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3.面倒臭い男
しおりを挟むその日、父は仕事で不在。家には無職の私と専業主婦の義母しかおらず。玄関の引き戸が開き『すみませーん』という声が聞こえたので慌ててそこへ向かうと、引越し業者らしき男性と、見覚えのある男前が立っていて。男前の方が『お前じゃ話にならん』と言わんばかりに『母さーん』と叫び。奥から固定電話の子機を持ったまま、義母が出て来てこう言った。
「お父さんから今、電話で聞いたわよ」
「それなら話は早い。もうお義父さんに許可は得ているから、荷物を運び込んでいいか?」
ぽっつーん。
1人だけ蚊帳の外の私は玄関脇でただただ立ち尽くしていたのだが。
「えっと、じゃあ取り敢えずは客間でね」
「ああ、有り難い」
えっと、1人息子の…豊さん、だっけ?
確か顔合わせでこの人の会社に誘われたよね。その後、連絡先を訊かれて、来週面接で…。あの時はとっても感じが良かったのに、なんだか今日はご機嫌ナナメなのかな??
「ごめんなさいね、奈緒さん。ウチの息子、分譲マンションに住んでいたけど、上階の人が猫砂をトイレに流したとかで…」
「は?!」
脈絡のない話に眉間が盛り上がる。
「『流せる猫砂』と書いてあったらしいのに、どうやらそれが積もり積もってトイレの下水管を溢れさせたのですって」
「ト、トイレの…」
ちょっとだけ自分の眉間が凹んだ気がする。
「それでね、豊の部屋が全面水浸し。いえ、汚い話だけど水じゃないわよね。自分のと他人様の排泄物がドバーッと。そりゃもう地獄絵図になったのですって」
「そっ、それは大変でしたね」
ここからの話は端折らせていただく。
業者に依頼し、修理と清掃、床の張替えまでは手配済みだがそれが終わっても住みたくないと。
…だって彼は神経質だから。
マンションのローンはまだ30年残っているし、金銭的にも苦しいけどあのマンションは嫌だと。
…仕方ない、彼は神経質だから。
取り敢えず我が家に仮住まいしようと父に電話したところ、同じ神経質同士で波長が合ったのかいたく同情され。即OKを貰ったそうだ。
ねえ父さん、年頃の娘が住んでいることを
忘れてはいませんか?
そんな心配は皆無だと、あの時の自分に教えてやりたい。なぜなら辰野豊は本当に面倒臭い男だった。父で慣れていた私にも、新鮮な驚きを与えてくれるほどの神経質っぷり。
それは翌朝から披露される。
「奈緒さん、ちょっとこちらへ」
「あ、豊さん、おはようございまーす!」
うふっ、お義兄さんと呼んだ方が良いのかしらん。
そんなイタイことを考えながら、
彼と共に洗面所へ向かうと…。
「これ、何かな?」
「何って…水滴ですかね?」
洗面台に2滴ほど落ちているソレを、彼は何度も指でクルクルと囲む。
「俺、洗顔してすぐ拭けるようにとココにタオルを置いておくんだよね」
「…はァ」
「ああ、想像力の無い女だなッ。ココが水浸しになっていると、タオルも濡れてしまうだろう?!」
「水浸しとは大ゲサな。たった2滴ですし」
「いやいや、そういう言い訳は結構だ。ところでコレ、何の水?まさかそこにある歯ブラシから落ちた水とか言わないよね?」
「さあ?」
なんだこのバカバカしい会話。こんなもん『次からは濡らさないでね』で、済むことでは無いか。
そう思ったので返事が雑になってしまう。
「き、きみの唾液たっぷりの水が俺のタオルに付着すると俺の顔にもその唾液が付くんだぞ?そこんとこ分かっているのか?」
「ああ、もう拭きますから」
傍に置いてあったティッシュでサッと拭き、それをクシャッと丸めて捨てると今度はその行為が不経済だと咎められる。
「たった2滴の水を拭いて捨てるとか、それじゃあ資源の無駄遣いだろ?!」
「あ、豊さんの唾が私の頬に飛んできました。やだもう、汚いなあ」
部屋着の袖をクイと引っ張ってそれでチョチョイと拭くとなぜか再び叱られる。
「嘘を吐くな。俺の唾は…飛ばない」
「そ、そうきましたか。はいはい、私は心が広いから許してあげますよ。豊さんの唾は絶対に飛びません。…これでいいでしょ?さあ、早く行かないと朝食が冷めますよ」
一事が万事、この調子。
ドライヤー使用後、1本でも髪を落とそうものなら呼び出され。スリッパの脱ぎ方がだらしないと呼び出され。『テレビのリモコンを汚したのはお前だろう?!』と呼び出される。普通の女子であればきっとノイローゼ案件だが、残念ながら私は父で免疫をつけられているのでちょっとやそっとでは動じないのである。
…おかしなもので。
自分でギャースカ叱っておきながら、挫けない私が不思議でならないと彼が言い出し。そうこうしているうちに、豊さんと同じ会社へ中途採用されることが決定。
こうして私は、家でも職場でも彼から激しく責められ。慌ただしい日々を過ごしていたところ、突然父がこう言ったのである。
「…早期退職者を募っていたからさ、仕事を辞めることにしたんだ。でな、夫婦揃って沖縄で1年ほど暮らすよ」
「〇X△…!!!」
声にならない叫び。
神経質な彼と2人で暮らせと??ご、ご冗談を…。などと反論しようものならば、十倍になって返って来る。
「残念ながら俺がすると、いちいち拘り過ぎてたかが洗濯に2時間ほど掛けてしまうんだ。1人暮らしをしていた際は、そのせいで睡眠時間が異常に削られて辛かった。自分以外の誰かにして貰うと、雑でも『仕方ない』と思って諦められるだろ?だから頼む」
この人の『頼む』が、いつも上から目線なのはどうしてか。長い父子生活で培われた料理の腕前も、彼に掛るとケチョンケチョンだ。
「奈緒さんの料理は本当に雑だね。こんな切り方、素材の味を殺しているよ。野菜農家さんに謝らないといけないレベルだな」
「はいはい、農家さん、ごめんなさい」
あしらって、ひたすら、あしらって。
ムキになってはいけないのだ。神経質な人には独自のルールが有り、それさえ破らなければ何の問題も無いのである。
「奈緒さんの洗った食器、まだ汚れてるよ」
「あー、油汚れが凄くて。ごめんなさい。後でもう一度洗っておきますね」
大抵こういうやり取りの後は、豊さん自身が洗い直してくれて。たかが皿1枚を洗っただけで、彼は綺麗なドヤ顔を見せてくださる。
「仕方ない。洗ってやったぞ」
「うわあ、助かりますっ。有難うございました」
これはもう、相手が小学生だと思うしかない。だからたまに手伝ってくれると、大ゲサなほどに褒めまくるのである。だって仕方ないではないか。私は現在、父への借金を返済中なので、家賃ゼロのこの家を出るワケにはいかず。そしてあんな面倒臭い父と結婚してくれた義母への恩返しの意味でも、この男と仲良くしなければならぬのだ。
この調子でジャイアン化していく豊さんと、
奴隷化していく私。
決して『ノー』と断らない私に勘違いしたのか、
ある晩、彼はこう言った。
「ちょっと今から俺の部屋に来てくれ」
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