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二番勝負
閻魔帳の略奪
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※※※※※※※
一難去ってまた一難とは正にこういう事なんだと悟った。
「着物を脱ぎなされ」
……は?
「着物を脱いで素っ裸になるのじゃ」
……なんですって?
今時、そんなセクハラ堂々と言う?
こればかりはいくらここが現世じゃないとしてもイイ気はしない。どこのどいつよっ!
ムッとして振り返った私は、またしてもゴクリと喉を鳴らした。
見るとそこに、皺っ皺のお爺さんとお婆さんが立っていたの。
「早くされよ」
いやいや、この歳で人前で裸になんかなれないでしょ。
「……いや、無理です」
シワシワのお婆さんが、かぶりを振りながら私を見上げる。
「無理なもんか。皆ここで服を脱ぐのが習わしなんじゃ」
そう言うや否や、お爺さんが私の腕に手を伸ばし、お婆さんがカットソーをまくり上げようとした。
「ま、まって、お爺ちゃんもお婆ちゃんもっ」
「待てないよ、後がつかえるからね。 早くお前の着物を衣領樹の木にかけて、罪の重さを量らんとならん」
いやいや、何だか分かんないけど無理!
でもお年寄り相手に手荒な真似は出来ない。振り払った衝撃でポッキリ手の骨が折れちゃったら大変だもの。なんか骨粗鬆症っぽいしな。
でもだけど、裸になるのも絶対に嫌!
こうなったら逃げるしかない。
「誰か、たっすけてーっ!!!」
私は大きく息を吸うと耳をツン裂くような大悲鳴をあげ、二人の手を振り払うと無我夢中で走り出した。
もうやだやだ、なんで『死後の世界』ってこんな変なの!?
怖いし心細いし、もう嫌だ。おまけに朱里は見当たらないし。本当にどうしよう。
「きゃあっ!!」
一心不乱に走っていた身体がフワッと浮いたかと思うと私はドサッと地面に倒れて、ギュッと眼を閉じた。膝と掌がジンジンと痺れるように痛む。
慌てて起きようとしたものの力が入らないし、なによりこの不気味な雰囲気に心が折れそうになる。
「ううっ……」
泣くまいって、泣いちゃダメッて思ってたのに……。
ジワリと視界が歪んだその時、
「ほら、立て」
目の前に変わった履き物が見えた途端、誰かが私の腕を持つとグイッと引き上げた。
咄嗟にその顔を見上げて、思わず私は息を飲んだ。
あ……!こ、この人は確か……!
……このイケメンはあの時……ここに降り立ったばかりに出逢った、あの時の彼だわ。
涙を拭くことも忘れ私が呆然と見上げていると、彼がニヤリと笑った。
「イイ男すぎて見惚れてんのかよ」
私が何も言えないでいると彼は鞘に収まった刀をクルリと回し、肩に担いで再び口を開いた。
「よう、また会ったな」
その笑顔が凄く逞しくて、この世界を何でも分かってるみたいで、私は彼を眩しく思った。
「泣いてんのか」
……泣けるよ。泣けてくるよ。朱里を助けようと自分から乗り込んだクセに怖くて情けなくて。
どうしたらイイかまるで分かんない。
「どっか怪我したのか」
無意識に私は首を横に振った。
「言ってみろ。どうした?」
いささかつり上がり気味の眼が優しく私を見つめていて、私は無性に彼を頼りたくなって口を開いた。
「あなた、誰……?私は、中西ルナ。なんで私が死んでないって分かったの?
それと……あの私、現世から人を探しにきたの。お願い、助けてもらえませんか?!」
私が話し終わるまで彼は唇を引き結んでいたけど、やがて何でもないといった風に口を開いた。
「なぜって、俺は閻魔だ。なんでも分かる」
……閻魔……。
腹立たしいのを通り越した。
……もう、いいよ。
こんなにボロボロの私を目の当たりにしても尚、ジョークを飛ばそうとする人なんだ、この人は。
「もういいよ。さよなら」
私は服をはらうと、彼の脇を通りすぎようとした。
そんな私を見て、目の前のイケメンは素早く私の腕を掴んだ。
「なんだよ、待てって」
「離してっ!」
再び視界が滲んだけど、私は彼の顔を睨み据えた。
「私を何にも知らないバカだとでも思ってんでしょ?!確かに成績は良くない!けどね、あんたが閻魔大王じゃないことくらい、分かるよっ!
私はね、真剣なのよっ!!死後の世界なんて本当は来たくなかった!だけど、大切な朱里の為だもの!彼女をどうしても死なせたくない。なのに、あんたは私を死人じゃないと知ってて、切羽詰まってるって分かっててからかうんだね。ひどいよ!!」
閻魔と名乗った彼は泣きながら捲し立てた私を黙って見下ろしていたけど、暫くの後、よく響く声で私に問い掛けた。
「……俺がお前をからかってるって?」
「からかってるじゃん!あんたが閻魔大王なわけないでしょ!!」
私は昔見た、閻魔大王座像を思い出しながら目の前の彼を見上げた。
あの時見た閻魔大王は、グッと寄った太い眉と眼に写る全てのものを威圧する強い眼差しがとても印象的な、恐ろしい顔だった。
どう見てもこの人とは別人だ。
「クッ」
閻魔が笑った。
「なによっ」
閻魔と名乗るイケメンは刀を肩に担ぎ、反対の手で私の腕を掴んだまま、その切れ長の眼を私に向けた。
「俺がニセモノかホンモノか……その眼で確かめろ。来い」
「やだ、行かないよ」
「いいから来い」
言うや否やイケメンは私の腰をさらうように抱き上げて、何やらブツブツと口の中で呟いた。
「きゃあっ」
呪文のような彼の言葉の後、強い風が巻き起こり、私はその激しさに驚いてギュッと固く眼を閉じた。
「おい、眼をあけろ」
彼の声に恐る恐る眼を開けあたりをそっと窺うと、何やらそこはとても立派な建物の中だった。
私は自称・閻魔にしがみついたまま、その顔を見上げた。
中庭を囲うように造られた廊下の反対側には、立派な襖の部屋が何部屋も連なっている。
「ねえ、ここどこ?」
「俺の屋敷だ」
え!こんな高級旅館みたいな家に住んでんの?!
