リフレイン ―368,000時間の初恋―

武蔵

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第三十一話:共鳴 ―理由なき涙の理由―

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六月の朝、世界は深い緑の湿気に沈んでいた。

目白の台地に広がる「椿の山」は、滴るような翠(みどり)の香りを放ち、霧雨を孕んだ重い大気が、すべてを境界の曖昧な幻灯器のように包み込んでいる。

都内の自宅で、タカシは新郎の父としての正装を整えていた。
鏡の中に映る自分は、五十歳という分厚い月日の地層に埋もれた、どこか遠い他人のように見える。

今日、息子のショウタはひとつの結節点を迎える。
その晴れ舞台で、ショウタが身に着けることを何よりも楽しみにしていたものがあった。

それは、タカシの父、そしてタカシ自身も結婚式で身に着けた、親子三代にわたる銀のカフスボタンだった。その鈍い輝きは、血の繋がりという名の、目に見えない糸を可視化した唯一の証(あかし)だった。

「お父さん、まだ? タクシー、もう下に来てるわよ」

娘のエリの声が、リビングから鋭く響く。
だが、タカシの手はクローゼットの奥で凍りついていた。

ない。
昨夜、間違いなく桐の小箱に入れて机に置いたはずのカフスが、忽然と消えていた。

家中を血眼になって探すが、見当たらない。
時間は無情に刻まれ、親族紹介の時限が刻一刻と迫る。
タカシは、胃を抉られるような焦燥の中で、苦渋の決断を下した。

「……二人とも、先に行ってくれ。親族紹介に家族がいないわけにはいかない。何よりも……ショウタに、これを届けないわけにはいかないんだ」

妻とエリを送り出し、静まり返った家の中で、タカシは祈るような思いで書斎の棚をひっくり返した。心拍数が耳元で暴力的に鳴り響く。

そして、あきらめかけたその瞬間。
なぜか分厚い辞書の裏側、本来あるはずのない隙間に、その小箱は身を潜めるように転がっていた。

手にした小箱の重みに安堵したのも束の間、窓の外では翠雨が、天の底が抜けたかのような激しさを増していた。

スマホの配車アプリは、非情な「十五分」という数字を突きつける。

待てない。

タカシは燕尾服のまま、傘だけを差して土砂降りの雨の中へと飛び出した。駅まで走る。濡れたアスファルトは鏡のように周囲を反射し、泥水が燕尾服の裾を無残に汚す。ようやく捕まえたタクシーの車内で、彼は運転手に「急いでください」と、自分でも驚くほど切迫した声を絞り出した。

しかし、十五分後、不自然なほどの渋滞が彼を阻んだ。
まるで、世界そのものが彼の歩みを拒絶しているかのように、車列はぴたりと止まったままだ。

(……間に合うのか?)

窓を叩く雨音に混じり、頭のどこか、意識の深淵から冷たい声がささやく。

『もういいじゃないか。あきらめろ。お前が行っても、何も変わらない。間に合いはしない』

スマホには妻からの催促、ショウタの戸惑い、無数の通知が赤く点滅している。

タカシは小箱を掌の中で強く握りしめた。三代続くこの銀の絆を、今日、息子に繋がなければならない。その一念が、崩れ落ちそうな理性の防波堤を辛うじて支えていた。

しかし、それ以上に、あの式場へ行かなければならないという、理由の見えない、狂おしいほどの渇望が彼を突き動かしていた。

「お客さん、どうします? これはもう、動きませんよ」

運転手の投げやりな言葉を遮り、タカシは言う。

「……ここで降ります」

雨の中に身を投げ出し、車列の脇を走り出す。
肺が焼けるように熱い。燕尾服は雨を吸って鉛のように重くのしかかり、ネクタイは歪み、泥が跳ねる。

格式高い「椿の山」の門をくぐったとき、彼の姿は、祝宴に参列する父というより、戦場を彷徨ってきた敗残兵のようだった。

ホテルの廊下を駆け抜け、自家の控室に辿り着いたとき、親族紹介の儀はすでに幕を閉じていた。妻の怒気を含んだ悲鳴のような声が、タカシを現実に引き戻す。

彼は震える手でカフスを妻に託した。

「とにかく……これを、ショウタに。僕は……あちらへ、謝罪に行ってくる」

妻がショウタの元へ向かうのと入れ違いに、タカシはふらつく足取りで永山家の控室へと向かった。

その頃、永山家の控室。
レイナの父は「娘の様子を見てくるよ」とレイコに告げ、部屋を出た。レイコは後から行くと伝え一人、椅子に座り、激しい雨に煙る庭園を眺めていた。

なぜか、立ち上がることができなかった。

(……なぜか、ここにいなきゃいけない気がする。ここで、誰かを待たなきゃいけない)

