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vol.2

広がる距離

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****

放課後。

「春。私彼氏と待ち合わせだからこのまま駅出るわ」

菜穂がリップを塗り終えて手鏡から顔を上げた。

「オッケ。じゃね。土日にラインする」

「ん」

私は隣の席の瑛太に向き直り、声をかけた。

「ね、瑛太一緒に帰る?」

私の声に、スクバに教科書を詰めていた瑛太が顔を上げた。

「俺、部活」

「そっか。じゃあ帰ったら連絡してよ」

「分かった」

「あ、それか私暇だから買い出し済ませとこうか?」

何気なく私がこう言うと、瑛太は首を振った。

「飲み物だけでもかなりの量だぞ。ひとりじゃ無理だ」

「あー、それもそうか。じゃあやっぱ二人で行こっか」

「ああ」 

私は瑛太に手を振ると、帰る準備を始めた。

***

三時間後。

『帰った』

……愛想も何もないな。

私は冷や汗の出る思いで瑛太からのラインを見た。

昔はもっと……屈託なくてお喋りだったのに。

「なんか、可愛くなくなったな、瑛太は」

私は口に出してこう言うと、自宅を出て瑛太の家を目指した。

***

「おばさーん、瑛太と買い出し行くんだ。上がっていい?」

私の声に瑛太のママが振り返り、ニッコリと笑った。

瑛太の家の一階は、ご両親が切り盛りしている小料理屋だ。

店はいつも大人気で忙しい。

「あら、春!わざわざ言いに来なくてもいいわよ!瑛太なら部屋にいるから。玄関まわって」

「じゃ、遠慮なくお邪魔します。また手伝いに来るからね」

「まあー、嬉しい事言ってくれるわね!じゃあまたお願いね」

「うん!」

私は店の引き戸を閉めると玄関にまわり、二階の瑛太の部屋へと向かった。

「瑛太ー?来たよ」

「あー、開いてる」

ドア越しに瑛太の返事が返ってきて、私はなんの気なくそれを開けた。

「っ!」

当たり前だけど、瑛太がいた。

でも、だけど。

着替え中だったんだ、瑛太が。

ジーパンの上が……上半身が、裸だった。

「なに」

硬直した私を瑛太が訝しげに見つめた。

シャツを手に持ったまま、私を真正面から見つめる瑛太。

背が高いのは知ってるけど……こんなだっけ?瑛太って。

男らしい首から肩にかけてのラインや、分厚い胸、引き締まった腰。

「なんだよ」 

その時、フワリと柑橘系の香りが鼻をかすめた。

……あれ?

瞬間的に朝、瑛太から漂ってきたバニラの匂いを思い出した。

「イイ匂い。オレンジ?」

「ん?ああ、ボディソープか?知らねーけど、ミカンみたいな絵が描いてあった」

シャツを着終わった瑛太が何でもないと言ったようにそう言ったから、私は更に質問した。

「朝、瑛太から凄く美味しそうな甘い香りがしたけど、あれは何?香水?」

「……」

瑛太が私から視線をそらして唇を引き結んだ。

しばらく答えを待ったけど瑛太はなにも言わなくて、部屋いっぱいに訳の判らない沈黙が広がる。

「瑛太?」

「……いや。じゃあ行くか」

「うん」

瑛太は私の質問をあからさまに避けた。

なに、この感じ。

言いたくないの?なんか凄く……違和感。

先に部屋を出て階段を降り始めた瑛太の背中を、私は不思議な気持ちで見つめた。

****

月曜日。

「バニラ?!……なんか秘密の匂いがするわね!」

「でしょ?!私の質問を無視したんだよ?!怪しい!」

翌日、私は学食のテーブルに肘をついて、真正面に座る菜穂を見つめた。

「なんか隠してるっぽいのよね」

「バニラの香りなんて、女子だよね。しかも近寄っただけで移らないでしょ匂いは」

「てことは……近寄る以上の事をしたわけ?!瑛太が?!あの短時間で?!」

「誰と?」

「さあ」

私が首をかしげると、菜穂は学食の天井を仰いで眉間にシワを寄せた。

「浅田を好きな女子はいっぱいいるの知ってるけどさ、浅田に好きな子がいるとか、彼女がいるとかは聞いた事ないよね」

瑛太に好きな人?!

瑛太に、彼女?!