その時、私たちの立っている真横の部屋から人の気配がした。
襖が少しだけ開いたその部屋からは蝋燭の灯りが漏れていて、そこから女の人の声がした。
「……あなた……。いつまでも蘭をお側においてください……」
「蘭、可愛いやつよ。お前は実にいい女だ。だがな、お前を可愛がるとセガレが……閻魔が拗ねる」
威厳のある野太い声のあと、蘭と呼ばれた女性が笑った。
「私からしますれば、ご子息はまだ子供。私はあなた様のような大人の男性が好きなのでございます」
あ、の。これって……というか、私ってばいつまでこの人にしがみ付いてんのっ!
「あの、ごめんっ」
私は逞しい彼の身体に密着しっぱなしだったのが恥ずかしくて、焦りながら身を起こして数歩下がった。
ところが数歩のはずがグラッと大きくよろけてしまい、間の悪いことに背中が襖にガタンと当たってしまった。
や、ばい。案の定、
「どなた……?」
細く開いていた襖がゆっくりと開き、中の様子があらわになる。
「あ、の、私……」
私を一瞥した後、蘭という女性がフワリと笑って私の後ろの彼を見つめた。
「まあ、閻魔様……一体何処に行かれていたのです?」
そう言い終えると共に頬を赤く染め、彼女ははにかむように俯いた。
「淋しかったですわ」
……ビックリするわ。
さっき、部屋の中で別の男性とストロベリートークを繰り広げてたわよね!?なに、この変わり身の早さは。
私は驚きを隠すことも出来ずに、まじまじと女性を見つめた。
その時、部屋の中から物凄く大きな男性がゆっくりと姿を現して、私は思わず息を飲みその人物を見上げた。
渋い色の高価そうな着物を身にまとい、とても威厳に満ちていて、何よりも彼の頭の天冠?宝冠?が、とにかくゴージャスだった。
「閻魔。何処へ行っておったのだ。変成王(へんじょうおう)が探しておったぞ」
いやいや、どう見てもあなたが閻魔大王でしょ。
なのにこのイカツイ大男は、私を此処に連れてきたイケメンを閻魔と呼んで……。
なんなんだ、一体。
三人の輪に入れない私は、成す術もなくボケッと突っ立っていたのだけれど、急に延びてきたイケメンの手に肩を抱かれて、グイッと引き寄せられた。
な、何事?!
彼に密着した頬が熱い。
「これはこれは父上。
わざわざ俺の屋敷にまで出向いてくださるとは。いつから変成王(へんじょうおう)の狗(いぬ)になられたのですか。蘭とイチャついていた事よりも驚きです」
言い終える前から浮かべた不敵な笑みが真っ直ぐに冠の男性に向けられていて、私はその険を含んだ眼差しに息を飲んだ。
な、なんか、不穏な空気が漂ってるんだけど……。
父上と呼ばれた男性は彼の言葉に一瞬グッと眼を細めたが、すぐに何かを押し殺すようにフッと笑った。
「変成王の狗か。まあ、それもいいかも知れんな」
「父上、どうぞ俺の事はお構い無く。俺にはコイツがいますから」
わ、ちょっとっ!
焦る私に眼もくれず、彼は言うなり端正な顔を傾けて、私の頬にキスをした。
途端に父上が、私をマジマジと凝視する。
「なぜ生き人がいる」
「話すと長いもので。失礼いたします、父上」
言うなりイケメンは踵を返して身を翻し、それと同時に私も彼に連れられてその場を後にした。
「閻魔様……」
蘭という女性の声に足を止めようともせず彼は歩を進め、やがて廊下を曲がった突き当たりにある階段を上り、二階の広い部屋へと入った。
「変なとこ見せて悪かったな」
閻魔が私を離し、ボソッと呟くように言った。
少し見えた横顔が何だか切な気で、私はそれが蘭さんと彼の父親のせいだと悟った。
「彼女……」
「蘭は権力のある強い男が好きなんだ。それは最初から知ってる。だからアイツが父上を選んだって仕方ない」
「でも……」
でもさ、だからって少し見境無さすぎない?!
父親に言い寄りつつ、息子にも思わせ振りな態度をとるってどうよ?
私がモヤモヤとそんな事を考えていると、彼が少し明るい声を出した。
「飲むか?」
私にそう声をかけた後、部屋の隅にある足の長い机に歩み寄った彼は、杯に液体をなみなみと注いだ。きっとお酒だ。
私が首を振るのを見ると彼はそれを一口で飲み干し、やがて徳利ごと煽った。
彼の喉がゴクゴクと上下し、暫くの間私はそれを見ていたんだけれど、途中でハッと我に返った。
ダメよ、この人が酔っぱらう前に朱里の居場所を……。
「ちょっと、あなた本当に閻魔大王なの?」
彼はそう問いかけた私を斜めに見下ろして、フッと笑った。
「だからそうだって言ってるだろ」
「あのさ、どう見てもあなたのお父さんのが閻魔大王っぽかったけど!」
「昔な。今は俺が閻魔」
「えー……」
なによ、社長じゃあるまいし跡継ぎとかそういうもんなの、閻魔って。
呆気に取られている私の前で、彼はグビグビと酒を煽り続けている。
「で、生き人がこんなとこまで人探しってか?」
ドカッと床に胡座を組んだ閻魔の前に、私もペタンと腰を下ろして彼を見つめた。
「私、いとこの岩瀬朱里を探しに来たんです。事故で意識不明になってしまって……。まだ二十歳なのに死ぬには若すぎる。
彼女、うわ言で三途の川の話をしてたんです。だから絶対にこの辺にいると思うの」
短時間に出来るだけ要点を言いたかったのに、私は焦った挙げ句にまとまりのない言葉を彼に伝えた。
「ねえ、あなたが本当に閻魔様なら、私のイトコを地獄になんてやらないで!ううん、彼女を死なせないでほしいの」
私が言い終えると彼は再び徳利を口につけてゴクゴクと飲み、グイッと左腕で唇を拭った。
それから綺麗な瞳を私に向けると、形のよい唇を開く。
「親不孝は地獄行きに値する。諦めろ」
冗談じゃない。朱里は親不孝なんかじゃない!