その直感が、彼女を深い静寂の中に留めていた。

コン、コン。

控えめな、けれど魂を叩くようなノックの音が響く。

「どうぞ」

その声を聞いた瞬間、レイコの身体から不自然な重圧が消え、浮遊感にも似た軽やかさが訪れた。扉がゆっくりと開き、雨の匂いと共に、タカシが入ってきた。

窓の外を見つめていたレイコの横顔が、ゆっくりとこちらへ向く。

その一瞬が、スローモーションのように引き伸ばされ、タカシの視神経を灼いた。息をすることさえ忘れ、彼は立ち尽くした。

(美しい……)

肩で息をし、顔色は土色。あまりに無残で、あまりに必死なその姿に、レイコが驚いて椅子から立ち上がる。

「あ、その……遅くなり……申し訳ございません。甲斐田です……」

「レイナの母、永山レイコです」

凛とした姿勢で、完成された淑女の所作をもって頭を下げるレイコ。その流麗な動きに、タカシは喉の奥が張り付くような緊張を覚えた。

二人の視線が重なった瞬間、世界からすべての雑音が消失した。

窓から差し込む夏の鈍い光が、彼女の輪郭を白銀に縁取っている。写真というフィルターを通さない、本物のレイコ。哀しみと慈しみをその身に宿した、本物の彼女。

タカシの魂が、内部から激しく慟哭した。

なぜ自分が死ぬ物狂いでここを目指したのか。
脳が理解を拒む一方で、細胞のひとつひとつが、彼女という存在を「唯一の真実」として再認識していた。

「……すいません、出かける際にいろいろありまして。こんな大事な日に、遅刻するなんて。親、失格です」

タカシは自嘲気味に、震える声で言葉を切り出した。

「いえいえ……私も。大事なお顔合わせの時に、欠席してしまいました。こちらこそ、申し訳ありませんでした」

レイコが軽く頭を下げる。その拍子に、彼女の瞳がわずかに揺れた。

「ふふっ……」

レイコが、不意に小さく笑った。

「あ、すみません。……あの、変な意味ではないんです。なんだか、いつかどこかで、こんな風景を見たことがあるような気がしてしまって」

その言葉に、タカシも今更ながら自分の無残な姿を自覚し、笑うしかなかった。

初めて対面したはずの二人の間には、新郎新婦の親という節度ある距離感があった。しかし、流れる空気は、お互いの輪郭を溶かし合うような優しい温度に満ちていた。

「息子のショウタは……少し奥手なところはありますが、お嬢さんを大切にするという気持ちは、本気です。自慢の息子ですから。絶対に……絶対に、幸せにします」

タカシは母親としての彼女を安心させたい一心で、誓うように告げた。
しかし、レイコはおかしそうに目を細めて言った。

「まるで、甲斐田さんご自身が、レイナをお嫁さんにするみたいに聞こえますわ」

「えっ? いえ……いや、そんなつもりでは……」

慌てるタカシを、レイコは柔らかな眼差しで遮った。

「もちろん、冗談です。でも……甲斐田さんの人柄が、今、よくわかりました。この家庭になら、あの子を安心して預けられます。よろしくお願いします」

レイコが深く頭を下げる。
そして顔を上げ再びタカシに向けた微笑みを前にした時、タカシの足がわずかだが前に出ていた。

その瞬間、タカシの心と理性が、鋭い警鐘を鳴らし始める。

(……ここにいてはいけない。これ以上、この空気に触れてはいけない。理性が、壊れてしまう)

「私も、恰好をなんとかしないといけないので……そろそろ、これで、失礼します」

タカシは、逃げ出すように踵を返した。
扉のノブに手をかけたとき、後ろからレイコの声が、羽毛のように優しく、けれど重力を持って届いた。

「あの……」

タカシは、抗えずに振り返った。

その瞬間、二人は見てしまった。

お互いの瞳が、熱い涙で赤く滲んでいるのを。
レイコは咄嗟に視線をそらし、震える唇を噛み締めた。

「……いえ、何でもありません。呼び止めてしまって、すいません」

「……では。失礼します」

タカシは一言だけ残し、部屋を出た。

閉ざされた扉の向こうで、タカシは壁に手をつき、肺が潰れるほど深い吐息を漏らした。

(なんだったんだ、この感覚、まさか自分は息子の嫁の母親に対して……そんな……)

心の整理が出来ないまま、部屋から遠ざかる。

廊下には、祝宴の始まりを告げる華やかな音楽が聞こえ始めていた。

二人の愛が犠牲になったあの日から、三十年。
泥にまみれた燕尾服と、涙に濡れた絹のドレス。

二人は、自分たちが守り抜いた「未来」という名の光の中へ、それぞれの思いを抱えたまま、ゆっくりと歩き出した。
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