ハニーブラッド

八六七

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サヴレン国内

フィーレ市場

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 ルナとエヴィが塒としているこぢんまりした宿舎から、魔力制御の大型二輪バイクを走らせて一時間程の場所にあるサヴレン最大の市場、フィーレ市場。食材は勿論のこと、布から武器や防具、家畜やバイク、車、大きなものになると飛行艇までと幅広いものが売買されている。

「ハリスといる頃に聞きました。あそこには皇帝様がおられるのですよね。どのようなお方なのでしょう」

 赤い果実が盛られた篭に目をやるエヴィに、ルナが宮殿を指差して訊ねた。
  フィーレ市場からは分厚い石壁の向こうに皇帝の住まいと政治的行事を行うための宮殿の頭だけが見えている。最北に位置している宮殿は、宮殿を囲む一枚目の石壁と、そのぐるりにある屋敷通りを囲む石壁にあるふたつの門をくぐらねば入る事ができない。そしてそのふたつは、この国のすべてを囲い込む大規模な魔法壁にも守られている。いつだったか召使の誰かから聞いたことがある。

「あ、これ二つください。皇帝? ただの堅物だよ」

 果実売りの店主に小銭を渡し、エヴィは赤い果実を二つ手に取って、一つをルナに渡すと彼は服の袖で果実を拭き始める。何をしているのかよくわからないが、ルナもそれを真似てみる。
 様々な人々で賑わう市場内は人混みで溢れかえっていて、歩き出すエヴィからはぐれてしまわないよう、ルナはエヴィの左手の袖を掴む。
 その時、ふと彼の手に目がいった。左手が包帯で覆われている。いつもは黒い薄手の手袋を嵌めているせいで気がつかなかった。

「エヴィさん、怪我をしているのですか?」

 果実に齧り付きながら、エヴィは頭だけでルナに振り返る。

「ん?」

 ルナから自身の左手に視線を落とし、エヴィは「なんでもねーよ」とだけ答えた。
 なんでもないと言われても、気になる。怪我をしているのなら、治療しなくてはいけない。包帯は患部に宛てがわれるガーゼなどを巻きつけるためのもの。無意味に巻きつけたりはしないもの。
 ルナはエヴィの袖を握ったまま立ち止まる。袖を引っ張られたエヴィも足を止めた。

「どうした?」
「怪我をしているな――」
「あ、違う違う。怪我じゃないから大丈夫、オシャレだから、コレ」

 振り返ったエヴィにすべてを話すことを許されず、言葉を遮られてしまった。ルナが疑問を口にしたり、口にしようとしたりする時、時々こうして制止がかかる。そういう時は大概、ルナが知らないことを教えてくれる時だった。
 包帯をしているからといって、必ずしも怪我をしているわけではない。……いや、これはきっとエヴィさんだけだろう。
 また一つ、ルナは新しいことを知った。
 再び歩き出すエヴィにただぼうっとついて行く。
 人の波をかき分けて歩くエヴィの後ろにいると、誰かとぶつかったり足を踏まれたりすることはない。時折彼の長い紅毛が顔に当たってくすぐったいぐらいだ。こういう時、ルナはなんだか不思議な気分になる。背の高いエヴィを見上げると、その背中は凄く大きくて、今まで感じたことのない何かを感じる。でもそれが何なのか、ルナにはわからなかった。それを言葉にしようにも、その言葉を知らなかった。
 ハリスが死んでもうすぐ一ヶ月になろうとしている。それと同時にエヴィと一緒に過ごすようになってもう一ヶ月になろうとしていた。
 屋敷に仕えている時には気にもならなかったことが、エヴィと一緒になってからは意味もなく気になるようになった。道端に咲いている花の名前や、ルナからすると意味不明な行動をとる人々の行動の意味など。石の部屋から屋敷に移ったとき、世界は広いと思った。でもエヴィと過ごし始めて、あの屋敷は広大な世界の片隅にある小さな箱に過ぎなかったことに気づかされた。人間という生き物は神父やハリスのような極々一部を除いて、すべてが乱暴で凶暴なものだと思っていた。が、それも違った。
 それをハリスは知っていたのだろうか。いや、おそらく知らない。だって彼女はいつもルナと一緒にいたのだから。知っているはずがない。この広い世界のことも、温かい人間がいることも。教えてあげられたらどれだけいいだろう。
 ――私が知っていること、いつかハリスに話すね。
 空を見上げると、人混みで切り取られた蒼天に雲が浮かんでいた。
 視線を戻そうとしたとき、立ち止まったエヴィの背中にぶつかった。鼻先をぶつけて少ししかめっ面になりながら、エヴィの背後からそろりと顔を覗かせてみる。そしてルナは驚愕に目を見開いた。
 左右、見渡すところ全てにあらゆる店が軒を連ねていた今までの風景とは一変して、エヴィの向こう側には果の見えない碧が広がっていた。