「朱里は、将来弁護士になって困ってる人を助けるのが夢なの!!親不孝なわけない!!」
憤りを隠せずグッと眉を寄せた私に、閻魔は顔を近づけてバカにしたように笑った。
「お前はバカか?親より先に死ぬ奴は、全員親不孝なんだよ」
そ、んな……!愕然とする私の前でまたしても酒を煽ると、閻魔は勢いをつけて立ち上がった。
「……酒がもうなくなる。その辺の小鬼でもひっ捕まえて」
部屋から出ようとした閻魔の服を、私は咄嗟に掴んだ。
「待って!!朱里はまだ死んでない!!お願いだから助けてっ!」
「はー?どっちだよ。三途の川を見たなら死んでるって事だ。生きてる人間は三途の川まで辿り着いたりしねぇんだよ。お前、そんな事も知らないでこんなとこまで来たのかよ」
えっ!!マジ?!
「三途の川まで来ても渡ってないなら、死んでないんじゃないの?!」
焦る私を至近距離から見つめて、閻魔は口を開いた。
「人は死ぬと『死出の山』、子供なら『 賽(さい)の河原 』それから『三途の川』を渡るんだ」
……じゃあなに!?私、間違ってるの?!だって朱里が言ってたもん。
『皆は上手く出来て、あっちに行けてるのに、私はどうしても上手く出来ないの』
あれは、三途の川を渡る時の話じゃないの?!
スーッと全身の血がどこかに引いていってしまったような感覚に、私は目眩を感じた。
そんな私を見て、閻魔はフウッと笑いながら酒に口をつけた。
「こんなところまで来てご苦労なことだな。だが、この」
「じゃあ、朱里は何処にいるの?!」
閻魔は私を一瞥すると、溜め息をついて左手に持っていた刀を半回転させた。
「さあな。迷宮にでもいるんじゃねぇの?どっちにしろ死んだらまた来い。ちなみにそのお前のイトコとやらは美人なのか?蘭より胸がデカけりゃ、」
パァン!と乾いた音が部屋中に響いた。
自分の掌の、痺れにも似た痛みと閻魔の不自然な横顔。誰かをひっぱたいたのなんて初めてだ。
「人間じゃないあんたなんかに人の気持ちなんて分かんないのかも知れないけど、ふざけないでよっ!私にしたら愛してる人なのっ……朱里は大切なお姉ちゃんなのっ」
閻魔はゆっくりと私を見て、唇を引き結んだ。
些かつり上がった切れ長の眼が、真正面から私を捉える。その時、
「閻魔様……?」
さっきの蘭とかいう女の人が、開け放たれたままの襖からそっと顔を覗かせた。
よくよく見た彼女の肌は透けるように白く、大きな瞳が印象的な美人だった。
「閻魔様ぁ……」
なんて魅力的なの、この人っ!
変わり身の早さがたまらなく苛つくけどなっ!!
彼女は涙を拭う私にゆっくりと歩を進めると、私の頭の上から爪先までを舐めるように見つめた。
「……閻魔様……こんな生き人の女など、どこがいいのです?私では……不満なのですか?」
だめ。もうダメ。友達には絶対になれない。
閻魔も気に入らないけど、この女も腹が立つ!!
もういいや。
閻魔にも張り手しちゃった事だし、こうなりゃこの女にも一言言ってやる!
私は大きく息を吐き出すと侮蔑の表情で蘭を見つめ、彼女に言い放った。
「……確かに私は生き人よ。あなたにとったらつまらない存在かも知れないけど、私に言わせりゃあなたの方が私の千倍つまらないわよ」
蘭の眼が、みるみる怒りでつり上がった。
「なんと……!誰に向かって口を利いている!」
知らんわっ!
私は彼女の整った顔を見つめると、再び口を開いた。
「あなたが誰かなんて一ミリも興味ない。でもね、いくら綺麗で魅力的でも男に見境なくて節操のない女なんて、同性として情けないし恥だわ。あなたの心に真実の愛はないの?!
