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第三十二話:秘匿 ―墓場まで持っていく恋―
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レイコ視点
夫に「後から行く」と告げたとき、自分の声がどこか遠くで響いているような奇妙な浮遊感があった。
一人残された控室。
窓の外を流れる翠雨(すいう)を眺めながら、わたしはとても穏やかな気分になった。
それがなんなのか分からないが、ただはっきりしているのは、それが「物」なのか「人」なのかさえ定かではないけれど、わたしの魂は、一生をかけてこの静寂の中に留まろうとしていた。
そして、ノックの音が響いた。
その瞬間、(来た)と私の心は呟いた。
私は扉に目を向けることなく「どうぞ」と答えた。
その言葉と同時に全身の力が抜け、世界が白く反転する。
扉が開くと立っていたのは、惨めなほどに泥に汚れ、雨に濡れた、一人の男だった。
正装を台無しにし、息を切らし、疲れ切ったような顔をしたその人。
本来なら不審者として拒絶すべきその姿を、わたしは「世界で一番美しいもの」として迎え入れていた。
(この人だ)
彼の不器用な所作、言葉、表情が私の中の何かに訴えかけ、私の中の何かを引っ張り出そうとする。
私の心が揺さぶられる。
そして娘の義理の父という立場が私の心にかすかな理性を呼び覚まし、この二人の距離、約2メートルを維持することが出来ている。
彼が去ろうとして扉に手をかけたとき、喉の奥から涙がせり上がってきた。
なぜ、初めて会った男性のために、これほどまでに胸が締め付けられるのか。
その理由を説明できる言葉を、わたしは持たなかった。
ただ、雨の匂いを纏った彼の必死さが、わたしの魂を真っ二つに裂いてしまったのだ。
再び一人残された控室。
わたしはまた、さっきと同じ椅子に座り、窓の外の雨を眺める。
この痛みも、この祈るような静寂も、初めてではないことを、なぜか今のわたしは知っていた。
*
披露宴会場「琥珀の間」は、数えきれないほどのキャンドルの火が揺らめき、祝祭の熱気と金管楽器の柔らかな音色に満たされていた。
新郎の父として末席に座るタカシは、目の前に並ぶ繊細な料理に一度も箸をつけることができずにいた。
隣に座る妻は、ショウタの成長を振り返るスライドショーを見て、幾度もハンカチを目に当てている。
タカシもまた、画面を見つめていた。
しかし、その視線の端には、常に一人の女性がいた。
円卓の向こう側、新婦の母として座る永山夫人――レイコ。
彼女がグラスを持つ指先の細さ、笑った時にわずかに細められる瞳の角度、そして、時折寂しげに落とされる視線の陰影。
そのすべてが、タカシの心臓を、まるで見えない楽器のように掻き鳴らしていた。
(……これは、罪だ)
タカシは、握りしめた膝の上の拳に力を込めた。
記憶に、彼女はいない。
脳は冷徹に「今日初めて会った親戚だ」と告げている。
なのに、どうしてこれほどまでに心が奪われるのか。
これは懐かしさではない。
五十歳になった自分が、今、この瞬間に、人生で一度も経験したことのないほどの激しさで、見知らぬ女性に恋をしてしまっている。
それは雷に打たれたような衝撃であり、同時に、深い闇の底でようやく一筋の光を見つけたような救いでもあった。
その時、会場の照明が落ち、新郎新婦が各テーブルを回るキャンドルサービスが始まった。
幻想的な光が会場を移動し、二人の距離を一時的に近づける。
タカシのテーブルにショウタとレイナがやってきたとき、永山夫妻もまた、娘の晴れ姿を近くで見ようと立ち上がった。
数メートルの距離で、タカシとレイコの視線が、不意に、真っ向から重なった。
周囲の拍手も、司会者の華やかな声も、すべてが真空の彼方へと吸い込まれていく。
レイコの瞳が、深い悲しみと歓喜が混ざり合ったような色に揺れているのを、タカシは見逃さなかった。
彼女もまた、同じ地獄に落ちていた。
夫の隣に立ち、娘の幸せを祈る「完璧な母親」という仮面の下で、彼女の魂は、今出会ったばかりの男性――「甲斐田氏」を求めて、悲鳴を挙げていた。
「記憶」ではない。「魂」の共鳴。
認知阻害プロトコルという厚い壁の外側で、二人の本質(エッセンス)だけが、三十年分の空白を埋めるように、無言のまま溶け合っていた。
タカシは、あえて一歩、後ろへ下がった。
その一歩は、彼女への拒絶ではなく、彼女の人生と、息子たちの未来を守るための、彼にできる精一杯の「誠実」だった。
(私は、この想いを誰にも言わない。墓場まで持っていく)
自分を「浅ましい父親」だと呪いながらも、タカシはレイコに一度だけ、深く、静かな会釈を返した。
「二人の未来の為に、お互いがんばりましょう」
そのありふれた祝辞に、タカシは自分たちの「新しい恋」への、永遠の決別と弔いを込めた。
レイコもまた、震える唇を噛み締め、答えた。
「はい、二人の未来のために」
彼女の目からこぼれ落ちた一滴の涙。
それは周囲には娘を送り出す感涙と映っただろう。
しかしタカシだけは、それが自分と同じ、引き裂かれるような想いの雫であることを、確信していた。
披露宴の夜、タカシは心に一つの誓いを立てた。
あの控室で交わした視線、あの雷に打たれたような情動は、一生、誰にも明かさぬまま胸の奥底に埋めるのだと。
レイコもまた、同じ決意を抱いていた。
