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その夜、僕は眠らなかった。
眠る必要がなかったのかもしれない。星のない惑星では、時間が呼吸のように淡くなっていた。秒針のない時計の中で、僕はただ目を開けて、耳を澄ませていた。音のない世界には、音以外の“何か”が流れていた。それはたとえば、光のまばたき。空気の奥に潜む記憶の声。かすかに触れる思考の揺らぎ。
彼女が静かに言った。
「扉は、いつも自分の中にある。でも、それを“開けてしまう”のは、忘れた頃なのよ。」
僕はポケットの中の小さな鍵を取り出した。金属の冷たさが、なぜか心地よかった。
彼女は頷き、そっと立ち上がった。そして一言だけ、こう言った。
「ついてきて。」
外に出ると、世界はすっかり変わっていた。
先ほどまでの白い砂の平原は消え、そこには無数の扉が立ち並んでいた。まるでビルの谷間に生まれた図書館のように、静かで、整然としていて、夢の中のようだった。
ひとつひとつの扉は、すべて違った形をしていた。木製のもの、鉄のもの、半透明のガラスのもの。
でも、どれも取っ手はなく、鍵穴もなかった。
唯一、右から三番目の黒い扉だけが、ぼんやりと光を放ち、小さな鍵穴を持っていた。
僕はそっと、その扉に鍵を差し込んだ。
するとまるで水の中に沈んでいくように、空間が静かに歪み、音も光もひとつに溶けた。
扉の向こうは、“部屋”だった。
ただの、六畳ほどの狭い部屋。壁には本棚があり、木の机があり、窓があった。
見覚えがあった。
それは、僕が十七歳のころに住んでいたアパートの一室だった。すっかり忘れていた部屋。すっかり忘れていた自分。
机の上には、一通の手紙が置かれていた。差出人の名前はなかった。けれど、封筒の裏に、見覚えのある小さな文字でこう書かれていた。
「ここから先は、君自身の物語だ。」
僕は椅子に座り、ゆっくりとその手紙を開いた。
中には一枚の紙だけが入っていた。
「観測者とは、過去と未来のあいだに立つ影だ。
けれどその影が立つには、光と、誰かの“視線”が必要だ。
君が見てきた夢は、誰かが見失った現実だ。
君が歩くこの惑星は、記憶を失った魂たちの“間奏”だ。
そして君が今、再びここにいるということは、
世界が、君の目を通して、自分自身をもう一度見ようとしている。」
手紙を読んでいるあいだ、窓の外に風が吹いた。
その風には懐かしいにおいがあった。雨の匂い。初めてキスをした夜の匂い。冬の布団の中の、言葉にならない安心。
僕は立ち上がり、もう一度窓を開けた。
その瞬間、星のない空に、一つだけ、光が生まれた。
それは星ではなかった。
それは、「見ている誰かの目」だった。
眠る必要がなかったのかもしれない。星のない惑星では、時間が呼吸のように淡くなっていた。秒針のない時計の中で、僕はただ目を開けて、耳を澄ませていた。音のない世界には、音以外の“何か”が流れていた。それはたとえば、光のまばたき。空気の奥に潜む記憶の声。かすかに触れる思考の揺らぎ。
彼女が静かに言った。
「扉は、いつも自分の中にある。でも、それを“開けてしまう”のは、忘れた頃なのよ。」
僕はポケットの中の小さな鍵を取り出した。金属の冷たさが、なぜか心地よかった。
彼女は頷き、そっと立ち上がった。そして一言だけ、こう言った。
「ついてきて。」
外に出ると、世界はすっかり変わっていた。
先ほどまでの白い砂の平原は消え、そこには無数の扉が立ち並んでいた。まるでビルの谷間に生まれた図書館のように、静かで、整然としていて、夢の中のようだった。
ひとつひとつの扉は、すべて違った形をしていた。木製のもの、鉄のもの、半透明のガラスのもの。
でも、どれも取っ手はなく、鍵穴もなかった。
唯一、右から三番目の黒い扉だけが、ぼんやりと光を放ち、小さな鍵穴を持っていた。
僕はそっと、その扉に鍵を差し込んだ。
するとまるで水の中に沈んでいくように、空間が静かに歪み、音も光もひとつに溶けた。
扉の向こうは、“部屋”だった。
ただの、六畳ほどの狭い部屋。壁には本棚があり、木の机があり、窓があった。
見覚えがあった。
それは、僕が十七歳のころに住んでいたアパートの一室だった。すっかり忘れていた部屋。すっかり忘れていた自分。
机の上には、一通の手紙が置かれていた。差出人の名前はなかった。けれど、封筒の裏に、見覚えのある小さな文字でこう書かれていた。
「ここから先は、君自身の物語だ。」
僕は椅子に座り、ゆっくりとその手紙を開いた。
中には一枚の紙だけが入っていた。
「観測者とは、過去と未来のあいだに立つ影だ。
けれどその影が立つには、光と、誰かの“視線”が必要だ。
君が見てきた夢は、誰かが見失った現実だ。
君が歩くこの惑星は、記憶を失った魂たちの“間奏”だ。
そして君が今、再びここにいるということは、
世界が、君の目を通して、自分自身をもう一度見ようとしている。」
手紙を読んでいるあいだ、窓の外に風が吹いた。
その風には懐かしいにおいがあった。雨の匂い。初めてキスをした夜の匂い。冬の布団の中の、言葉にならない安心。
僕は立ち上がり、もう一度窓を開けた。
その瞬間、星のない空に、一つだけ、光が生まれた。
それは星ではなかった。
それは、「見ている誰かの目」だった。
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