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第七話
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王宮から戻った翌日。
孤児院の門前に、一台の馬車が止まった。
扉が開き、ゆったりと降り立ったのは、黒い燕尾服に身を包んだ青年だった。
長身で背筋が真っ直ぐに伸び、銀縁の眼鏡越しに静かな眼差しを向けてくる。
その動作には無駄がなく、すべてが洗練されていた。
「本日より、ルミナ様のお世話と教育を任じられました、ユリウス=ラインベルクと申します」
澄んだ低い声が、門前の空気を引き締める。
ルミナは思わず背筋を正した。
「……おせわときょういく、ですか?」
「はい。陛下のご意向により、成人まで孤児院で過ごすことは許されましたが、王宮としても最低限の学問と礼儀作法は必要とのこと。つきましては、私が家庭教師と使用人の役を兼ねます。お気軽にユリウスとお呼びください」
丁寧な言葉の奥に、揺らぎのない芯が感じられた。
その眼差しは、単なる従者のものではない。おそらく、王宮内でも相当な信頼を得ている人物だろう。
ノエルは笑みを浮かべ、「頼りにしているよ」と短く告げた。
こうしてルミナとユリウスの、少し不思議な日々が始まった。
初めての授業は、孤児院の小さな応接室で行われた。
ユリウスは革の鞄から数冊の本を取り出し、その中の一冊を机に置く。
分厚い背表紙には、金の箔押しで古めかしい文字が刻まれていた。
ページは黄ばみ、紙の端がかすかに欠けている。
「これは、この国の成り立ちと……数百年前に存在した“聖女”の記録です」
ルミナは思わず身を乗り出した。
王宮へ向かう馬車の中でノエルが、〈聖女〉と口にしたことを思い出す。
だが、その言葉の意味はまだ、はっきりと知らないままだった。
ユリウスはページを開き、淡々と読み上げる。
「――蒼翠(そうすい)の聖女、セレフィナ。彼女は辺境の小さな村に生まれた、ただの娘だった。しかし、干ばつと飢饉に見舞われ、人々が絶望に沈む中、彼女ひとりが神に祈り続けた」
ルミナの脳裏に、ひび割れた大地と枯れた畑が浮かんだ。
乾いた風が吹き抜け、村人たちは俯き、空は雲ひとつなく焼けついている。
「やがて、空に雨雲が現れたという。雨は降り、大地は潤い、枯れた畑には再び作物が実った。川が戻り、家畜は息を吹き返し、人々の心に希望が芽生えた」
淡々とした声なのに、その情景は鮮やかに迫ってくる。
雨粒が土を打つ音、芽吹く緑の香り、子どもたちの笑い声――ルミナはまるで、その場にいるような気がした。
「記録にはこうあります。『彼女が歩いた地には草が芽吹き、彼女の祈りは天に届き、死地を癒した』」
ルミナは息を呑んだ。
その言葉は、物語というより事実のように響いた。
「やがて奇跡の連鎖は国の耳に届き、当時の王が彼女を“聖女”と宣言した。以後、セレフィナは祀られ、多くの人々が祈りを捧げる対象となりました」
ユリウスはそこで本から視線を外し、わずかに間を置いた。
「……しかし、彼女のその後は、断片的な記録しか残っていません」
「どうして……?」
ルミナの声は自然と小さくなった。
ユリウスはゆっくりと本を閉じる。
「信仰と支配――そのはざまで、聖女の生涯は静かに閉じられた、とだけ記されています」
静かな沈黙が流れた。
古い紙の匂いが、部屋の中にやけに濃く感じられる。
その後、ユリウスは淡々と授業を続けた。
この国が幾つもの小国の連合から始まったこと、王家が血筋と武力だけでなく「守護者」として人々の信頼を得てきたこと。
聖女は歴史上、ただ一人――セレフィナのみであること。
「定義として、聖女とは“癒やしと浄化の力を持ち、神の加護を宿す存在”とされています」
「いやしと……じょうか……」
ルミナは自分の掌を見つめた。
ユリウスは、それ以上を語ろうとはしなかった。
あくまでこれは歴史の授業であり、ルミナ自身の力を断定する時間ではない――そういう空気があった。
