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レコードを買った帰り道、僕はなぜか井の頭線に乗っていた。
本当は新宿から中央線で帰るつもりだったのに、気づけば吉祥寺行きの電車に揺られていた。しかも手にはさっきのレコードが、しっかりと抱えられていた。
吉祥寺には、理央と初めて出会った喫茶店があった。名前は「フィルム」。今でもあるのかどうか知らない。あの店は、外から見るとただの古いレンガ造りのビルの地下にあって、看板もなかった。初めて行ったとき、僕は本当にそこに喫茶店があるのか疑って、入り口の前で五分くらい立ち尽くしていた。
今思えば、あの時からすでに、彼女はどこか"向こう側"の人間だったのかもしれない。
車内はガラガラで、窓の外には曇ったビルの屋根と、かろうじて見える秋の空が広がっていた。空は少し黄ばんでいて、何かがこれから起こる前兆のようにも思えた。列車が急に減速し、誰かが僕の前に座った気配がした。
ふと目を上げると、そこにひとりの女性が座っていた。髪の長さも顔立ちも理央とは違う。でも、なぜか彼女から理央の気配がした。僕はそれを言葉にできなかった。ただ、懐かしい匂いを嗅いだ時のように、胸の奥がわずかに疼いた。
彼女は手に文庫本を持っていた。表紙にはタイトルも著者名もなかった。ただ真っ白な表紙に、小さく「3:00 PM」とだけ書かれていた。
僕は無意識に話しかけた。
「それ、どこで買ったんですか?」
彼女は顔を上げて、少し驚いたような顔をした。
「この本のことですか?」
「はい。」
「これは、借りたんです。あのレコード店で。」
僕は息をのんだ。
「……午後三時に?」
彼女は静かにうなずいた。そして少し考えたあと、こう言った。
「あなた、もしかして──理央さんのことを知ってますか?」
僕は思わず立ち上がった。電車はちょうど明大前の駅に差しかかっていた。
「どうして、その名前を?」
彼女は答えなかった。ただ静かに立ち上がり、レコードを見るように言った。
「そのレコード、裏面のラベルを見ましたか?」
僕は慌ててレコードの裏を見る。確かに先ほどは見ていなかった。ジャケットをそっと開けると、裏面のラベルには、手書きの文字があった。
「理央は、音の中にいる」
その瞬間、電車が停車し、ドアが開いた。女は静かに電車を降りた。僕もすぐに後を追ったが、もう彼女の姿はどこにもなかった。
改札を抜けても、通りを見渡しても、どこにも。まるで空気の中に溶けたように、消えてしまった。
第二章:左手のレコード、右手の静寂
その夜、僕はレコードをかけてみることにした。
久しぶりにターンテーブルの埃を払い、針を慎重に落とす。
音が流れ出した瞬間、部屋の空気がすっと変わった。温度が2、3度下がったように感じた。ビル・エヴァンスのはずなのに、聞こえてきたのは知らない曲だった。静かで、まるで夢の中の街を歩いているようなピアノの旋律。
それは、理央がたまに鼻歌で歌っていたメロディによく似ていた。
僕は息を潜めるようにして、音に耳を傾けた。
──その時だった。
スピーカーの奥から、かすかに、人の声が聞こえた。
「……ひさしぶり、ね」
理央の声だった。
僕は立ち上がってスピーカーに近づいた。
「理央? 君なのか?」
しかし、返事はなかった。音は静かに、旋律だけを残して流れ続けた。
その夜、僕は一睡もできなかった。レコードは一度きりで止まり、再生するたびに違う曲が流れる。二度と同じ曲は流れなかった。
そして、どの曲にも、理央の気配がかすかに混じっていた。
本当は新宿から中央線で帰るつもりだったのに、気づけば吉祥寺行きの電車に揺られていた。しかも手にはさっきのレコードが、しっかりと抱えられていた。
吉祥寺には、理央と初めて出会った喫茶店があった。名前は「フィルム」。今でもあるのかどうか知らない。あの店は、外から見るとただの古いレンガ造りのビルの地下にあって、看板もなかった。初めて行ったとき、僕は本当にそこに喫茶店があるのか疑って、入り口の前で五分くらい立ち尽くしていた。
今思えば、あの時からすでに、彼女はどこか"向こう側"の人間だったのかもしれない。
車内はガラガラで、窓の外には曇ったビルの屋根と、かろうじて見える秋の空が広がっていた。空は少し黄ばんでいて、何かがこれから起こる前兆のようにも思えた。列車が急に減速し、誰かが僕の前に座った気配がした。
ふと目を上げると、そこにひとりの女性が座っていた。髪の長さも顔立ちも理央とは違う。でも、なぜか彼女から理央の気配がした。僕はそれを言葉にできなかった。ただ、懐かしい匂いを嗅いだ時のように、胸の奥がわずかに疼いた。
彼女は手に文庫本を持っていた。表紙にはタイトルも著者名もなかった。ただ真っ白な表紙に、小さく「3:00 PM」とだけ書かれていた。
僕は無意識に話しかけた。
「それ、どこで買ったんですか?」
彼女は顔を上げて、少し驚いたような顔をした。
「この本のことですか?」
「はい。」
「これは、借りたんです。あのレコード店で。」
僕は息をのんだ。
「……午後三時に?」
彼女は静かにうなずいた。そして少し考えたあと、こう言った。
「あなた、もしかして──理央さんのことを知ってますか?」
僕は思わず立ち上がった。電車はちょうど明大前の駅に差しかかっていた。
「どうして、その名前を?」
彼女は答えなかった。ただ静かに立ち上がり、レコードを見るように言った。
「そのレコード、裏面のラベルを見ましたか?」
僕は慌ててレコードの裏を見る。確かに先ほどは見ていなかった。ジャケットをそっと開けると、裏面のラベルには、手書きの文字があった。
「理央は、音の中にいる」
その瞬間、電車が停車し、ドアが開いた。女は静かに電車を降りた。僕もすぐに後を追ったが、もう彼女の姿はどこにもなかった。
改札を抜けても、通りを見渡しても、どこにも。まるで空気の中に溶けたように、消えてしまった。
第二章:左手のレコード、右手の静寂
その夜、僕はレコードをかけてみることにした。
久しぶりにターンテーブルの埃を払い、針を慎重に落とす。
音が流れ出した瞬間、部屋の空気がすっと変わった。温度が2、3度下がったように感じた。ビル・エヴァンスのはずなのに、聞こえてきたのは知らない曲だった。静かで、まるで夢の中の街を歩いているようなピアノの旋律。
それは、理央がたまに鼻歌で歌っていたメロディによく似ていた。
僕は息を潜めるようにして、音に耳を傾けた。
──その時だった。
スピーカーの奥から、かすかに、人の声が聞こえた。
「……ひさしぶり、ね」
理央の声だった。
僕は立ち上がってスピーカーに近づいた。
「理央? 君なのか?」
しかし、返事はなかった。音は静かに、旋律だけを残して流れ続けた。
その夜、僕は一睡もできなかった。レコードは一度きりで止まり、再生するたびに違う曲が流れる。二度と同じ曲は流れなかった。
そして、どの曲にも、理央の気配がかすかに混じっていた。
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