「春。あんた知らないの?」

「知らないよ」

「幼馴染なのに?!」

「だってそんな話、しないもん」

そう。そんな話、一度もしたことがない。

家が隣同士でお互いの部屋に行き来する間柄だけど。

いや、ちょっと待って……高校に入学した頃を境に、瑛太から私の部屋に来た事なんてあっただろうか。

いや、ない。いつも私が瑛太の部屋に押し掛けて一緒にオヤツやハンバーガー食べたり、ゲームしたり……。

でも瑛太は……私の部屋にはめっきり来なくなった……。

そう思い返した時、なんだか胸の中に冷たい風が吹き抜けていく感覚がして、私は反射的に学食内を見回した。

瑛太は……来てないのかな。

瑛太は目立つからいたらすぐに分かる。

背が高くてスタイルがいいから。

「あ、あそこにいるじゃん」

菜穂が向けたフォークの先端を追うと、その先に瑛太がいた。

窓の隣の壁に身を預けるようにして男友達数人に囲まれた瑛太は、ストローをさしたパックジュースを飲みながら、フンフンと頷いている。

「ほら、見てよ。群を抜いてイケメン」

「……」

本当だ……こうして見ると、思っていたよりも瑛太はカッコいい。

「瑛太って好きな人とか彼女とか、いるのかなあ……」

「そうだ!」

私が数メートル離れている瑛太を見つめながらそう言うと、菜穂が握った手をもう一方の手の平でポン、と打ち鳴らした。

「なによ?!」

「本人に聞きゃいーじゃん」

「誰が」

「春が」

「えーっ!私?!」

思わず叫んでから再び瑛太を見ると、偶然眼が合ってしまった。

「あ」

「……」

瑛太も僅かに眉を上げる。

真っ直ぐな瑛太の眼差し。

眼がそらせない。

……こんなに長く、真正面から瑛太を見つめたことなんてあっただろうか。

こんなに男らしい顔立ちだった?こんなに切れ長の眼をしてた?

口元だって、キリッとしていて……。

わからない。思い出せない。

その時、

「川瀬」

反対側から誰かに声をかけられて、私は思わずビクッとした。

「あ……」

サッカー部の鮎川君だ。

この間告白されたのに断っちゃったから……なんか気まずい。

「あのさ」

「うん」

ぎこちなく見上げると、鮎川君は制服のポケットに両手を突っ込みながら照れたように短く言った。

「……フラれたのに誘うなんてしつこいかも知れないけど……来週の土曜日、北高と練習試合なんだ。うちのグラウンドでやるからさ、もしよかったら見に来てくれない?」

瑛太も目立つけど、鮎川君も相当目立つ。

スラリとした長身にサラサラの茶髪、どちらかというと可愛い系の甘い顔立ち。

女子達の中で《王子》と呼ばれているだけあって、なんか眩しい。

後光が射してる。

「あ、の……」

返事に困って目の前の菜穂を見上げると、後ろにいた女子達が私達をガン見している。

「鮎川。春は暇だから、ガンガン誘ってやって」

「ちょ、菜穂!」

「因縁の対決でさ、北高との練習試合は結構なギャラリーなんだ。だから気軽に来てくれると嬉しいんだけど……友達として」

あまり長く返事を引き伸ばせないし、ひとりじゃないなら……まあいいか……。

「分かった、見に行く」

私がそう返事をすると、鮎川君がホッとしたように笑った。

「やった!」

いつの間にかポケットから出した手で小さくガッツポーズを作る仕草にドキッとする。

そんなに……嬉しいのかなって思って。

白い歯を見せてニッコリ笑った顔が……やっぱり眩しい。

去っていく鮎川君を見送ったあと、菜穂が嘆いた。

「なんで告白、断っちゃうかなあ……」

「だから、言ったでしょ?まるで違う世界に住んでそうだもん。付き合ったら疲れそう。それに爽やかすぎて友達以上は無理」

「ふーん。で、どーして浅田はこっちを睨んでるのかなー??」

へっ?

慌てて瑛太を見ると、唇を引き結んでこっちを見ている瑛太と眼が合う。

瑛太の周りの男子は私を見てニヤニヤと笑った。

「おい、春。鮎川に二度目の告白されたのかよ?!」

わっ、藤井の奴っ!

「違うわっ!」

バカみたいに囃し立てる男子と、様子をうかがう女子達の眼差し。

冗談じゃない。

「ほーお。なんかおもしろーい」

菜穂までっ!

