星のない惑星で珈琲を

ドルドレオン

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スーツケースには、名前もラベルもなかった。だが僕には、それが確かに「僕のもの」だと、どこかで理解していた。記憶の中にあるべきで、けれど一度も目にしたことがないような、そんな不思議な感覚。
 ケースを開けると、中には服が三着と、革表紙のノートが一冊、そして銀色に光る金属の円盤が入っていた。それはCDでもなく、何かの部品のようでもあり、まるで儀式用の道具のようでもあった。

 ノートの表紙には、手書きでこう記されていた。

「行き先は、選べない。ただし、戻る理由は選べる。」

 僕はそれを読んで、ノートを閉じた。そうしてリビングのソファに深く腰掛け、しばらく天井を眺めた。するとふいに、耳の奥にかすかな音がした。
 まるで遠くの電車が、夢の中を通過していくような音だった。低く、長く、振動のような音。

 立ち上がると、空気が変わっていた。部屋の輪郭がどこか曖昧になり、壁の色がほんの少しだけ青味を帯びていた。時計は止まっていた。針は、あの時と同じ「3:33」を指したままだった。
 僕はコートを羽織り、スーツケースの取っ手を引いて玄関へ向かった。靴を履くとき、ふと、誰かに見送られているような感覚があった。もちろん、そこには誰もいなかったけれど。

 外に出ると、夜の街は奇妙な静けさに包まれていた。車の音も、人の声もなかった。ただ月のない空の下に、淡く橙色の街灯が等間隔に並んでいて、まるでどこか別の惑星への滑走路のように続いていた。
 歩き始めると、地面がわずかに揺れていることに気づいた。それは恐怖を感じるようなものではなく、むしろ、何か大きなものがゆっくりと目を覚ましていくような、深い、優しい振動だった。

 やがて、一軒の古びたジャズバーの前で足が止まった。
 看板には「No Stars, No Sugar」とだけ書かれていた。
 扉を開けると、カウンターの奥に彼女がいた。電話の、あの声の主だった。

「遅かったわね」と彼女は言った。「でも、ちょうどいい時間よ。」

 カウンターには、すでにコーヒーが二杯、並べられていた。
 僕は黙って席に着き、カップを手に取った。湯気がゆっくりと立ち上り、彼女の指先をやわらかく撫でた。
 そしてそのとき、扉の外の景色が変わった。
 街は消えていた。ビルも、道路も、星もない。ただ、深い青の空と、砂のように静かな平原が広がっていた。

「ここからが旅の始まりよ」と彼女は囁いた。「星のない惑星へようこそ。」
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