リフレイン ―368,000時間の初恋―

武蔵

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Side Story1:残響 ―彼女がワルツを踊る理由―

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レイナとショウタの結婚式から一週間が過ぎた。
日常という名の静かな水面に、一度投げ込まれた激越な感情の石は、今もなお深淵へと沈みながら波紋を広げ続けている。
私の心は、あの日からずっと、制御不能な「逆流」の中にいた。
「おい、コーヒー!」
キッチンの奥から響く、無機質な声。その響きは今の私にとって、遠い異国の言語か、あるいは壊れたラジオのノイズにしか聞こえなかった。私はハッと我に返り、意識の断片をかき集めてジャグからコーヒーをカップへと注ぐ。手の震えを悟られないよう、細心の注意を払いながらそれをリビングへと運んだ。
「なんか最近変だぞ?」

投げつけられた言葉を、私はただ微笑みの仮面で受け流す。夫の言葉は右から左へと、実体のない風のように流れていった。
主人が家を出ると「私一人の二十年」が、静寂と共に戻ってくる。
いつもなら、この時間は掃除機をかけ、家中の空気を入れ替えるルーティーンに没頭するはずだった。けれど、今の私にはそんな気力は一欠片も残っていない。
私は、まるで重力に負けた小鳥のように、ソファに深く腰を下ろした。
無意識に手が伸びる。スマートフォンを手に取り、慣れた操作で写真のアルバムを開く。
そこにあるのは、レイナの晴れ姿でも、親族の集合写真でもない。
――甲斐田タカシ。
その人の、どこか遠くの景色を射抜くような、憂いを帯びた横顔のアップだ。
冷静な理性が、脳の隅で警鐘を鳴らしている。五十を過ぎた大人の女が、何を少女のような熱病に浮かされているのかと。なぜ、たかが娘の義理の父に過ぎない男に、これほどまで魂が震えなければならないのかと。
けれど、そんな正論は、彼の立ち姿や声の掠れ、ふとした瞬間に見せる切なげな眼差しを思い出すだけで、瞬時に霧散してしまう。正直に言えば、このまま夜の帳が降りるまで、この青白い光を放つ画面の中の彼を見つめ続けていたい。
もし私が、まだ何の色もついていない中学生だったなら。
この甘く、鋭い疼きに身を任せ、誰に気兼ねすることもなく恋の深淵に没頭できただろう。いや、そうありたいと願ってしまう自分が、どこまでも浅ましく、そして愛おしかった。
しかし、現実は非情だ。私は五十歳の「母」であり「妻」なのだ。娘の義理の父に恋をする。それは社会的なタブーであり、不倫という名の泥沼へと続く道。何より、愛するレイナの幸せに冷水を浴びせるような裏切りであることは、痛いほどに解っている。
「……ああ、もう」
やり場のない感情が飽和し、私はうつ伏せにソファに体を投げ出した。行儀悪く足をばたつかせる。その姿は、失ったはずの「二十歳の私」が、今の私を内側から突き動かしているかのようだった。
もどかしい。狂おしい。理由のわからないこの熱情を、一体どこへ捨てればいいのか。
結局、午前中の柔らかな陽光は、何も手につかないまま、ただ床に影を落として過ぎていった。
午後の静寂を切り裂いたのは、不意に鳴り響いた固定電話だった。
逃げるように受話器を取る。
「……もしもし、甲斐田です」
その低く、穏やかな響きが鼓膜に触れた瞬間、肺の中の空気がすべて吸い出されたような感覚に陥った。
「?! は、はい……永山ですが……」
「あの、突然すみません。今、母の介護の件で施設の下見に来ておりまして。母がどうしても、近くまで来たのならご挨拶に伺いたいと言い出しまして……。やはり、ご迷惑ですよね?」
電話口の向こう、困ったように微苦笑する彼の気配が伝わってくる。
「え、あ、いえ! 全然、大丈夫ですよ」
(嘘。掃除もしていない。まともなお菓子もないのに)
「いや、本当に急ですから。またの機会にしていただいても構わないのですが……」
「いいえ! ぜひ、いらしてください。お母様にもお会いしたいですし」
私の口は、理性を裏切って勝手に言葉を紡ぐ。
「分かりました。では、今から向かいます。三十分後にはそちらにお伺いできると思います」
「三十分! ……あ、はい。お待ちしております、ふふ、ほほ」
電話を切った瞬間、私は悲鳴にも似たパニックに襲われた。
お母様が来られる。それだけでも一大事なのに、何より、彼が来る。彼が、私の生活の匂いが染み付いたこの場所へと足を踏み入れる。
私は狂ったようにリビングを片付け、玄関の靴を揃え、トイレに芳香剤を撒いた。午前中のサボりを心底から悔やみ、息を切らして寝室へ駆け込む。
残り、十五分。
鏡台の前に座り、私は自分の顔を睨みつけた。
パフを叩く指が、笑ってしまうほど震えている。目元の皺を、くすみを取り去り、少しでも「女」としての光を宿そうとする必死な自分。一瞬、香水に手が伸びかけた。けれど、すぐに手を引っ込める。家で迎えるのに香水なんて、下心が透けて見えてしまう。
鏡の中の私は、完璧な「母」であろうとしながらも、瞳の奥には一人の「男」を待つ、剥き出しの女の光が宿っていた。
ピンポーン。
心臓が跳ねた。もう一度鏡を確認する。「大丈夫綺麗だよ」手を頬に当てた。そして玄関へと向かう。
扉を開けると、そこには冬の澄んだ冷気を纏ったタカシさんと、上品な笑みを浮かべたお母様が立っていた。
リビングへ通し、お茶と用意したばかりのお茶請けを差し出す。彼は果物の詰め合わせを差し出してくれた。
「いいお住まいですね。お庭もきれいにされていて」
お母様が穏やかに話しかけてくださる。
「いえ、もう住んで二十年ですから、あちこち手直しが必要で……」
三人で世間話を交わすが、私の意識はタカシさんの存在に全感覚を奪われていた。何を話し、何を答えたのか、記憶は真っ白な砂嵐のようだ。彼は彼で、なぜか言葉を選んでいるようで、室内には奇妙な「気まずさ」という名の濃密な霧が立ち込めていた。
お母様がふと、お庭を見たいとおっしゃった。タカシさんは「失礼だから」と引き止めたが、私はむしろその提案を歓迎し、二人をテラスへと案内した。
冬の午後の陽射しを浴びて、私の手入れしている寒椿が、凍てつく空気の中で赤い炎のように咲いている。お母様が熱心に花を眺めている隙だった。
「すいません、母は一度言い出すと聞かなくて……」
不意に隣に現れたタカシさんの気配。彼のジャケットの裾が、私の腕をかすめる。その微かな接触だけで、肌の下で粟立つような感覚が走った。
「あ、いえ。お母様、お元気そうで何よりです」
動揺を悟られないよう、私は寒椿に視線を固定する。顔に熱がこもる。今、彼を直視してしまったら、私の仮面は剥がれ落ちてしまうだろう。中学生じゃないんだからと、自分を強く叱咤する。
「そういえば……このあたりには、大きなショッピングモールが昔ありましたよね。懐かしいな」
タカシさんが、遠くを見つめるように言った。
「ええ。もう閉鎖されて、今は立ち入り禁止になっていますけれど……」
「あの高台に見えるのは、教会ですか?」
彼の指差す先。冬の蒼穹に突き刺さるような、あの古い尖塔。
その瞬間、私の心臓は暴力的なまでの鼓動を刻んだ。ただの見慣れた景色のはずなのに。毎日見ている、古びた建物のはずなのに。
なぜ、今この瞬間、あの場所が「魂の故郷」のように思えるのか。胸の奥が、千切れるほどに締め付けられる。
「ええ。あそこも……今は、閉鎖されて……」
言葉が震えた。タカシさんをふと見上げると、彼もまた、吸い込まれるような眼差しでその教会を凝視していた。
沈黙が、重力を伴って二人を包み込む。
冬の風が吹き抜け、枯れ葉が乾いた音を立てて舞った。
その刹那、あまりの距離の近さに、私は理性の防壁が崩壊する音を聞いた。
(触れたい)
ただ一度でいいから、その大きな手に。その温もりに。記憶のどこにもないはずの、けれど細胞が覚えている確かな熱に。
「……触れたい」
声にならないはずの呟きが、乾いた空気にこぼれ落ちていた。
「えっ? 今、何て?」
タカシさんが驚いたように、私を覗き込む。
心臓が止まりかけた。私は耳まで真っ赤になり、激しく首を振った。
「あ、いえ! あそこの……あそこの椿に、触れたら痛いかしらって! 棘があるから……!」
支離滅裂な言い訳。彼は「ああ……そうですね」と、困ったような、すべてを見透かしているような、どこか戸惑いを帯びた表情を浮かべた。
その瞬間、私は自分の愚かさを骨の髄まで自覚した。
今、私は、娘の結婚相手の父親の前で、完全に「一人の女性」の顔をして立っているのだ。
隠しきれない熱、潤んだ瞳、震える呼吸。
理性が「パニック」という名の悲鳴を上げる。
(マズい……見られたらダメ。こんな私を、この人にだけは見られたらダメ……!)
タカシさんの瞳に宿る、あの困惑した、静かな視線が、私の仮面を一枚ずつ、残酷に剥ぎ取っていく。
「母さん、そろそろ失礼しよう。永山さんもお忙しいだろうし」
彼が短く言った。その声には、彼自身もまた、この場所の「毒」に気づいてしまったかのような危うさが混じっていた。
「もう少しゆっくりしていらしても……」という私の言葉を、彼は「いや、これ以上は」と、自分自身に言い聞かせるように断ち切った。
その言葉の真意を、私の魂は瞬時に理解した。
これ以上、同じ空気を吸ってはいけない。
これ以上、同じ光の中にいてはいけない。
玄関で見送る際、私たちは一度も目を合わせなかった。
「……失礼します」
「……お気をつけて」
走り去る車のテールランプが、冬の夕闇に消えていくのを見送る。
一人になった瞬間、玄関のドアに背中を預け、私はずるずるとその場に崩れ落ちた。
全身から力が抜け、猛烈な恐怖が、後から波のように襲ってくる。
(マズい。……会うのは、もう、絶対にマズい)
次に彼と真っ直ぐ視線を交わしてしまったら、私は私でいられなくなる。
良き母であることも、良き妻であることも。この平穏な家を、自分の人生のすべてを、焼き尽くしてしまうだろう。
重い足取りで、誰もいないリビングへと戻った。
掃除も中途半端なままの床。
私は、彼がさっきまで座っていたソファの場所に、吸い寄せられるように腰を下ろした。
もう体温は残っていない。けれど、そこには確かに彼がいたという「残響」だけが、暴力的なまでの重力を持って私を押し潰す。
目元から、熱いものが一筋流れた。
私は、涙を拭うことさえ忘れ、窓の向こう――夕刻の闇に溶けていく、あの閉鎖された古い教会をじっと見つめた。
「甲斐田タカシ……」
名前を呼ぶだけで、世界が琥珀色に染まり、逆流し始める。
私たちは、踊り続けなければならないのだ。
二度と視線が混ざり合わないように。
二度とこの熱が、外に漏れ出さないように。
鏡合わせの平行線のまま、指先さえ触れ合わぬ距離で。
それが、私たちに許された、唯一のワルツなのだと知った。
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