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ミスター完璧
しおりを挟む「いらっしゃい。今日から宜しく頼むよ」
「こちらこそ、お手柔らかにお願いします」
結婚前の女が独身男性のマンションで同居するだなんて、人が聞いたら絶対に眉を顰めるだろう。
しかし、求めるものが合致したとでも言おうか、まあ、早い話が一緒に住むことで互いの不安が解決出来るのだ。廣瀬さんはワザと明るく言っていたが、本当は真面目に悩んでいるに違いない。
自分が一生結婚出来ないのではないかと。
対する私の方も、『悲しくない』『心の準備は出来ていた』と強がってみたものの、実はかなりのダメージを受けていた。…前田が私を選んでくれなかったことに。2年間も一緒にいて、ぶっきらぼうだったけど私にだけは心を許してくれていると思ったのに結局、彼は他の女性を選んだのだ。
『やっぱり千脇の方がラクでいいや』と復縁の連絡が来ることを期待した挙句、何も無いまま1カ月が過ぎた。前田にとって私はその程度の存在だったと認めるのは、とても辛い作業で。漸く認めると今度は、女としてどこがいけなかったのかと自問自答する毎日。そしていつも最後に辿り着くのは『彼にとって私は必要なかった』という事実だけだ。
>…だから俺にご飯を作ってくれ!
>1カ月だけ試してみてはくれないか?
>本当に?!やったあ!!
だから、本音では嬉しかった。
恋愛相手としてでは無いにせよ、これほどまでに私を必要だと言ってくれる廣瀬さんが、涙が出るくらい有り難かった。この部屋でリハビリをして、前田と一緒に仕事をしても心が乱れないほど強くならなければ。仕事を続けると決心したのだから、それ以外の選択肢は無いのである。
「千脇さん、コーヒーでも飲む?」
「え、はい、じゃあ私が淹れて来ますよ」
取り敢えず今晩は仕事終わりに住まいを移したことも有り、食事は各々で済ませておくことになっていた。前回、酔って一泊した時は寝室しか見ていなかったが、改めて眺めるとこのマンションは3LDKと部屋数も多く、明らかに結婚を見据えている感じだ。
コポコポと音を立てるコーヒーメーカーを見詰めていると、いつの間にか廣瀬さんが隣りに立っていて、嬉しそうに話し掛けてくる。
「なんかさ、まだ何も始まっていないのに千脇さんがいるだけで落ち着くよ」
「え…っ、ああ、そう…ですか」
「ほら、英語ペラペラになるぞ!と意気込んで、英語教材を買っただけで安心するあの感じ」
「ふふっ、精神安定剤的な?」
「そう、それ」
「人間って案外と頑丈に出来てますよね」
「だね」
「なんだかんだ言って、壊れませんもん」
こんな近くにいるのに、廣瀬さんが一定の距離を置いてくれているような錯覚をしてしまうのは、前田との関係と比べてしまうからだろうか。
「前…」
「はい?」
「ま、前の方に有るのがシンク洗い用のスポンジで、その横が食器用だから」
「ああ、はい、分かりました」
本当は『前田』と言いかけて、止めたのだろう。なんだかんだ言って廣瀬さんは分かり易い。
「なに笑ってるんだよ」
「いえ、なんだか廣瀬さんって…」
「は?俺が何?」
「皆んな隠れて“ミスター完璧”と呼んでいるんですけどね、…全然完璧じゃ無いなあとか思って」
ムキになって反論されるかと思ったのに、むしろ照れ臭そうに廣瀬さんは笑った。
「うん、そうなんだ。小心者で見栄っ張りで臆病なだけで、ちっとも完璧なんかじゃない」
「あー、認めちゃいましたね」
「ずっと、認めたかったのかもしれない。でも、出来なかった」
「男のコですもんね」
「ああ、男だからな」
「そういう虚勢の張り方、カッコイイですよ」
「うん、自覚してる。俺、カッコイイよな」
「はい、すごくカッコイイです」
「もっと言って」
「もう言いません」
「ケチ」
「ケチで結構、多用すると有難味が薄れますので」
ふんわりと漂うコーヒーの匂い。きっと私はこれからコーヒーの香りを嗅ぐたび、この光景を目に浮かべるんだろうなあと思い。
何となく幸せな気分になった。
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