコを襲う。

(誰?)

思い出そうとすると、頭の中に濃い霧がかかる。
顔も、名前も、声さえも思い出せない。

私の人生に、そんな人は存在しなかったはずだ。
夫以外の男性と暮らした記憶なんて、どこにもない。

けれど、身体は覚えていた。
この味を「美味しい」と言ってくれた時の、胸が締め付けられるような幸福感を。
そして、その人と食べた「食事」の味を。

ポタ、ポタ、とシンクに雫が落ちた。

涙だった。

自分でも訳が分からないまま、私はお玉を握りしめて立ち尽くした。
懐かしい。狂おしいほどに、懐かしい。

もう二度と会えない誰か。
私の命よりも大切だった、名前のない誰か。

「ママ? いい匂いしてきたね」

背後から、レイナの声がした。
私は弾かれたように涙を拭い、大きく息を吸い込んでから振り返った。

「ええ、美味しくできたわよ。……レイナ、お皿並べるの手伝ってくれる?」

娘に向ける笑顔は、以前よりも少しだけ深く、そして強くなっていた。

思い出せない失った何かが、今あるものの尊さを教えてくれている。
前を向いて行こう。この感覚があればどんな試練も超えていけるような気がした。

私は鍋の蓋を閉めた。
湯気の中に、幻の記憶を封じ込めるように。


その日の深夜。

タカシはベランダで、レイコはリビングの窓辺で、偶然にも同じ瞬間に夜空を見上げていた。

タカシのいる東京の空は明るく、星は見えない。
レイコのいる福島の空は吸い込まれるような黒い空。

ただ、白く輝く半分の月だけが、ぽつりと浮かんでいる。

二人の記憶(メモリ)は、システムによって正常に処理されていた。
タカシはレイコの顔を思い出せず、レイコはタカシの名前を思い出せない。

街ですれ違っても、きっと気づくことはないだろう。

けれど、見上げる月の輝きは、今この瞬間だけ二人を繋ぐ唯一の回路だった。

魂の声が呟く。
(ここにいるよ……)

同時に響いた、届くはずのない祈りが、冬の夜空に溶けていく。

「ねえ、あなた風邪引くわよ」

「お母さん、寒いよー」

二人を呼ぶそれぞれの現実。

二人は、それぞれの場所で、それぞれの家族を守るために窓を閉めた。

カチャリ、という鍵の音は、二つの人生が再び平行線に戻ったことを告げる、静かな合図だった。
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