満洲国異形録

蓮實長治

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第一部:来たるべき種族─The Coming Race─

第一章:大連(二)

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 日本語、朝鮮語、中国語、ロシア語、英語、ドイツ語、そのどれでも無い言葉。それらが、宵闇に包まれつつある大連の屋台街で飛び交っていた。
 一口に日本語・朝鮮語・中国語と言っても、様々な地域の方言が入り混じっている。欧米の言葉も、おそらくは、そうなのであろう。
 道行く人々の服装も、洋服に和服、協和服に様々な民族衣裳と雑多だった。
 薄汚れ、あちこち擦り切れた服を着た老人は、道端に座り込み安いが強い蒸留酒を飲んでいた。時折、その口から漏れるのは、愚痴らしきロシア語だ。
 高級そうな正装の白人の中年の男女はドイツ語で話している。
 洋装だが、インドか中東の出身らしい、彫りの深い顔立ちのインテリ風の青年。
 西欧系の金持ちの召使らしい黒人の少年。
 回族の民族衣装を着た二人の男が屋台で食事をしながら話し込んでいるが、一方は、日本人や朝鮮人や漢族に似た顔立ちで、もう一人は、彫りの深い中央アジア系の顔立ちだった。
 その近くでは、言い争う男女が居た。男は、毛皮の帽子に、毛皮の襟の付いたコートと、一見、馬賊にも見えぬ事もない服装で、女は、地味だが仕立ての良い和服だったが、いつしか、男の方は信州か甲州の訛りの日本語で、女の方は釜山あたりの訛の朝鮮語で相手を罵り始めた。
 人々が集る事で出来る混沌が、モダン過ぎて、どこか無機質な印象を与える都市に命を吹き込んでいた。
 この国の建前である「五族協和」は二つの意味で間違っているようだった。
 一つは「協和」には程遠い政治体制や社会情勢。もう一つは、そこに住む者達が「五族」どころでは無い事。
 欧州では第二次世界大戦が始まっており、万里の長城の南で起きている戦乱も、国民党政府の首都だった南京が陥落して二年近く経っても終る気配は無く、戦争に似て非なる「事変」だった筈のものは、近代国家となって以降の日本が経験した中で、最も長い対外戦争と化していた。
 今の情勢に不安や危うさを感じる日本人も少なくなかったが、まだ、日独伊三国同盟は締結されておらず、二年後に日本と米英の間で戦争が始まり、六年後には日本の主要都市の多くが焦土と化すなどと予想出来た者は皆無に等しかった。
 昭和十四年十一月。日本の傀儡国家「満洲国」有数の都市にしてほぼ最南端にある大連も、すでに冬の寒気に包まれて、雪が積っていた。
 この町に居る日本人の中には「この国の一等国民」として振る舞い、他民族を見下す者達が年々増えていた。もちろん、満洲国の事実上の支配者が日本陸軍の国外派遣部隊の1つである関東軍であり、満洲事変の張本人の1人である日本陸軍将校・石原莞爾でさえ、康徳帝・溥儀の住まいより豪勢と言われる関東軍司令官の役宅を、半ば揶揄気味に、半ば、こんな筈では無かったと云う後悔の念を込めて「泥棒の親分の邸宅」と呼んでいる状況では、そうなるのも時間の問題だった。
 だが、その大連の中でも、この通りには日本人よりも、それ以外の人々が多かった。とは言え、この夕暮れ時の、ある一箇所だけは例外のようだった。
「あちちちち……でも、羊の肉ちゅうのも、中々、美味かですねぇ」
 清真菜の屋台から聞こえた、その声は九州訛の日本語だった。
 声の主は、学生服の上からオーバーを羽織った若い男。この頃の日本人としては大柄な方だ。首も太い。手足も太い。冬着の上からでも、鍛えぬかれた筋肉の塊である事が推察できる。
「ところで酒は無かとですか?」
「ここは、回教徒向けの店じゃ。回教徒には酒は御法度じゃからな」
 学生服の男に答えたのは、協和服の上にコートを着た、三十前後の蓬髪の男だった。
 小柄だが、服の袖口から覗くのは、指の太い、ゴツゴツとした手。その手は、体の割に大きかった。
「それに、木村君には酒を飲ますな、と辰熊の兄貴から言われとるからな」
 小柄な男の口調にも、九州の訛が有った。
「でも、こげん寒かと酒でも飲まんと……」
「木村君に酒ば飲ました事がバレたら、おいが日本に帰った時に辰熊の兄貴に殺されるわ」
「いや、辰熊にはおいが飲ませたとうとけ」
 そう言ったのは、蓬髪の男の横に座っていた、四十ほどの協和服の男。
 この男にも九州の訛が有り、そして、2人に負けず劣らず鍛え抜かれたとおぼしき体格だった。
「やめて下さい、義一さん。それに、どっちみち、この店には酒は置いてませんよ」
「わざと、酒が無か店を選んだとか? おい、オヤジさん、こっそり、酒を置いとるとか、そぎゃんこつは無かか?」
「無いです」
 義一と呼ばれた男の質問に対して、店主は、あっさりと否定的な答を返した。
「そうですか……じゃあ、飯は……」
 そう聞いたのは、木村と呼ばれた若者だった。
「この『餃子ジャオズ』ちゅう料理は、飯とおかずを兼ねとるんじゃ。この辺りのもんからすると、これと飯を一緒に喰うのは、パンをおかずに飯を喰うようなモノらしい」
「はぁ、そんなもんですか……」
「贅沢ば言うな…大きな声では言えんが、この国では、日本人以外、白い米の飯は食えん」
 義一は、そう言うと、溜息を付いた。
「え……でも、満人や朝鮮人でも、そんな貧乏そうな人ばっかりじゃ無かような…」
「そう言う馬鹿な法律が有るんじゃ……そろそろ行くか……いくらじゃ?」
 小柄な男は、店主に金を渡した。
「失礼ですが、どちらの方?」
 店主は釣りを渡すと、そう聞いた。
「どう言う事じゃ?」
「あなた達の日本語おかしい。中国語も下手。でも朝鮮人でも無さそう。失礼だけど、どちらの国の方?」
 3人は、顔を見合わせた。
「ここに曺君がおったら、日本人じゃと思われるのは、曺君だけかも知れんな……」
 日はとうに沈み、空には星が瞬いていた。
 屋台を出た三人が、飲食店が並ぶ通りを抜けようとした、その途端……。
「うわっ‼」
「なんじゃあ⁉」
「おいおい……」
 通りに車が突入した。
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