星のない惑星で珈琲を

ドルドレオン

文字の大きさ
3 / 10

しおりを挟む
スーツケースには、名前もラベルもなかった。だが僕には、それが確かに「僕のもの」だと、どこかで理解していた。記憶の中にあるべきで、けれど一度も目にしたことがないような、そんな不思議な感覚。
 ケースを開けると、中には服が三着と、革表紙のノートが一冊、そして銀色に光る金属の円盤が入っていた。それはCDでもなく、何かの部品のようでもあり、まるで儀式用の道具のようでもあった。

 ノートの表紙には、手書きでこう記されていた。

「行き先は、選べない。ただし、戻る理由は選べる。」

 僕はそれを読んで、ノートを閉じた。そうしてリビングのソファに深く腰掛け、しばらく天井を眺めた。するとふいに、耳の奥にかすかな音がした。
 まるで遠くの電車が、夢の中を通過していくような音だった。低く、長く、振動のような音。

 立ち上がると、空気が変わっていた。部屋の輪郭がどこか曖昧になり、壁の色がほんの少しだけ青味を帯びていた。時計は止まっていた。針は、あの時と同じ「3:33」を指したままだった。
 僕はコートを羽織り、スーツケースの取っ手を引いて玄関へ向かった。靴を履くとき、ふと、誰かに見送られているような感覚があった。もちろん、そこには誰もいなかったけれど。

 外に出ると、夜の街は奇妙な静けさに包まれていた。車の音も、人の声もなかった。ただ月のない空の下に、淡く橙色の街灯が等間隔に並んでいて、まるでどこか別の惑星への滑走路のように続いていた。
 歩き始めると、地面がわずかに揺れていることに気づいた。それは恐怖を感じるようなものではなく、むしろ、何か大きなものがゆっくりと目を覚ましていくような、深い、優しい振動だった。

 やがて、一軒の古びたジャズバーの前で足が止まった。
 看板には「No Stars, No Sugar」とだけ書かれていた。
 扉を開けると、カウンターの奥に彼女がいた。電話の、あの声の主だった。

「遅かったわね」と彼女は言った。「でも、ちょうどいい時間よ。」

 カウンターには、すでにコーヒーが二杯、並べられていた。
 僕は黙って席に着き、カップを手に取った。湯気がゆっくりと立ち上り、彼女の指先をやわらかく撫でた。
 そしてそのとき、扉の外の景色が変わった。
 街は消えていた。ビルも、道路も、星もない。ただ、深い青の空と、砂のように静かな平原が広がっていた。

「ここからが旅の始まりよ」と彼女は囁いた。「星のない惑星へようこそ。」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「地味ブス」と捨てられた私、文化祭の大型スクリーンで王子様の裏の顔を全校生に配信します

スカッと文庫
恋愛
「お前みたいな地味女、引き立て役にもならないんだよ」 眼鏡にボサボサ頭の特待生・澪(みお)は、全校生徒が見守る中、恋人だった学園の王子・ハルトから冷酷に捨てられた。 隣には、可憐な微笑みを浮かべる転校生・エマ。 エマの自作自演により「いじめの犯人」という濡れ衣まで着せられ、学園中から蔑まれる澪。 しかし、彼女を嘲笑う者たちはまだ知らない。 彼女が眼鏡の奥に、誰もが平伏す「真実の美貌」と、学園さえも支配できる「最強の背景」を隠していることを――。 「……ねぇ、文化祭、最高のステージにしてあげる」 裏切りへのカウントダウンが今、始まる。 スクリーンの裏側を暴き、傲慢な王子と偽りのヒロインを奈落へ突き落とす、痛快・学園下剋上ファンタジー!

ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」 笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。 夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。 幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。 王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。

貴方の側にずっと

麻実
恋愛
夫の不倫をきっかけに、妻は自分の気持ちと向き合うことになる。 本当に好きな人に逢えた時・・・

~春の国~片足の不自由な王妃様

クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。 春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。 街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。 それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。 しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。 花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??

なくなって気付く愛

戒月冷音
恋愛
生まれて死ぬまで…意味があるのかしら?

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

降っても晴れても

凛子
恋愛
もう、限界なんです……

石ころの結婚

有沢楓花
恋愛
 ――政略結婚。  ぼんやりものでその辺の石ころを自認する、子爵令嬢ハリエットの婚約者・ルークは、第三王子の婚約者である伯爵令嬢・イーディスを見つめ続けていた。  あろうことか婚約式で恋に落ちたハリエットは、彼の視界に入るためにとイーディスの取り巻きになる。  しかしそこにあったのは、一見仲睦まじく見える第三王子とイーディス、その義弟からのイーディスへの片思いと、大人の事情に振り回されるばかりの恋だった。  ハリエットは自分の想いは秘めたまま、ルークを応援しようと決めたが……。  この作品は他サイトにも掲載しています。

処理中です...