私が眼を細めて菜穂を睨むと、彼女は学食のトレーを両手で掴んでニヤリと笑った。

「とにかくさ、あんたは浅田に探りを入れな。バニラの匂いの主を突き止めるのよ」

「わ……分かった」

私はしっかりと頷くと、菜穂の後に続くように返却口へと食器を運んだ。

これ以上瑛太を見ないようにしながら。

****

『瑛太。部活終わった後、瑛太が暇なら部屋行っていい?ゲームの続き、やりたい』

嘘だけど。

ゲームは今、行き詰まってて面白くない。

ただ、バニラの香りの主を探りたいだけ。

暫くするとラインの返信がきた。

《いいけど》

『瑛太の部屋で待ってるね』

《オッケイ》

ふっ、アホめ。警戒心の欠片もない奴だ。

私は思わずスマホをタップしてほくそえんだ。

「どうだった?!」

「オッケイ、だって!多分今から部活だよ」

「くふふふっ」

駅前のドーナツ店で菜穂と悪い笑みを交わしながら、私はスマホを店のテーブルに置いた。

「特定の彼女がいたら、大勢の女子が泣くなぁー」

「瑛太が内緒にしてるなら、内緒にしとかないと。で、口止め料として学食のアイスおごってもらお」

私がニヤつきながらこう言うと、菜穂が呆れたように眉を寄せた。

「安っ!」

「いーのいーの!瑛太が誰と付き合おうが、私には関係ないもーん。まあ、今カノと喧嘩とかしたら相談に乗ってやってもいーけどさ」

「そんなもんなの、幼馴染みって」

「そ」

興味は凄くある。

瑛太が選ぶ女の子がどんな感じなのか知りたい。

こんな事を考えている私にまるで気付いてない瑛太の顔を想像しながら、私は再びニヤニヤと笑った。

****

……誰……?私の頭、撫でてるの。

温かくて大きな手……。

その手が頭から頬に移動してきて、そこでピタリと止まる。

髪を撫でられるよりもじかに掌の熱が伝わってくる。

凄く安心する感じ。

「……春」

「んー……」

「春」

あれ、瑛太の声がする。

なに、今日はいつもより優しい声だなぁ。

「瑛太……」

ポツンと呟いた時、私は反射的に眼を開けた。

だって、あのバニラの香りがしたから。

うっかり眠ってしまい、部屋は来たときよりも薄暗くなってしまっていて、私は瑛太のベッドから身を起こそうとした。

「春」

フッと視線を上げると、ベッドに腰かけて私を覗き込んでいた瑛太と至近距離で視線が絡んだ。

「……瑛太」

「ん?」

今帰ってきたばかりなのか、瑛太は制服のままだった。

その瑛太から、汗の臭いよりバニラの香りのが強く香る。

甘い甘いバニラの匂い。

なんで?なんでこんな匂いがするの?

「瑛太。瑛太からバニラの匂いがする。なんで?」

気付くと私は単刀直入に尋ねていた。

それとなくとか遠回しにとか、そんな事はまるで出来なくて、それどころか声すら掠れたままだった。

「……」

瞬間的に瑛太がベッドから立ち上がって私から離れた。

まるで避けるみたいに。

「……シャワー浴びてくるわ」

なに今の。

なんで?なんで避けるの?