「これは……」
「海だ」

 ぼやくと同時に頭上から声がした。呆気にとられたままそちらの方へと顔を向けると、微笑を浮かべたエヴィがルナを見下ろしていた。

「塩水でできた天然のでかい水たまりみたいなもん」
「塩水なんですか、あれ全部」
「そう。すげえだろ」

 笑って、エヴィは海へと続く階段を下り始める。彼の袖を掴んでいた手から力が抜けてだらりと落ちる。
 きらきらと輝く美しい海。目が離せなかった。

「感動するのはいいけど、俺から離れるなァ、迷子になんぞ」

 数段下からエヴィがルナを見上げる。声をかけられてルナは慌ててエヴィを追った。再び彼の袖を掴む。
 感動ってなんだろう、と一瞬不思議に思ったが、海というものを見て感じたことを指しているのだと、今回はエヴィに聞くことなく知った。
 市場からの階段を下りだすと、いくつもの飛行艇が足元の海に浮かんでいる風景が見え始めた。その長い階段を下りきると、細かくて白い砂地になっていた。
 店舗が並ぶ階段上の市場の喧騒と熱気が嘘のように、ここは静かで心地いい風が吹いている。

「綺麗な砂」
「この浜の砂はよく見ると星の形をしてるそうだ。俺はあの緑色の屋根の小屋にいるからぶらぶらしてきていいぞ。ただし上の市場には戻るな。あそこは人が多すぎて絶対に見つけられないから」

 真下を向いて歩くルナに振り返り、エヴィは少し離れた場所にある苔むした屋根の小屋を指差す。

「あんまり遠くに行くなよ。あと知らない人には?」
「ついて行かない」
「乱暴なことをされたり、されそうになったら?」
「そのときは身を守るために相手をぶっ飛ばしていい、ただし加減はすること、です」
「はい、よくできました。じゃあまたあとで」

 エヴィに教えられた単独行動の掟の確認が終わると、彼はそそくさと行ってしまった。
 ぶらぶらと言われても、何をしたらいいのかわからない。
 ここでじっとしていようかとも思ったが、海や、そこに浮かぶ飛行船が気になりはじめた。海からエヴィに視線を戻そうとしたが、彼は既に小屋に入ってしまったようで見当たらない。少し心細くなる。
 しゃくしゃくと砂を踏み、ルナは波打ち際まで来るとしゃがみ込む。寄せては返す波に指先で触れるとひやりと冷たい。海水で濡れた指先をちろりと舐めてみると、思っていたより塩辛くて少し驚いた。
 しばらく波打ち際で水と戯れたあと、ルナはふらりと周辺を散策することにした。
 階段上の市場に比べると数は随分少ないが、ちらほらと店らしきテントが見える。エヴィに貰った金は手をつけずに持っているが、何かを買うつもりはなく、なんとなく店を見て回る。
 何件目かの店先で、ふと目に付くものがあった。その店がシートの上に並べているものは細い糸。それも数え切れないほどの量と色だった。

「おや。お嬢さんシュリルを編むのかい?」

 用途不明の糸を眺めていると、居眠りをしていた店主の老婆が目を覚ました。老婆は優しげに垂れた目を更に垂れ目にして微笑む。

「いえ……。シュリルが何なのかも知りません。ごめんなさい」

 ルナがそう言ってその場を去ろうとすると、老人がこれだよと髪を縛っていた結紐を見せてくれた。様々な色の糸で編まれたその結紐は個性的で、可愛らしかった。

「ここにある糸で作るのですか?」
「そうだよ。何本も何本も編み込んでいってひとつのシュリルにするのさ。編み方を教えてあげるから、どうだい一緒に編まないかい?」

 シュリルと呼ばれる結紐にルナは少し興味が湧いた。自分で何かを作る。誰に命令されるわけでもなく、単に自分がしてみたいという欲のままに。

「教えてください」

 そう言ってルナが頭を下げると、老婆は笑顔で頷く。

「でもお嬢ちゃんは髪が短いから、腕か足首用のシュリルになるね」
「いえ、髪をまとめるための大きさがいいです。……紅い髪に合うものを」
「おやおや」

 何かを勘違いしたのか、老婆は「お熱なんだねえ」と笑った。

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