2 / 7
第一部:来たるべき種族─The Coming Race─
第一章:大連(二)
しおりを挟む
日本語、朝鮮語、中国語、ロシア語、英語、ドイツ語、そのどれでも無い言葉。それらが、宵闇に包まれつつある大連の屋台街で飛び交っていた。
一口に日本語・朝鮮語・中国語と言っても、様々な地域の方言が入り混じっている。欧米の言葉も、おそらくは、そうなのであろう。
道行く人々の服装も、洋服に和服、協和服に様々な民族衣裳と雑多だった。
薄汚れ、あちこち擦り切れた服を着た老人は、道端に座り込み安いが強い蒸留酒を飲んでいた。時折、その口から漏れるのは、愚痴らしきロシア語だ。
高級そうな正装の白人の中年の男女はドイツ語で話している。
洋装だが、インドか中東の出身らしい、彫りの深い顔立ちのインテリ風の青年。
西欧系の金持ちの召使らしい黒人の少年。
回族の民族衣装を着た二人の男が屋台で食事をしながら話し込んでいるが、一方は、日本人や朝鮮人や漢族に似た顔立ちで、もう一人は、彫りの深い中央アジア系の顔立ちだった。
その近くでは、言い争う男女が居た。男は、毛皮の帽子に、毛皮の襟の付いたコートと、一見、馬賊にも見えぬ事もない服装で、女は、地味だが仕立ての良い和服だったが、いつしか、男の方は信州か甲州の訛りの日本語で、女の方は釜山あたりの訛の朝鮮語で相手を罵り始めた。
人々が集る事で出来る混沌が、モダン過ぎて、どこか無機質な印象を与える都市に命を吹き込んでいた。
この国の建前である「五族協和」は二つの意味で間違っているようだった。
一つは「協和」には程遠い政治体制や社会情勢。もう一つは、そこに住む者達が「五族」どころでは無い事。
欧州では第二次世界大戦が始まっており、万里の長城の南で起きている戦乱も、国民党政府の首都だった南京が陥落して二年近く経っても終る気配は無く、戦争に似て非なる「事変」だった筈のものは、近代国家となって以降の日本が経験した中で、最も長い対外戦争と化していた。
今の情勢に不安や危うさを感じる日本人も少なくなかったが、まだ、日独伊三国同盟は締結されておらず、二年後に日本と米英の間で戦争が始まり、六年後には日本の主要都市の多くが焦土と化すなどと予想出来た者は皆無に等しかった。
昭和十四年十一月。日本の傀儡国家「満洲国」有数の都市にしてほぼ最南端にある大連も、すでに冬の寒気に包まれて、雪が積っていた。
この町に居る日本人の中には「この国の一等国民」として振る舞い、他民族を見下す者達が年々増えていた。もちろん、満洲国の事実上の支配者が日本陸軍の国外派遣部隊の1つである関東軍であり、満洲事変の張本人の1人である日本陸軍将校・石原莞爾でさえ、康徳帝・溥儀の住まいより豪勢と言われる関東軍司令官の役宅を、半ば揶揄気味に、半ば、こんな筈では無かったと云う後悔の念を込めて「泥棒の親分の邸宅」と呼んでいる状況では、そうなるのも時間の問題だった。
だが、その大連の中でも、この通りには日本人よりも、それ以外の人々が多かった。とは言え、この夕暮れ時の、ある一箇所だけは例外のようだった。
「あちちちち……でも、羊の肉ちゅうのも、中々、美味かですねぇ」
清真菜の屋台から聞こえた、その声は九州訛の日本語だった。
声の主は、学生服の上からオーバーを羽織った若い男。この頃の日本人としては大柄な方だ。首も太い。手足も太い。冬着の上からでも、鍛えぬかれた筋肉の塊である事が推察できる。
「ところで酒は無かとですか?」
「ここは、回教徒向けの店じゃ。回教徒には酒は御法度じゃからな」
学生服の男に答えたのは、協和服の上にコートを着た、三十前後の蓬髪の男だった。
小柄だが、服の袖口から覗くのは、指の太い、ゴツゴツとした手。その手は、体の割に大きかった。
「それに、木村君には酒を飲ますな、と辰熊の兄貴から言われとるからな」
小柄な男の口調にも、九州の訛が有った。
「でも、こげん寒かと酒でも飲まんと……」