瑛太が、昔から私には全てを見せてきた瑛太が、隠し事をしている。

他人みたいによそよそしい態度が、なんだかモヤモヤする。

瑛太が私に内緒事?意味分かんない。

「待ってよ、瑛太」

もう一度。もう一度さっきの匂いを確かめたい。

私は慌てて瑛太に近寄ろうとして、ベッドの脇に積み上げられていた野球の雑誌につまづいた。

「ごめ……」

そこまでしか言えなかった。

だって瑛太が点けた部屋の明かりで、信じられないものが私の眼に飛び込んできたから。

野球の雑誌の山から、ありえない格好をした水着姿の女の人の写真が見えた。

ううん、水着じゃない。多分……下着だ。

それに、透けそうな程薄い服を着た変な体勢の女の人。

全身が濡れているのか、ピタリと身体に服が張り付いていて、半開きの赤い唇と妖艶な眼差しが見る人をドキッとさせる。

パラパラとページが流れるようにめくれて、見えたのはほんの一瞬だったけど、強烈にそれが私の眼に焼き付いた。

息を飲む私の前で、決まり悪そうに瑛太が私から眼をそらした。

「……」

瑛太はなにも言わなかった。

「信じられない」

気付くと私は避難めいた口調でそう呟いていた。

目の前の瑛太の大きな身体や、筋肉の張った太い腕。

それとさっきの雑誌。

いつの間にか瑛太が知らない人になっているみたいで、ここにいたくなかった。

「……帰る」

やっとそこで瑛太が口を開いた。

「待てよ、春」

「やだ、触らないで」

「春……」

グッと眉を寄せた瑛太がこっちに手を伸ばそうとしたから、私は夢中で部屋から飛び出して階段を駆け降りた。

瑛太があんな雑誌を持ってるなんて……信じられない。

自分の部屋に駆け上がった私は、ドアを背にして大きく息をつき、ズルズルとしゃがみこんだ。

何故か分からないけど心臓が煩く鳴り響き、自分ではどうしようもなかった。

****

「うはははは!最高!あのエースで四番のイケメンも男だったわけだ」

「一瞬だけだったけどさ、なんかもう、すっごいエロかった!信じられないよ!瑛太のクセに!」 

昼休み、中庭のベンチでお弁当を広げながら、私は人気の無いのをいいことに毒ついた。

「別にいーじゃん!もう高校生だよ?当たり前の反応でしょうが。私の今カレなんて、堂々とDVDを」

「分かってるよ、頭では!こないだだってクラスの男子が回し読みしてた漫画雑誌にそーゆー系が載ってたの見えたし」

「じゃあ、別に浅田が見てもよくない?」

「……」

それは……嫌。

なんか分かんないけど。

他の男子なら平気でも、瑛太だと……なんか変な感じで。

「じゃあさ、浅田にバニラの匂いの彼女がいたら?それはいいわけ?!」

菜穂の言葉に身体がビクッとした。

「それは……瑛太はモテるし、彼女が出来てもおかしくないし」

「じゃあ、彼女と抱き合ったりキスしたりは?」

瑛太が、キス。

脳裏に瑛太が誰かにキスをしている画が浮かび上がり、反射的に私は眉を寄せた。

「キモい!もう瑛太の話題飽きたわ!どーでもいー!」

「……はいはい」

呆れたのか薄ら笑いを浮かべた菜穂の顔を、私はこれ以上見れなかった。

****

相変わらず瑛太は私の右隣の席だけど、私は瑛太を見なかった。

同じ教室だけど、視線も絶対合わせない。

瑛太がいそうなところは、見ない。

ただ、匂いだけは漂ってくる。

瑛太本人の匂いと、甘いバニラの香り。

バニラの香りは好きなのに、瑛太から香るそれは好きじゃない。

無性にイラつく。

「おーい、川瀬ー。川瀬春いるかー?」

担任だ。何だろう。

「はーい、なにー?」

黒板側の入り口から教室を覗き込む担任に返事をすると、担任は無情な一言を言い放った。

「学年主任の池田先生が呼んでるぞ」

げっ!なんで私だけ?!

思わず菜穂を見ると、彼女は訳がわからないらしく首をかしげた。

ああ、面倒が起こる予感がする。

だってズキズキとこめかみが痛むもの。

****

「というわけで、塀をよじ登って校内に入った罰として、お前には二週間の野球部マネージャー業務を与える」

「えーっ」

「文句を言うな。大体なぁ、どうして校門から入らないんだ」

「だって、先生うるさいじゃん」

「俺はなあ、お前達を心配してるんだぞ!?そんな短いスカートなんぞはいて、犯罪にでも巻き込まれたらどうするんだ」

「ご心配なく……自己防衛は万全です」

「とにかく二週間、野球部のマネージャーをやれ!」

「えー……」

なんでも、マネージャーがふたり、インフルエンザで休みらしい。

三人のマネージャーのうちのひとりで、先に発症して暫く休んでいた三木さんがようやく今日から登校したらしく、ひとりで困っているそうだ。

……まあね、部員数からすればマネージャーがひとりだととてもじゃないけど無理だな。

「あの、池田先生。なんで私だけ?!菜穂……安藤菜穂は?!」

「あー、アイツは今、お母さんが入院中だから除外」

えっ!知らなかったけど!

私は急いで職員室から飛び出すと、教室へと駆け出した。

***

「昨日の夜に職場で倒れたのよね。まだ詳しい検査をしなきゃ分かんないんだけど、どうやら過労らしいわ」

「そっかあ……」

「まあ、大したことないと思うけど、パパが学校に連絡したみたい」

「なんか私に出来ることがあったら言ってね」

私がそう言うと、菜穂がニヤリと笑った。

「野球部のマネージャー」

思わずグッとつまる私の顔を菜穂が覗き込んだ。

「浅田、春がマネージャーやること知ってんの?」

「さあ……」

恐る恐る辺りを見回して瑛太の姿を探すと、彼は窓際で男子に囲まれていた。

少しだけ眼にかかる前髪を右手でかきあげながら藤井の耳に唇を寄せ、何か言った後、瑛太は弾けるように笑った。

……なんか……ムカつく。

私がいなくても全然平気そうなあの笑顔。

ちぇっ。エロいクセに。

バニラの香りなんか、似合わないクセに。

***

その日の夜、珍しく瑛太が私の部屋にやって来た。

……気まずい。

「なに」

ベッドの上で縫いぐるみを抱えた私を見下ろすと、瑛太がノートを破ったメモ書きを差し出した。

「これ福井先生から。大まかなマネージャーの仕事の箇条書き。それと、三木が春のラインのID教えてほしいってさ」

「……分かった」

「……」

メモを受けとりながら少しだけ瑛太の顔を見ると、瑛太はスッと視線をそらして横を向いた。

たちまち、胸がグッと重苦しくなる。

……なんで私がこんな思いしなきゃなんないわけ?

