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<零>
その2
しおりを挟むああ、どんな時でも真面目な自分が憎い。
時給1200円も貰っているのだから、死んでも仕事だけは放棄すまいという思いで逃げた先はカウンターの中だったのだ。狭くてコンクリート打ちっぱなしのそこで蹲り、小さくなって身を隠しているとポッチャリ系のママが心配そうに声を掛けてくる。
「まあっ、ミドリちゃんったらどうしたの?!どこか具合でも悪くなっちゃった??」
下戸の女を雇うほど心優しいママに、心配を掛けてしまったことを後悔した私は、状況も忘れてスクッと立ち上がってしまう。
「いいえ!ミドリはいつでも元気!本気!和気!どこにも不調はございませんッ」
「あらそお?それならいいけど。あと、元気と本気は分かるけど、和気って何?」
「な、なごやかな雰囲気という意味でして。その…小学校のスローガンだったもので、ちょっとした拍子に口から出てしまうんですよ」
「あはは、そういうことなのね。まあ、結婚式のスピーチで言うところの3つの袋みたいなものかしら」
「そうそう、そんな感じです。それってお袋と堪忍袋と残り1つは何でしたか」
「確か胃袋だったと思うけど」
「ええっ、給料袋じゃないんですか?」
「昔はそうだったみたいだけどね、最近はいろいろな説が有るみたいよお」
ツンツンと誰かに肩を突かれて、ようやく私はハッとした。
「いい度胸してるよな、お前。ちょっと話を聞かせて貰おうか?」
「うあっ、は、はいい」
普段は『松村さん』と呼ばれているので、『お前』呼びされると少しだけドキリとする。たぶん機転が利く課長のことだから、店内では私の本名を伏せておこうと考えているのだろう。テーブル席への案内を途中放棄したというのに、常連の横井社長はこちらを見て手を振っている。
その笑顔に安心しているとクイクイと人差し指だけで手招きされ、課長に促されるがままカウンター席へと座った。
「大丈夫、横井さんには口止めしておいたから。というかさ、あの人って帯刀流通の社長だぞ?」
「し、知りませんでした…」
帯刀グループは多岐に亘って事業展開しており、その系列会社は数百とも言われているので、新入りの私にそんなもん分かるワケないのだが。
…って、ん?
何故この組み合わせなのか??
こう言ってはナンだが、我が食品部門は長い歴史と古い体制が仇となり、その売上は11年連続で前年を下回っている。業績は帯刀グループ内でも万年最下位だ。…そう、いわゆるお荷物部門なのだ。そんな落ちこぼれ部門の課長と、海外にも進出し稼ぎまくっている流通部門の社長という組み合わせはとても不自然過ぎる。
この私の疑問は後に解決されるので、
しばしお待ちを。
「ったく、お前にはガッカリだよ。いつも質素な服装しやがって、物欲ゼロだと思ってたのに。こんなところでバイトしているとはな。…ところでウチの会社、副業禁止って知ってるか?」
私は慌てて事情を説明する。ここで本業を失っては死活問題だからだ。必死になって説明し終えると、クールなその表情が途端に豹変し、満面の笑みで彼はこう言った。
「そっか、それは好都合だな…」
「えっ?!何のことですか??」
ママは横井社長とデュエット中で、他の客は立て続けに帰ってしまった。誰にも聞かれていないのは確実なのに、課長はそれでも私の耳元に唇を寄せて来て、ハッキリとこう言ったのだ。
「俺と結婚すれば1000万円やろう」
「〇X△…!!」
慌ててその表情を確認しようとしたせいで、べらぼうに近距離で見つめ合うハメとなる。うッ、最終兵器並みに殺傷能力の高い顔だわ…。ジリジリと焦げつきそうなその視線。それは私を異性として欲しているのでは無く、どちらかと言うと物欲にも似た感じのもので、色恋が絡まないことだけは伝わって来る。
「け、けけ、結婚ですか??」
「ああ、そうだ。いろいろと事情が有ってな。しかも死ぬまで添い遂げろという話じゃなく、期間は1年だけで構わない。とにかく俺と結婚してくれ」
取り敢えず私は、その“事情”とやらを詳しく教えて貰うことにした。しかし、一筋縄ではいかないと言うか、課長は情報を小出しにしてくる。
「俺、本当の名字は兼友ではなく…タテワキと言うんだ」
「ええっ?!」
何がショックって、それでは私の持論が根底から覆されてしまうからで。
じゃあ何かい?
名は体を表さないとでも?
カネトモさんだから
お金持ちなんじゃ無いの?
タテワキって全然
お金関連の名前じゃないし!
「…これでもう、分かっただろう?」
「わか…る?ええ、はい、もちろん!」
本当は全然まったく分かっていなかったのだが、この人が、察することが出来ない部下に対して鬼のように厳しいことだけは知っていた。だから巧妙に話を合わせ続けたのである。
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それほど必死になるって、おかしくない??
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