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マスターオブラブ千脇
しおりを挟む「…あっ」
「え?ああ…」
突然過ぎて、言葉が出て来ない。
その存在は知っているが主に前田を介してのことだし、前田と私の関係を知られてはいないと思うものの、やはり後ろめたい。出来れば挨拶程度で済ませたいという希望的観測は呆気なく裏切られた。
「千脇さん…でしょ?やだこんなところで偶然ね」
「あおっ、お」
オットセイみたいな声が出る。いや、自分でも吃驚ですよ。まさかそんなフレンドリーに話し掛けられるとは思ってもみなかったもので。こ、これは前田から私の話を聞いているな。勿論、都合の悪い部分はカットして、職場で仲のいい女性の同僚…くらいの情報を伝えているのかもしれない。
「信号!青になったわよ。行きましょう!!」
「あおう、う…」
『青ですね』と相槌を打つつもりが、村瀬さんにいきなり腕を組まれ、まるで十年来の仲良しみたいに一緒に歩き出されたせいで動揺してしまったのである。何これ?どこかに拉致されてしまうワケ??
漸く横断歩道を渡り切り、首をカクカクと挙動不審に動かしていると廣瀬さんが村瀬さんの手を掴んで私の腕から外させた。しかし、村瀬さんはムキになって再び私の腕に絡みついてくる。この状態にほとほと困っていると、傍に立っていた村瀬さんの御世話役みたいな男性が静かに、でも力強くその両手首を掴んだ。
「よし、捕獲しましたよ!千脇さん…でしたっけ?村瀬さんは僕が抑えておきますのでどうぞ遠慮なく逃げてくださいッ」
「えっ、でも、あのっ」
彼の銀フレームの眼鏡が激しく上下に揺れているのは、その腕の中で村瀬さんが暴れているからだろう。凄いな、顎にガンガン頭突きしまくって、あれはきっと村瀬さん自身も痛いはずだ。
「大丈夫ですから、早く。この人、接待で先方とロンリコの飲み比べをしてベロベロに酔っているんです。正気では無いのでお許しください」
「ロンリコ…」
初耳のその単語に引っ掛かっていると、傍で廣瀬さんが『テキーラよりキツイ酒でアルコール度数75.5度だよ』と解説してくれたので全てを納得した。そういや私と違って酒には強いといつだったか前田が言ってたっけ。
それでは遠慮なくと思い、コクリと頷くとキャッキャと笑っていた村瀬さんがいきなり焦った表情で私に向かって叫び出す。
「はへ?ちょ、待ってよ千脇さん!前田、…そう、前田のことで話があんの!あいつはもう婚約して…うっ、なんか気持ち悪い…」
「ちょっ、こんな場所で困りますよ村瀬さんッ」
ドクドクと心臓の音が鳴り響く。
ああ、知ってるんだ…。この人は私と前田の仲を知っていて、もう手を出すなと釘を刺そうとしているに違いない。そのことで焦っている私の顔を見て、御世話役の彼は良い方向に誤解してくれたらしく、早く去るようにと再び言ってくれた。
「あの…で、ではこれで。失礼ですがお名前を伺っても宜しいですか?」
「俺は営業部の吉良です。以後お見知りおきを」
ペコリとお辞儀し、廣瀬さんと共に逃げるようにその場を後にした。それからタクシーで帰宅すると既に時刻は0時近くで。取り敢えずいつものように廣瀬さん、私の順で入浴し、ソファで寛いでいると相変わらず鋭いミスター完璧が私に尋問し出す。
「なんだ、心配ごとか?」
「心配っていうか、やっぱり前田の婚約者は村瀬さんだったんだなと思って…」
「へえ、そうなのか」
「しかも先程、酔った勢いで私に釘を刺していたでしょう?もう手を出すなと」
「そんなこと、言ってたっけ?」
「ズバリじゃなかったですけど、婉曲に言葉を濁してそう伝えてきましたよ」
「でも千脇さんはもう別れているんだし、何も問題も無いじゃないか」
「それはそうなんですけど、でも、私のせいで幸せな結婚に影を落とすことになったら、嫌だなって。なんだか私、メチャクチャ邪魔者じゃないですか?」
でも、そうなりたくてなったんじゃない。私だって幸せになりたかったのに、前田から選ばれなかっただけなのだ。
「ああ、そういう哀しい顔をされると、絆されちゃうだろう?いつもは元気で冷静な千脇さんが、弱々しい部分を俺にだけ見せるとかさ、どこで習得した恋愛上級テクニックなんだっつうの」
「習得なんかしてません」
「くっそ、マスターオブラブ千脇、恐るべし」
「人を喫茶店のマスターみたいに言わないでくださいよ」
「はあ?!違うし、そのマスターじゃねえしっ。恋愛の達人という意味でだな」
「ああもう、何を悩んでたか忘れちゃうでしょっ」
ゼエゼエと息を荒げ、それから私と廣瀬さんは同時に笑った。
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