私、なんも悪くないよね?!

なんで私が瑛太に眼をそらされなきゃなんないのよ。

しかも、またしてもバニラの香りがするしな!

「瑛太、シャワー浴びてないの?」

「……まだ。今帰ったとこだし」

「ふーん」

ぶっきらぼうな私の口調に嫌な予感がしたのか、瑛太が摺り足で私から離れた。

なによその動き方。お前は狂言師もしくは歌舞伎役者かっ!

いちいち勘に障るわ!

「あっそ。じゃあね」

「……おう。それと土曜日は練習試合だから、八時に部室集合な。金曜の放課後、買い出し行くから」

土曜日?……土曜日は無理だ。鮎川君にサッカーの試合見に行く約束したし。

「あー、土曜はパス。先約があるから」

すると私に背を向けようとしていた瑛太の動きが止まった。

「は?練習試合だっていってるだろ。無理とかないから」

「無理だってば。先に約束しちゃってるもん」

「断れ」

瑛太がムッとした瞳で私を見据えた。

その顔が、凄く真剣で怖かった。

なによ……そんなに怒ること?

「じゃあ……買い出しの荷物は運ぶよ。で、試合が終わる頃にもっかい顔出……」

言い終える前に、ベッドが軋んで身体が揺れた。

だって瑛太がベッドに膝をついて、私の方に身を乗り出したから。

「そんなに鮎川の試合が見たいのかよ」

「っ……!」

一瞬で鼓動が跳ねた。

なんで知ってるの?

確かに学食で話しかけられたとき瑛太もいたけど、会話なんか聞こえるような距離じゃなかった。

後で誰かに聞いたとか?

だったら、最初から知ってたのに、野球部の試合を優先しろって?

瑛太が、至近距離から私を見据える。

「春はさ、アイツが好きなの?」

「はあっ?!」

「は?じゃねーよ。鮎川が好きなのかって聞いてんだけど」

瑛太の声は決して大きくなかった。

でも、低くて冷たい。

端正な顔を傾けて、瑛太は僅かに眼を細めた。

それから、なにも言えないでいる私に続けた。

「なに?コクられて舞い上がってるとか?」

信じられなかった。

ガキ大将だったけど、瑛太はいつだって私には優しかったのに。

こんな風に怒ったり、意地悪なんて私には絶対に言わなかったのに。

目の前の瑛太は、まるで別人のようだ。

別人のようにイラついて、私に意地の悪い台詞をぶつけてくる。

「瑛太なんか嫌い。帰って!」

声が震えそうになって、でもそれを知られたくなくて、私は膝の上の縫いぐるみを瑛太にぶつけた。

それから、顔を背けた瑛太の胸をここぞとばかりに両手で押す。

「舞い上がってんのは瑛太でしょ?!女子にキャーキャー言われて調子に乗ってんじゃないの?!そんな甘ったるい香水つけてる女子となにやってんのか知らないけど、」

私がそこまで言った時、瑛太が素早く私の両手首を掴んだ。

「……気になんの?俺が……誰となにしてんのか」

瑛太の息が手首にかかり、その温かさにドキッとした。

切り込んだような瑛太の二重の眼を見ていられなくて、眼をそらした途端、今度は男の子らしい顎や首のラインが眼に飛び込んでくる。

やだ、こんなの。

「はなしてっ」

「……春」

「はなしてっ、瑛太なんか嫌い。そんな意地悪言う瑛太なんか嫌い!」

「……」

ギュッと両目を閉じた私を見て、諦めたように瑛太が私の手首を離す。

それから小さく息をつくとベッドから降りて、瑛太はなにも言わずに私の部屋から出ていった。

なによ、瑛太なんかっ!

掴まれた時、両手はまるで動かせなくて、思いきり力の差を見せつけられた。

信じられない早さで心臓が脈打ち、胸が苦しい。

瑛太のバカ!

なんであんな言い方するわけ?!

コクられて舞い上がってる?!瑛太から見たら、私はそんな風に見えてたの?!

凄く嫌だ。

今が、凄く嫌!

私は頭から布団を被ると、その中で唇を噛み締めた。

明日の朝に起こる、大事件も知らずに。
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