「木村君に酒ば飲ました事がバレたら、俺が日本に帰った時に辰熊の兄貴に殺されるわ」
「いや、辰熊には俺が飲ませたと言うとけ」
そう言ったのは、蓬髪の男の横に座っていた、四十ほどの協和服の男。
この男にも九州の訛が有り、そして、2人に負けず劣らず鍛え抜かれたと思しき体格だった。
「やめて下さい、義一さん。それに、どっちみち、この店には酒は置いてませんよ」
「わざと、酒が無か店を選んだとか? おい、オヤジさん、こっそり、酒を置いとるとか、そぎゃん事は無かか?」
「無いです」
義一と呼ばれた男の質問に対して、店主は、あっさりと否定的な答を返した。
「そうですか……じゃあ、飯は……」
そう聞いたのは、木村と呼ばれた若者だった。
「この『餃子』ちゅう料理は、飯とおかずを兼ねとるんじゃ。この辺りの者からすると、これと飯を一緒に喰うのは、パンをおかずに飯を喰うようなモノらしい」
「はぁ、そんなもんですか……」
「贅沢ば言うな…大きな声では言えんが、この国では、日本人以外、白い米の飯は食えん」
義一は、そう言うと、溜息を付いた。
「え……でも、満人や朝鮮人でも、そんな貧乏そうな人ばっかりじゃ無かような…」
「そう言う馬鹿な法律が有るんじゃ……そろそろ行くか……いくらじゃ?」
小柄な男は、店主に金を渡した。
「失礼ですが、どちらの方?」
店主は釣りを渡すと、そう聞いた。
「どう言う事じゃ?」
「あなた達の日本語おかしい。中国語も下手。でも朝鮮人でも無さそう。失礼だけど、どちらの国の方?」
3人は、顔を見合わせた。
「ここに曺君がおったら、日本人じゃと思われるのは、曺君だけかも知れんな……」
日はとうに沈み、空には星が瞬いていた。
屋台を出た三人が、飲食店が並ぶ通りを抜けようとした、その途端……。
「うわっ‼」
「なんじゃあ⁉」
「おいおい……」
通りに車が突入した。
一口に日本語・朝鮮語・中国語と言っても、様々な地域の方言が入り混じっている。欧米の言葉も、おそらくは、そうなのであろう。
道行く人々の服装も、洋服に和服、協和服に様々な民族衣裳と雑多だった。
薄汚れ、あちこち擦り切れた服を着た老人は、道端に座り込み安いが強い蒸留酒を飲んでいた。時折、その口から漏れるのは、愚痴らしきロシア語だ。
高級そうな正装の白人の中年の男女はドイツ語で話している。
洋装だが、インドか中東の出身らしい、彫りの深い顔立ちのインテリ風の青年。
西欧系の金持ちの召使らしい黒人の少年。
回族の民族衣装を着た二人の男が屋台で食事をしながら話し込んでいるが、一方は、日本人や朝鮮人や漢族に似た顔立ちで、もう一人は、彫りの深い中央アジア系の顔立ちだった。
その近くでは、言い争う男女が居た。男は、毛皮の帽子に、毛皮の襟の付いたコートと、一見、馬賊にも見えぬ事もない服装で、女は、地味だが仕立ての良い和服だったが、いつしか、男の方は信州か甲州の訛りの日本語で、女の方は釜山あたりの訛の朝鮮語で相手を罵り始めた。
人々が集る事で出来る混沌が、モダン過ぎて、どこか無機質な印象を与える都市に命を吹き込んでいた。
この国の建前である「五族協和」は二つの意味で間違っているようだった。
一つは「協和」には程遠い政治体制や社会情勢。もう一つは、そこに住む者達が「五族」どころでは無い事。
欧州では第二次世界大戦が始まっており、万里の長城の南で起きている戦乱も、国民党政府の首都だった南京が陥落して二年近く経っても終る気配は無く、戦争に似て非なる「事変」だった筈のものは、近代国家となって以降の日本が経験した中で、最も長い対外戦争と化していた。
今の情勢に不安や危うさを感じる日本人も少なくなかったが、まだ、日独伊三国同盟は締結されておらず、二年後に日本と米英の間で戦争が始まり、六年後には日本の主要都市の多くが焦土と化すなどと予想出来た者は皆無に等しかった。
昭和十四年十一月。日本の傀儡国家「満洲国」有数の都市にしてほぼ最南端にある大連も、すでに冬の寒気に包まれて、雪が積っていた。