夫と眠るベッドの中で、窓の外の月を見上げながら、名前も知らぬはずの「甲斐田氏」への想いを、自分を責めるための棘(とげ)として喉の奥に飲み込んだ。
夫に「後から行く」と告げたとき、自分の声がどこか遠くで響いているような奇妙な浮遊感があった。
一人残された控室。
窓の外を流れる翠雨(すいう)を眺めながら、わたしはとても穏やかな気分になった。
それがなんなのか分からないが、ただはっきりしているのは、それが「物」なのか「人」なのかさえ定かではないけれど、わたしの魂は、一生をかけてこの静寂の中に留まろうとしていた。
そして、ノックの音が響いた。
その瞬間、(来た)と私の心は呟いた。
私は扉に目を向けることなく「どうぞ」と答えた。
その言葉と同時に全身の力が抜け、世界が白く反転する。
扉が開くと立っていたのは、惨めなほどに泥に汚れ、雨に濡れた、一人の男だった。
正装を台無しにし、息を切らし、疲れ切ったような顔をしたその人。
本来なら不審者として拒絶すべきその姿を、わたしは「世界で一番美しいもの」として迎え入れていた。
(この人だ)
彼の不器用な所作、言葉、表情が私の中の何かに訴えかけ、私の中の何かを引っ張り出そうとする。
私の心が揺さぶられる。
そして娘の義理の父という立場が私の心にかすかな理性を呼び覚まし、この二人の距離、約2メートルを維持することが出来ている。
彼が去ろうとして扉に手をかけたとき、喉の奥から涙がせり上がってきた。
なぜ、初めて会った男性のために、これほどまでに胸が締め付けられるのか。
その理由を説明できる言葉を、わたしは持たなかった。
ただ、雨の匂いを纏った彼の必死さが、わたしの魂を真っ二つに裂いてしまったのだ。
再び一人残された控室。
わたしはまた、さっきと同じ椅子に座り、窓の外の雨を眺める。
この痛みも、この祈るような静寂も、初めてではないことを、なぜか今のわたしは知っていた。
*
披露宴会場「琥珀の間」は、数えきれないほどのキャンドルの火が揺らめき、祝祭の熱気と金管楽器の柔らかな音色に満たされていた。
新郎の父として末席に座るタカシは、目の前に並ぶ繊細な料理に一度も箸をつけることができずにいた。
隣に座る妻は、ショウタの成長を振り返るスライドショーを見て、幾度もハンカチを目に当てている。
タカシもまた、画面を見つめていた。
しかし、その視線の端には、常に一人の女性がいた。
円卓の向こう側、新婦の母として座る永山夫人――レイコ。
彼女がグラスを持つ指先の細さ、笑った時にわずかに細められる瞳の角度、そして、時折寂しげに落とされる視線の陰影。
そのすべてが、タカシの心臓を、まるで見えない楽器のように掻き鳴らしていた。
(……これは、罪だ)
タカシは、握りしめた膝の上の拳に力を込めた。
記憶に、彼女はいない。
脳は冷徹に「今日初めて会った親戚だ」と告げている。
なのに、どうしてこれほどまでに心が奪われるのか。
これは懐かしさではない。
五十歳になった自分が、今、この瞬間に、人生で一度も経験したことのないほどの激しさで、見知らぬ女性に恋をしてしまっている。
それは雷に打たれたような衝撃であり、同時に、深い闇の底でようやく一筋の光を見つけたような救いでもあった。
その時、会場の照明が落ち、新郎新婦が各テーブルを回るキャンドルサービスが始まった。
幻想的な光が会場を移動し、二人の距離を一時的に近づける。
タカシのテーブルにショウタとレイナがやってきたとき、永山夫妻もまた、娘の晴れ姿を近くで見ようと立ち上がった。
数メートルの距離で、タカシとレイコの視線が、不意に、真っ向から重なった。
周囲の拍手も、司会者の華やかな声も、すべてが真空の彼方へと吸い込まれていく。
レイコの瞳が、深い悲しみと歓喜が混ざり合ったような色に揺れているのを、タカシは見逃さなかった。
彼女もまた、同じ地獄に落ちていた。
夫の隣に立ち、娘の幸せを祈る「完璧な母親」という仮面の下で、彼女の魂は、今出会ったばかりの男性――「甲斐田氏」を求めて、悲鳴を挙げていた。
「記憶」ではない。「魂」の共鳴。
認知阻害プロトコルという厚い壁の外側で、二人の本質(エッセンス)だけが、三十年分の空白を埋めるように、無言のまま溶け合っていた。
タカシは、あえて一歩、後ろへ下がった。
その一歩は、彼女への拒絶ではなく、彼女の人生と、息子たちの未来を守るための、彼にできる精一杯の「誠実」だった。
(私は、この想いを誰にも言わない。墓場まで持っていく)
自分を「浅ましい父親」だと呪いながらも、タカシはレイコに一度だけ、深く、静かな会釈を返した。
「二人の未来の為に、お互いがんばりましょう」
そのありふれた祝辞に、タカシは自分たちの「新しい恋」への、永遠の決別と弔いを込めた。
レイコもまた、震える唇を噛み締め、答えた。
「はい、二人の未来のために」
彼女の目からこぼれ落ちた一滴の涙。
それは周囲には娘を送り出す感涙と映っただろう。
しかしタカシだけは、それが自分と同じ、引き裂かれるような想いの雫であることを、確信していた。
披露宴の夜、タカシは心に一つの誓いを立てた。
あの控室で交わした視線、あの雷に打たれたような情動は、一生、誰にも明かさぬまま胸の奥底に埋めるのだと。
レイコもまた、同じ決意を抱いていた。
夫と眠るベッドの中で、窓の外の月を見上げながら、名前も知らぬはずの「甲斐田氏」への想いを、自分を責めるための棘(とげ)として喉の奥に飲み込んだ。
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