自分を粗末にしてるってなんで気づかないの?!本当に好きになった人じゃないと、そんなのダメじゃん!いつか心が痛くなるよ」
言いながら私は、彼女のはだけた着物の合わせ目を手早く整えた。
「あなたは綺麗で素敵だけど、こんなのダメよ。閻魔にだってお父さんにだって失礼だわ。それにあなた自身にもね。だって誰かを愛するのってその人に愛を働きかけることでしょ?なら、いい加減なのはダメだよ」
蘭は眼を見開いて怒りを顕にし、閻魔は息を飲んで私を見つめていた。
彼女が人以上の存在なら、殺されるかもしれない。けど、言わずにはいられなかったの。
それはきっとこのどうしようもない気持ちと、閻魔の切な気な顔を見てしまったからだと思う。
グッと見据える私を前に、蘭がゆっくりと口角を上げた。
「……お前、実に命知らずよのぅ……」
その時、閻魔が動いた。
「……蘭、そう怒るな。生き人というのは馬鹿馬鹿しい信念を持つ者が多いらしいからな。真に受けなくていいぜ。それより……蘭」
「閻魔様……?」
たちまち蘭が、怒りを消し去った表情で閻魔を見上げる。
閻魔は素早く蘭の肩を抱いてその髪に唇を寄せると、彼女を連れて部屋の外へと向かった。
「蘭、二人きりで過ごそう。今の俺が何を考えてるか分かるか……?」
「まあ……閻魔様ったら……。蘭は嬉しゅうございます」
同じ階の部屋へと入ったらしく、少し先で襖がピシャリと閉まる音がきこえた。
私は全身の力が一気に抜けるのを感じて、ヘナヘナとしゃがみこんだ。
それから彼女の怒りに満ちた瞳を思い返すと、身体が震えた。
……閻魔のことはさておき、何熱くなってんの、私。初対面の女の人に見境がないだの節操がないだの、言うべきじゃなかった。
閻魔の前であんなこと言うなんて、彼女を傷つけてしまったに違いない。ああ、なんて私はバカなんだろう。
もしも今ここに仁がいたら、慰めるなり諭すなりしてくれたかもしれない。でも今、私は独りだ。
見慣れない死後の世界と、朱里救出に失敗したという事実と、先程の出来事。
「ごめんなさい……」
私は俯いたまま、誰に言うでもなく掠れた声で呟いた。
※※※
どれくらい時間が経ったかは分からない。ひどく落ち込んでしまって身体が重い。
置いてけぼりにされた部屋は薄暗く、馴れたのかお酒の匂いは気にならなくなっていた。
私はゆっくりと立ち上がると部屋を見回した。
入り口とは逆の壁際には棚があり、隙間なく本が並んでいる。
……あいつが本を読むなんて意外だわ。……ん?机が、光ってる……。私は本棚の前の机に歩み寄った。
よくよく見ると、机じゃなくて置きっぱなしの本が光を放っている。
……棚にはこんなに沢山の本があるのに、どうしてこの本だけが光ってるんだろう。
私は淡い光に包まれた一冊の本を凝視して眉を寄せた。
……いつから光ってたんだろう。私が閻魔に連れられてこの部屋に来たときから?ううん、違う。
あの時は確か、光ってなかった。
私は素早く辺りを見回すと、机の上の分厚い本をゆっくりと持ち上げた。
重っ!!あ……!
手に取った瞬間、嘘のように本から光が失われた。
代わりに黒々とした革張りの表紙には珊瑚と瑪瑙、それに水晶が順番に埋め込まれていて、中央には濃い蜂蜜のような深い色合いの滑らかな琥珀が鎮座していた。
一体、なんの本だろう。あら、なんか書いてある……?
よく見ると表紙の上部分には、革を押して文字が彫り込まれている。
私はそれを読もうと本を斜めにして、僅かな灯りに照らすと眼を凝らした。
閻魔……帳……?!
これって、エンマって読むよね。えんまちょう……。
心臓がドキンと跳ねて、私は心の中で閻魔帳と何度も何度も呟いた。
閻魔帳って、あの閻魔帳?!閻魔帳って、確か……。
私は眉間にシワを寄せると、子供の頃にお祖母ちゃんからもらった昔話の本を思い返した。
……たしかお爺さんが三途の川を渡って閻魔様のところに行くと、閻魔様が帳面を開いて、お爺さんが犯した生前の罪を調べて……。
心臓が痛いくらい脈打つ。
これが、かの有名な閻魔帳(えんまちょう)!?
それから、うろ覚えだけどお祖母ちゃんの言葉が蘇った。
『閻魔帳にはね、死者の生前におこなった善悪が書き記してあるんだよ。その人の寿命も、何もかも。それにね、嘘なんかついた暁には閻魔様に舌を抜かれちゃうんだよ』
……じゃあ、この中にはみんなの寿命や、生きていた時の行いなんかが書いてあるの?!
信じられない。でも、これが本物の閻魔帳なら……朱里の事も?
その時私はハッとして顔を上げた。
もしかして、これを読めば朱里の居所がわかるんじゃない?!ツーッと背中に汗が伝った。胸がドキドキして息が苦しい。
私は深呼吸をすると、ソロリと閻魔帳を開いた。
………なにこれ……!部屋が暗くてはっきりと分からない。びっしりと何やら書いてあるけど……きったない字だな!
暗いのを差し引いても、字が汚すぎてまるで読めんわっ!
朱里のページを探し出してそこだけ破って持って帰ろうとしたものの、膨大な字数に圧倒されて私は唇を噛んだ。
「ルナ」
途方にくれる私の脳内に、仁の声が聞こえた。
「おい、時間だぜ。早く来い」
「待って、仁」
「バカ、待てるか!ここから出られなくなるぜ?!早くしろっ」
それは困るっ!
「朱里の居所がまだ分かんないの」
「ルナ、これ以上はダメだ」
その時、閻魔の楽しげに笑う声が聞こえてきた。
「蘭、酒を注げ!今夜の相手はお前に決めてやる」
「本当でございますか?!蘭は嬉しゅうございますぅ」
……アホめ。
あんな男の一体どこがいいんだ。
私は閻魔と蘭の脳天気なはしゃぎ声を聞きつつ、内心舌打ちした。それからシゲシゲと閻魔帳を眺めて思った。
……こんな大切な物をほったらかしにするなんて、アイツ、バカなんじゃないの?それともこれはフェイクとか。
「ルナ、マジで急げ!」
「わ、分かった」
その時、一際大きく閻魔と蘭の笑い声が響いた。何が閻魔大王よ、ただのタラシ男じゃないの!
ええい、これごと持って帰ってやる。
朱里、待ってて。私が絶対に助けるから!
私は意を決して唇を引き結ぶと、閻魔帳を両腕にしっかりと抱いた。
それから、徐々に見え始めた道を、光の方へと駆け出して、現世へと急いだ。
一難去ってまた一難とは正にこういう事なんだと悟った。
「着物を脱ぎなされ」
……は?
「着物を脱いで素っ裸になるのじゃ」
……なんですって?
今時、そんなセクハラ堂々と言う?
こればかりはいくらここが現世じゃないとしてもイイ気はしない。どこのどいつよっ!
ムッとして振り返った私は、またしてもゴクリと喉を鳴らした。
見るとそこに、皺っ皺のお爺さんとお婆さんが立っていたの。
「早くされよ」
いやいや、この歳で人前で裸になんかなれないでしょ。
「……いや、無理です」
シワシワのお婆さんが、かぶりを振りながら私を見上げる。
「無理なもんか。皆ここで服を脱ぐのが習わしなんじゃ」
そう言うや否や、お爺さんが私の腕に手を伸ばし、お婆さんがカットソーをまくり上げようとした。
「ま、まって、お爺ちゃんもお婆ちゃんもっ」
「待てないよ、後がつかえるからね。 早くお前の着物を衣領樹の木にかけて、罪の重さを量らんとならん」
いやいや、何だか分かんないけど無理!
でもお年寄り相手に手荒な真似は出来ない。振り払った衝撃でポッキリ手の骨が折れちゃったら大変だもの。なんか骨粗鬆症っぽいしな。
でもだけど、裸になるのも絶対に嫌!
こうなったら逃げるしかない。
「誰か、たっすけてーっ!!!」
私は大きく息を吸うと耳をツン裂くような大悲鳴をあげ、二人の手を振り払うと無我夢中で走り出した。
もうやだやだ、なんで『死後の世界』ってこんな変なの!?
怖いし心細いし、もう嫌だ。おまけに朱里は見当たらないし。本当にどうしよう。
「きゃあっ!!」
一心不乱に走っていた身体がフワッと浮いたかと思うと私はドサッと地面に倒れて、ギュッと眼を閉じた。膝と掌がジンジンと痺れるように痛む。
慌てて起きようとしたものの力が入らないし、なによりこの不気味な雰囲気に心が折れそうになる。
「ううっ……」
泣くまいって、泣いちゃダメッて思ってたのに……。
ジワリと視界が歪んだその時、
「ほら、立て」
目の前に変わった履き物が見えた途端、誰かが私の腕を持つとグイッと引き上げた。
咄嗟にその顔を見上げて、思わず私は息を飲んだ。
あ……!こ、この人は確か……!
……このイケメンはあの時……ここに降り立ったばかりに出逢った、あの時の彼だわ。
涙を拭くことも忘れ私が呆然と見上げていると、彼がニヤリと笑った。
「イイ男すぎて見惚れてんのかよ」
私が何も言えないでいると彼は鞘に収まった刀をクルリと回し、肩に担いで再び口を開いた。
「よう、また会ったな」
その笑顔が凄く逞しくて、この世界を何でも分かってるみたいで、私は彼を眩しく思った。
「泣いてんのか」
……泣けるよ。泣けてくるよ。朱里を助けようと自分から乗り込んだクセに怖くて情けなくて。
どうしたらイイかまるで分かんない。
「どっか怪我したのか」
無意識に私は首を横に振った。
「言ってみろ。どうした?」
いささかつり上がり気味の眼が優しく私を見つめていて、私は無性に彼を頼りたくなって口を開いた。
「あなた、誰……?私は、中西ルナ。なんで私が死んでないって分かったの?
それと……あの私、現世から人を探しにきたの。お願い、助けてもらえませんか?!」
私が話し終わるまで彼は唇を引き結んでいたけど、やがて何でもないといった風に口を開いた。
「なぜって、俺は閻魔だ。なんでも分かる」
……閻魔……。
腹立たしいのを通り越した。
……もう、いいよ。
こんなにボロボロの私を目の当たりにしても尚、ジョークを飛ばそうとする人なんだ、この人は。
「もういいよ。さよなら」
私は服をはらうと、彼の脇を通りすぎようとした。
そんな私を見て、目の前のイケメンは素早く私の腕を掴んだ。
「なんだよ、待てって」
「離してっ!」
再び視界が滲んだけど、私は彼の顔を睨み据えた。
「私を何にも知らないバカだとでも思ってんでしょ?!確かに成績は良くない!けどね、あんたが閻魔大王じゃないことくらい、分かるよっ!
私はね、真剣なのよっ!!死後の世界なんて本当は来たくなかった!だけど、大切な朱里の為だもの!彼女をどうしても死なせたくない。なのに、あんたは私を死人じゃないと知ってて、切羽詰まってるって分かっててからかうんだね。ひどいよ!!」
閻魔と名乗った彼は泣きながら捲し立てた私を黙って見下ろしていたけど、暫くの後、よく響く声で私に問い掛けた。
「……俺がお前をからかってるって?」
「からかってるじゃん!あんたが閻魔大王なわけないでしょ!!」
私は昔見た、閻魔大王座像を思い出しながら目の前の彼を見上げた。
あの時見た閻魔大王は、グッと寄った太い眉と眼に写る全てのものを威圧する強い眼差しがとても印象的な、恐ろしい顔だった。
どう見てもこの人とは別人だ。
「クッ」
閻魔が笑った。
「なによっ」
閻魔と名乗るイケメンは刀を肩に担ぎ、反対の手で私の腕を掴んだまま、その切れ長の眼を私に向けた。
「俺がニセモノかホンモノか……その眼で確かめろ。来い」
「やだ、行かないよ」
「いいから来い」
言うや否やイケメンは私の腰をさらうように抱き上げて、何やらブツブツと口の中で呟いた。
「きゃあっ」
呪文のような彼の言葉の後、強い風が巻き起こり、私はその激しさに驚いてギュッと固く眼を閉じた。
「おい、眼をあけろ」
彼の声に恐る恐る眼を開けあたりをそっと窺うと、何やらそこはとても立派な建物の中だった。
私は自称・閻魔にしがみついたまま、その顔を見上げた。
中庭を囲うように造られた廊下の反対側には、立派な襖の部屋が何部屋も連なっている。
「ねえ、ここどこ?」
「俺の屋敷だ」
え!こんな高級旅館みたいな家に住んでんの?!