この町に居る日本人の中には「この国の一等国民」として振る舞い、他民族を見下す者達が年々増えていた。もちろん、満洲国の事実上の支配者が日本陸軍の国外派遣部隊の1つである関東軍であり、満洲事変の張本人の1人である日本陸軍将校・石原莞爾でさえ、康徳帝・溥儀の住まいより豪勢と言われる関東軍司令官の役宅を、半ば揶揄気味に、半ば、こんな筈では無かったと云う後悔の念を込めて「泥棒の親分の邸宅」と呼んでいる状況では、そうなるのも時間の問題だった。
だが、その大連の中でも、この通りには日本人よりも、それ以外の人々が多かった。とは言え、この夕暮れ時の、ある一箇所だけは例外のようだった。
「あちちちち……でも、羊の肉ちゅうのも、中々、美味かですねぇ」
清真菜の屋台から聞こえた、その声は九州訛の日本語だった。
声の主は、学生服の上からオーバーを羽織った若い男。この頃の日本人としては大柄な方だ。首も太い。手足も太い。冬着の上からでも、鍛えぬかれた筋肉の塊である事が推察できる。
「ところで酒は無かとですか?」
「ここは、回教徒向けの店じゃ。回教徒には酒は御法度じゃからな」
学生服の男に答えたのは、協和服の上にコートを着た、三十前後の蓬髪の男だった。
小柄だが、服の袖口から覗くのは、指の太い、ゴツゴツとした手。その手は、体の割に大きかった。
「それに、木村君には酒を飲ますな、と辰熊の兄貴から言われとるからな」
小柄な男の口調にも、九州の訛が有った。
「でも、こげん寒かと酒でも飲まんと……」
「木村君に酒ば飲ました事がバレたら、俺が日本に帰った時に辰熊の兄貴に殺されるわ」
「いや、辰熊には俺が飲ませたと言うとけ」
そう言ったのは、蓬髪の男の横に座っていた、四十ほどの協和服の男。
この男にも九州の訛が有り、そして、2人に負けず劣らず鍛え抜かれたと思しき体格だった。
「やめて下さい、義一さん。それに、どっちみち、この店には酒は置いてませんよ」
「わざと、酒が無か店を選んだとか? おい、オヤジさん、こっそり、酒を置いとるとか、そぎゃん事は無かか?」
「無いです」
義一と呼ばれた男の質問に対して、店主は、あっさりと否定的な答を返した。
「そうですか……じゃあ、飯は……」
そう聞いたのは、木村と呼ばれた若者だった。
「この『餃子』ちゅう料理は、飯とおかずを兼ねとるんじゃ。この辺りの者からすると、これと飯を一緒に喰うのは、パンをおかずに飯を喰うようなモノらしい」
「はぁ、そんなもんですか……」
「贅沢ば言うな…大きな声では言えんが、この国では、日本人以外、白い米の飯は食えん」
義一は、そう言うと、溜息を付いた。
「え……でも、満人や朝鮮人でも、そんな貧乏そうな人ばっかりじゃ無かような…」
「そう言う馬鹿な法律が有るんじゃ……そろそろ行くか……いくらじゃ?」
小柄な男は、店主に金を渡した。
「失礼ですが、どちらの方?」
店主は釣りを渡すと、そう聞いた。
「どう言う事じゃ?」
「あなた達の日本語おかしい。中国語も下手。でも朝鮮人でも無さそう。失礼だけど、どちらの国の方?」
3人は、顔を見合わせた。
「ここに曺君がおったら、日本人じゃと思われるのは、曺君だけかも知れんな……」
日はとうに沈み、空には星が瞬いていた。
屋台を出た三人が、飲食店が並ぶ通りを抜けようとした、その途端……。
「うわっ‼」
「なんじゃあ⁉」
「おいおい……」
通りに車が突入した。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
秘書と社長の秘密
廣瀬純七
大衆娯楽
社内の調査のため、社長・高橋健一はこっそり秘書・木村由紀と不思議なアプリで入れ替わることに。
突然“社長役”を任された由紀と、自由に動ける立場を手に入れた高橋。
ふたりの秘密の入れ替わり作戦は、どの様な結末になるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる