夜のピアノと象の夢

ドルドレオン

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封筒は少しだけ黄ばんでいて、長い間この場所に置かれていたことを物語っていた。僕はゆっくりとそれを開け、中の便箋を取り出した。薄く、さらさらとした紙。
文字は細く整っていて、どこか音楽の譜面のようなリズムを感じさせた。

親愛なる"あなた"へ

この手紙を読む頃、あなたはもうあの夢を見たはず。象の名前が「ハンナ」だということも、知っているでしょう。

本当は、もっと早くに伝えたかった。でも、夢でしか出会えない人間もいるのです。言葉にできない想いもあるし、伝えてはいけない真実もある。

あなたはきっと忘れている。でもそれでいいと思っていた。
でも、象は忘れない。

あの夏の日、ピアノの前であなたが私に言った言葉を、私は今でも覚えている。

「いつか忘れてしまっても、夢の中で会おう」

そう言って、あなたはこの鍵をくれたの。

忘れないで。私は、あなたの夢の中で生きてる。

ハンナ

僕はしばらくその場から動けなかった。
記憶の深い層が、じわじわと溶け出すような感覚があった。
あの部屋、あのピアノ、あの言葉──。確かにあったはずのものが、記憶という海の底でずっと沈んでいた。

子供の頃、僕には想像上の友だちがいた。
両親の仲が悪くて、家の中がいつも冷たかった時期、誰にも言えずに心を閉ざしていた。
その頃、屋上の小部屋で、僕はひとりでよくピアノを弾いた。
そして──いつからか、そこに「ハンナ」がいた。

白いワンピースを着た女の子。
とても静かで、話すときはいつも目を見てくる。
彼女は僕の弾く曲に耳を傾け、時々、夢の話をした。
「象に乗って空を飛ぶ夢を見たの」
「草原でピアノが降ってくる夢を見たの」

今思えば、彼女が本当に人間だったのか、それとも僕の心が作り出したものだったのかはわからない。

でもたしかに、「鍵を渡した」記憶は、今、はっきりと蘇っている。

「いつか忘れてしまっても、夢の中で会おう」

それは、現実から逃げようとしていた僕が、唯一信じた約束だった。

僕はピアノの前に座った。
蓋を開け、鍵盤に指を置く。
音は少し狂っていたけれど、確かに響いた。

『My Funny Valentine』を、ゆっくりと弾き始める。
あの夜、ジャズバーで彼女が弾いていた曲だ。

窓の外で、雨が静かに降り続いていた。

そしてその夜。
僕はまた、夢を見た。

草原の中、ハンナが象の背中に座って、こちらを見ていた。

今度は、何も言わなかった。ただ、静かに微笑んでいた。
象の足元には、小さな鍵がひとつ、落ちていた。
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