その時、私たちの立っている真横の部屋から人の気配がした。
襖が少しだけ開いたその部屋からは蝋燭の灯りが漏れていて、そこから女の人の声がした。
「……あなた……。いつまでも蘭をお側においてください……」
「蘭、可愛いやつよ。お前は実にいい女だ。だがな、お前を可愛がるとセガレが……閻魔が拗ねる」
威厳のある野太い声のあと、蘭と呼ばれた女性が笑った。
「私からしますれば、ご子息はまだ子供。私はあなた様のような大人の男性が好きなのでございます」
あ、の。これって……というか、私ってばいつまでこの人にしがみ付いてんのっ!
「あの、ごめんっ」
私は逞しい彼の身体に密着しっぱなしだったのが恥ずかしくて、焦りながら身を起こして数歩下がった。
ところが数歩のはずがグラッと大きくよろけてしまい、間の悪いことに背中が襖にガタンと当たってしまった。
や、ばい。案の定、
「どなた……?」
細く開いていた襖がゆっくりと開き、中の様子があらわになる。
「あ、の、私……」
私を一瞥した後、蘭という女性がフワリと笑って私の後ろの彼を見つめた。
「まあ、閻魔様……一体何処に行かれていたのです?」
そう言い終えると共に頬を赤く染め、彼女ははにかむように俯いた。
「淋しかったですわ」
……ビックリするわ。
さっき、部屋の中で別の男性とストロベリートークを繰り広げてたわよね!?なに、この変わり身の早さは。
私は驚きを隠すことも出来ずに、まじまじと女性を見つめた。
その時、部屋の中から物凄く大きな男性がゆっくりと姿を現して、私は思わず息を飲みその人物を見上げた。
渋い色の高価そうな着物を身にまとい、とても威厳に満ちていて、何よりも彼の頭の天冠?宝冠?が、とにかくゴージャスだった。
「閻魔。何処へ行っておったのだ。変成王(へんじょうおう)が探しておったぞ」
いやいや、どう見てもあなたが閻魔大王でしょ。
なのにこのイカツイ大男は、私を此処に連れてきたイケメンを閻魔と呼んで……。
なんなんだ、一体。
三人の輪に入れない私は、成す術もなくボケッと突っ立っていたのだけれど、急に延びてきたイケメンの手に肩を抱かれて、グイッと引き寄せられた。
な、何事?!
彼に密着した頬が熱い。
「これはこれは父上。
わざわざ俺の屋敷にまで出向いてくださるとは。いつから変成王(へんじょうおう)の狗(いぬ)になられたのですか。蘭とイチャついていた事よりも驚きです」
言い終える前から浮かべた不敵な笑みが真っ直ぐに冠の男性に向けられていて、私はその険を含んだ眼差しに息を飲んだ。
な、なんか、不穏な空気が漂ってるんだけど……。
父上と呼ばれた男性は彼の言葉に一瞬グッと眼を細めたが、すぐに何かを押し殺すようにフッと笑った。
「変成王の狗か。まあ、それもいいかも知れんな」
「父上、どうぞ俺の事はお構い無く。俺にはコイツがいますから」
わ、ちょっとっ!
焦る私に眼もくれず、彼は言うなり端正な顔を傾けて、私の頬にキスをした。
途端に父上が、私をマジマジと凝視する。
「なぜ生き人がいる」
「話すと長いもので。失礼いたします、父上」
言うなりイケメンは踵を返して身を翻し、それと同時に私も彼に連れられてその場を後にした。
「閻魔様……」
蘭という女性の声に足を止めようともせず彼は歩を進め、やがて廊下を曲がった突き当たりにある階段を上り、二階の広い部屋へと入った。
「変なとこ見せて悪かったな」
閻魔が私を離し、ボソッと呟くように言った。
少し見えた横顔が何だか切な気で、私はそれが蘭さんと彼の父親のせいだと悟った。
「彼女……」
「蘭は権力のある強い男が好きなんだ。それは最初から知ってる。だからアイツが父上を選んだって仕方ない」
「でも……」
でもさ、だからって少し見境無さすぎない?!
父親に言い寄りつつ、息子にも思わせ振りな態度をとるってどうよ?
私がモヤモヤとそんな事を考えていると、彼が少し明るい声を出した。
「飲むか?」
私にそう声をかけた後、部屋の隅にある足の長い机に歩み寄った彼は、杯に液体をなみなみと注いだ。きっとお酒だ。
私が首を振るのを見ると彼はそれを一口で飲み干し、やがて徳利ごと煽った。
彼の喉がゴクゴクと上下し、暫くの間私はそれを見ていたんだけれど、途中でハッと我に返った。
ダメよ、この人が酔っぱらう前に朱里の居場所を……。
「ちょっと、あなた本当に閻魔大王なの?」
彼はそう問いかけた私を斜めに見下ろして、フッと笑った。
「だからそうだって言ってるだろ」
「あのさ、どう見てもあなたのお父さんのが閻魔大王っぽかったけど!」
「昔な。今は俺が閻魔」
「えー……」
なによ、社長じゃあるまいし跡継ぎとかそういうもんなの、閻魔って。
呆気に取られている私の前で、彼はグビグビと酒を煽り続けている。
「で、生き人がこんなとこまで人探しってか?」
ドカッと床に胡座を組んだ閻魔の前に、私もペタンと腰を下ろして彼を見つめた。
「私、いとこの岩瀬朱里を探しに来たんです。事故で意識不明になってしまって……。まだ二十歳なのに死ぬには若すぎる。
彼女、うわ言で三途の川の話をしてたんです。だから絶対にこの辺にいると思うの」
短時間に出来るだけ要点を言いたかったのに、私は焦った挙げ句にまとまりのない言葉を彼に伝えた。
「ねえ、あなたが本当に閻魔様なら、私のイトコを地獄になんてやらないで!ううん、彼女を死なせないでほしいの」
私が言い終えると彼は再び徳利を口につけてゴクゴクと飲み、グイッと左腕で唇を拭った。
それから綺麗な瞳を私に向けると、形のよい唇を開く。
「親不孝は地獄行きに値する。諦めろ」
冗談じゃない。朱里は親不孝なんかじゃない!
「朱里は、将来弁護士になって困ってる人を助けるのが夢なの!!親不孝なわけない!!」
憤りを隠せずグッと眉を寄せた私に、閻魔は顔を近づけてバカにしたように笑った。
「お前はバカか?親より先に死ぬ奴は、全員親不孝なんだよ」
そ、んな……!愕然とする私の前でまたしても酒を煽ると、閻魔は勢いをつけて立ち上がった。
「……酒がもうなくなる。その辺の小鬼でもひっ捕まえて」
部屋から出ようとした閻魔の服を、私は咄嗟に掴んだ。
「待って!!朱里はまだ死んでない!!お願いだから助けてっ!」
「はー?どっちだよ。三途の川を見たなら死んでるって事だ。生きてる人間は三途の川まで辿り着いたりしねぇんだよ。お前、そんな事も知らないでこんなとこまで来たのかよ」
えっ!!マジ?!
「三途の川まで来ても渡ってないなら、死んでないんじゃないの?!」
焦る私を至近距離から見つめて、閻魔は口を開いた。
「人は死ぬと『死出の山』、子供なら『 賽(さい)の河原 』それから『三途の川』を渡るんだ」
……じゃあなに!?私、間違ってるの?!だって朱里が言ってたもん。
『皆は上手く出来て、あっちに行けてるのに、私はどうしても上手く出来ないの』
あれは、三途の川を渡る時の話じゃないの?!
スーッと全身の血がどこかに引いていってしまったような感覚に、私は目眩を感じた。
そんな私を見て、閻魔はフウッと笑いながら酒に口をつけた。
「こんなところまで来てご苦労なことだな。だが、この」
「じゃあ、朱里は何処にいるの?!」
閻魔は私を一瞥すると、溜め息をついて左手に持っていた刀を半回転させた。
「さあな。迷宮にでもいるんじゃねぇの?どっちにしろ死んだらまた来い。ちなみにそのお前のイトコとやらは美人なのか?蘭より胸がデカけりゃ、」
パァン!と乾いた音が部屋中に響いた。
自分の掌の、痺れにも似た痛みと閻魔の不自然な横顔。誰かをひっぱたいたのなんて初めてだ。
「人間じゃないあんたなんかに人の気持ちなんて分かんないのかも知れないけど、ふざけないでよっ!私にしたら愛してる人なのっ……朱里は大切なお姉ちゃんなのっ」
閻魔はゆっくりと私を見て、唇を引き結んだ。
些かつり上がった切れ長の眼が、真正面から私を捉える。その時、
「閻魔様……?」
さっきの蘭とかいう女の人が、開け放たれたままの襖からそっと顔を覗かせた。
よくよく見た彼女の肌は透けるように白く、大きな瞳が印象的な美人だった。
「閻魔様ぁ……」
なんて魅力的なの、この人っ!
変わり身の早さがたまらなく苛つくけどなっ!!
彼女は涙を拭う私にゆっくりと歩を進めると、私の頭の上から爪先までを舐めるように見つめた。
「……閻魔様……こんな生き人の女など、どこがいいのです?私では……不満なのですか?」
だめ。もうダメ。友達には絶対になれない。
閻魔も気に入らないけど、この女も腹が立つ!!
もういいや。
閻魔にも張り手しちゃった事だし、こうなりゃこの女にも一言言ってやる!
私は大きく息を吐き出すと侮蔑の表情で蘭を見つめ、彼女に言い放った。
「……確かに私は生き人よ。あなたにとったらつまらない存在かも知れないけど、私に言わせりゃあなたの方が私の千倍つまらないわよ」
蘭の眼が、みるみる怒りでつり上がった。
「なんと……!誰に向かって口を利いている!」
知らんわっ!
私は彼女の整った顔を見つめると、再び口を開いた。
「あなたが誰かなんて一ミリも興味ない。でもね、いくら綺麗で魅力的でも男に見境なくて節操のない女なんて、同性として情けないし恥だわ。あなたの心に真実の愛はないの?!
自分を粗末にしてるってなんで気づかないの?!本当に好きになった人じゃないと、そんなのダメじゃん!いつか心が痛くなるよ」
言いながら私は、彼女のはだけた着物の合わせ目を手早く整えた。
「あなたは綺麗で素敵だけど、こんなのダメよ。閻魔にだってお父さんにだって失礼だわ。それにあなた自身にもね。だって誰かを愛するのってその人に愛を働きかけることでしょ?なら、いい加減なのはダメだよ」
蘭は眼を見開いて怒りを顕にし、閻魔は息を飲んで私を見つめていた。
彼女が人以上の存在なら、殺されるかもしれない。けど、言わずにはいられなかったの。
それはきっとこのどうしようもない気持ちと、閻魔の切な気な顔を見てしまったからだと思う。
グッと見据える私を前に、蘭がゆっくりと口角を上げた。
「……お前、実に命知らずよのぅ……」
その時、閻魔が動いた。
「……蘭、そう怒るな。生き人というのは馬鹿馬鹿しい信念を持つ者が多いらしいからな。真に受けなくていいぜ。それより……蘭」
「閻魔様……?」
たちまち蘭が、怒りを消し去った表情で閻魔を見上げる。
閻魔は素早く蘭の肩を抱いてその髪に唇を寄せると、彼女を連れて部屋の外へと向かった。
「蘭、二人きりで過ごそう。今の俺が何を考えてるか分かるか……?」
「まあ……閻魔様ったら……。蘭は嬉しゅうございます」
同じ階の部屋へと入ったらしく、少し先で襖がピシャリと閉まる音がきこえた。
私は全身の力が一気に抜けるのを感じて、ヘナヘナとしゃがみこんだ。
それから彼女の怒りに満ちた瞳を思い返すと、身体が震えた。
……閻魔のことはさておき、何熱くなってんの、私。初対面の女の人に見境がないだの節操がないだの、言うべきじゃなかった。
閻魔の前であんなこと言うなんて、彼女を傷つけてしまったに違いない。ああ、なんて私はバカなんだろう。
もしも今ここに仁がいたら、慰めるなり諭すなりしてくれたかもしれない。でも今、私は独りだ。
見慣れない死後の世界と、朱里救出に失敗したという事実と、先程の出来事。
「ごめんなさい……」
私は俯いたまま、誰に言うでもなく掠れた声で呟いた。
※※※
どれくらい時間が経ったかは分からない。ひどく落ち込んでしまって身体が重い。
置いてけぼりにされた部屋は薄暗く、馴れたのかお酒の匂いは気にならなくなっていた。
私はゆっくりと立ち上がると部屋を見回した。
入り口とは逆の壁際には棚があり、隙間なく本が並んでいる。
……あいつが本を読むなんて意外だわ。……ん?机が、光ってる……。私は本棚の前の机に歩み寄った。
よくよく見ると、机じゃなくて置きっぱなしの本が光を放っている。
……棚にはこんなに沢山の本があるのに、どうしてこの本だけが光ってるんだろう。
私は淡い光に包まれた一冊の本を凝視して眉を寄せた。
……いつから光ってたんだろう。私が閻魔に連れられてこの部屋に来たときから?ううん、違う。
あの時は確か、光ってなかった。
私は素早く辺りを見回すと、机の上の分厚い本をゆっくりと持ち上げた。
重っ!!あ……!
手に取った瞬間、嘘のように本から光が失われた。
代わりに黒々とした革張りの表紙には珊瑚と瑪瑙、それに水晶が順番に埋め込まれていて、中央には濃い蜂蜜のような深い色合いの滑らかな琥珀が鎮座していた。
一体、なんの本だろう。あら、なんか書いてある……?
よく見ると表紙の上部分には、革を押して文字が彫り込まれている。
私はそれを読もうと本を斜めにして、僅かな灯りに照らすと眼を凝らした。
閻魔……帳……?!
これって、エンマって読むよね。えんまちょう……。
心臓がドキンと跳ねて、私は心の中で閻魔帳と何度も何度も呟いた。
閻魔帳って、あの閻魔帳?!閻魔帳って、確か……。
私は眉間にシワを寄せると、子供の頃にお祖母ちゃんからもらった昔話の本を思い返した。
……たしかお爺さんが三途の川を渡って閻魔様のところに行くと、閻魔様が帳面を開いて、お爺さんが犯した生前の罪を調べて……。
心臓が痛いくらい脈打つ。
これが、かの有名な閻魔帳(えんまちょう)!?
それから、うろ覚えだけどお祖母ちゃんの言葉が蘇った。
『閻魔帳にはね、死者の生前におこなった善悪が書き記してあるんだよ。その人の寿命も、何もかも。それにね、嘘なんかついた暁には閻魔様に舌を抜かれちゃうんだよ』
……じゃあ、この中にはみんなの寿命や、生きていた時の行いなんかが書いてあるの?!
信じられない。でも、これが本物の閻魔帳なら……朱里の事も?
その時私はハッとして顔を上げた。
もしかして、これを読めば朱里の居所がわかるんじゃない?!ツーッと背中に汗が伝った。胸がドキドキして息が苦しい。
私は深呼吸をすると、ソロリと閻魔帳を開いた。
………なにこれ……!部屋が暗くてはっきりと分からない。びっしりと何やら書いてあるけど……きったない字だな!
暗いのを差し引いても、字が汚すぎてまるで読めんわっ!
朱里のページを探し出してそこだけ破って持って帰ろうとしたものの、膨大な字数に圧倒されて私は唇を噛んだ。
「ルナ」
途方にくれる私の脳内に、仁の声が聞こえた。
「おい、時間だぜ。早く来い」
「待って、仁」
「バカ、待てるか!ここから出られなくなるぜ?!早くしろっ」
それは困るっ!
「朱里の居所がまだ分かんないの」
「ルナ、これ以上はダメだ」
その時、閻魔の楽しげに笑う声が聞こえてきた。
「蘭、酒を注げ!今夜の相手はお前に決めてやる」
「本当でございますか?!蘭は嬉しゅうございますぅ」
……アホめ。
あんな男の一体どこがいいんだ。
私は閻魔と蘭の脳天気なはしゃぎ声を聞きつつ、内心舌打ちした。それからシゲシゲと閻魔帳を眺めて思った。
……こんな大切な物をほったらかしにするなんて、アイツ、バカなんじゃないの?それともこれはフェイクとか。
「ルナ、マジで急げ!」
「わ、分かった」
その時、一際大きく閻魔と蘭の笑い声が響いた。何が閻魔大王よ、ただのタラシ男じゃないの!
ええい、これごと持って帰ってやる。
朱里、待ってて。私が絶対に助けるから!
私は意を決して唇を引き結ぶと、閻魔帳を両腕にしっかりと抱いた。
それから、徐々に見え始めた道を、光の方へと駆け出して、現世へと急いだ。
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