授業が終わると、ユリウスは礼儀正しく頭を下げた。
「本日はここまでです。明日は王国の主要都市と文化について学びましょう」
ルミナは頷いた。
机の上に残された古い本を、もう一度そっと撫でる。
ページの奥に、雨を呼んだ少女が確かに生きている気がしてならなかった。
そして、ふと胸の奥で思う。
(……もしわたしがその力を持っていたら、どうするんだろう)
答えはまだ、どこにもなかった。
その夜、ルミナは不思議な夢を見た。
まぶしい光に包まれ、ルミナは目を開けた。
そこは、どこまでも広がる金色の空。地も空もなく、ただ光だけが満ちる世界だった。
「……ここ、どこ……?」
小さな声が宙に溶けた瞬間、低く響く声が降ってきた。
「やっと会えたな、ちび。」
声の方を向くと、背の高い男が立っていた。
髪は炎のような赤金色、瞳は夜の闇を閉じ込めたような漆黒。
肩に無造作に布を引っかけ、裸足のまま、圧倒的な存在感でそこにいる。
「……だれ?」
ルミナが首を傾げると、男は鼻で笑った。
「神様だよ。おまえのな。」
唐突すぎる答えに、ルミナは首をかしげる。
しかし相手はそんな反応も気にせず、ふっと笑った。
男はゆっくりとルミナに歩み寄り、しゃがみこんで覗き込む。
その視線は、目ではなく胸の奥――魂そのものを見透かすようだった。
「やっぱり、いいな……おまえの魂。前の世界でもそうだった。」
「……まえの、せかい?」
「ああ。おまえ、前の人生も、その前も、その前も……くだらねぇ欲も持たず、最後まで他人を思って生きた。
そんな魂、めったにねぇ。まっすぐで、どこまでも綺麗だ。」
ルミナはきょとんと瞬きをする。意味はよく分からないが、褒められていることだけは感じ取った。
男は、にやりと笑う。
「でな……俺は考えた。
“善人であろうとした魂に、神の力を与えたらどうなるのか”ってな。」
「……かみの、ちから?」
「おう。もう持ってんだよ、生まれたときからな。おまえにしか扱えねぇ、特別な力だ。」
ルミナは目を瞬かせる。何のことか分からないが、胸の奥がじんわり温かくなる。
「おまえはこのまま善人でいられるのか。
それとも、欲望に呑まれて変わっちまうのか。
――それを、俺は見てみたい。」
まるで悪戯を企む子供のような笑みだった。
けれど、その瞳にはどこか本気の光も宿っている。
「忘れんな、ちび。おまえは俺が選んだんだ。
俺様は、ちゃんと見てる。
途中で死なれちゃ困るからな。ちゃんと守ってやるよ」
男は立ち上がり、背を向ける。
その肩越しに、ちらりと振り返って言った。
「なあ、ルミナ。俺を退屈させんなよ」
金色の光が遠のき、意識が引き戻されていく。
目を開けると、見慣れた天井。夢のはずなのに、胸の奥にはまだ温もりが残っていた。
孤児院の門前に、一台の馬車が止まった。
扉が開き、ゆったりと降り立ったのは、黒い燕尾服に身を包んだ青年だった。
長身で背筋が真っ直ぐに伸び、銀縁の眼鏡越しに静かな眼差しを向けてくる。
その動作には無駄がなく、すべてが洗練されていた。
「本日より、ルミナ様のお世話と教育を任じられました、ユリウス=ラインベルクと申します」
澄んだ低い声が、門前の空気を引き締める。
ルミナは思わず背筋を正した。
「……おせわときょういく、ですか?」
「はい。陛下のご意向により、成人まで孤児院で過ごすことは許されましたが、王宮としても最低限の学問と礼儀作法は必要とのこと。つきましては、私が家庭教師と使用人の役を兼ねます。お気軽にユリウスとお呼びください」
丁寧な言葉の奥に、揺らぎのない芯が感じられた。
その眼差しは、単なる従者のものではない。おそらく、王宮内でも相当な信頼を得ている人物だろう。
ノエルは笑みを浮かべ、「頼りにしているよ」と短く告げた。
こうしてルミナとユリウスの、少し不思議な日々が始まった。
初めての授業は、孤児院の小さな応接室で行われた。
ユリウスは革の鞄から数冊の本を取り出し、その中の一冊を机に置く。
分厚い背表紙には、金の箔押しで古めかしい文字が刻まれていた。
ページは黄ばみ、紙の端がかすかに欠けている。
「これは、この国の成り立ちと……数百年前に存在した“聖女”の記録です」
ルミナは思わず身を乗り出した。
王宮へ向かう馬車の中でノエルが、〈聖女〉と口にしたことを思い出す。
だが、その言葉の意味はまだ、はっきりと知らないままだった。
ユリウスはページを開き、淡々と読み上げる。
「――蒼翠(そうすい)の聖女、セレフィナ。彼女は辺境の小さな村に生まれた、ただの娘だった。しかし、干ばつと飢饉に見舞われ、人々が絶望に沈む中、彼女ひとりが神に祈り続けた」
ルミナの脳裏に、ひび割れた大地と枯れた畑が浮かんだ。
乾いた風が吹き抜け、村人たちは俯き、空は雲ひとつなく焼けついている。
「やがて、空に雨雲が現れたという。雨は降り、大地は潤い、枯れた畑には再び作物が実った。川が戻り、家畜は息を吹き返し、人々の心に希望が芽生えた」
淡々とした声なのに、その情景は鮮やかに迫ってくる。
雨粒が土を打つ音、芽吹く緑の香り、子どもたちの笑い声――ルミナはまるで、その場にいるような気がした。
「記録にはこうあります。『彼女が歩いた地には草が芽吹き、彼女の祈りは天に届き、死地を癒した』」
ルミナは息を呑んだ。
その言葉は、物語というより事実のように響いた。
「やがて奇跡の連鎖は国の耳に届き、当時の王が彼女を“聖女”と宣言した。以後、セレフィナは祀られ、多くの人々が祈りを捧げる対象となりました」
ユリウスはそこで本から視線を外し、わずかに間を置いた。
「……しかし、彼女のその後は、断片的な記録しか残っていません」
「どうして……?」
ルミナの声は自然と小さくなった。
ユリウスはゆっくりと本を閉じる。
「信仰と支配――そのはざまで、聖女の生涯は静かに閉じられた、とだけ記されています」
静かな沈黙が流れた。
古い紙の匂いが、部屋の中にやけに濃く感じられる。
その後、ユリウスは淡々と授業を続けた。
この国が幾つもの小国の連合から始まったこと、王家が血筋と武力だけでなく「守護者」として人々の信頼を得てきたこと。
聖女は歴史上、ただ一人――セレフィナのみであること。
「定義として、聖女とは“癒やしと浄化の力を持ち、神の加護を宿す存在”とされています」
「いやしと……じょうか……」
ルミナは自分の掌を見つめた。
ユリウスは、それ以上を語ろうとはしなかった。
あくまでこれは歴史の授業であり、ルミナ自身の力を断定する時間ではない――そういう空気があった。
授業が終わると、ユリウスは礼儀正しく頭を下げた。
「本日はここまでです。明日は王国の主要都市と文化について学びましょう」
ルミナは頷いた。
机の上に残された古い本を、もう一度そっと撫でる。
ページの奥に、雨を呼んだ少女が確かに生きている気がしてならなかった。
そして、ふと胸の奥で思う。
(……もしわたしがその力を持っていたら、どうするんだろう)
答えはまだ、どこにもなかった。
その夜、ルミナは不思議な夢を見た。
まぶしい光に包まれ、ルミナは目を開けた。
そこは、どこまでも広がる金色の空。地も空もなく、ただ光だけが満ちる世界だった。
「……ここ、どこ……?」
小さな声が宙に溶けた瞬間、低く響く声が降ってきた。
「やっと会えたな、ちび。」
声の方を向くと、背の高い男が立っていた。
髪は炎のような赤金色、瞳は夜の闇を閉じ込めたような漆黒。
肩に無造作に布を引っかけ、裸足のまま、圧倒的な存在感でそこにいる。
「……だれ?」
ルミナが首を傾げると、男は鼻で笑った。
「神様だよ。おまえのな。」
唐突すぎる答えに、ルミナは首をかしげる。
しかし相手はそんな反応も気にせず、ふっと笑った。
男はゆっくりとルミナに歩み寄り、しゃがみこんで覗き込む。
その視線は、目ではなく胸の奥――魂そのものを見透かすようだった。
「やっぱり、いいな……おまえの魂。前の世界でもそうだった。」
「……まえの、せかい?」
「ああ。おまえ、前の人生も、その前も、その前も……くだらねぇ欲も持たず、最後まで他人を思って生きた。
そんな魂、めったにねぇ。まっすぐで、どこまでも綺麗だ。」
ルミナはきょとんと瞬きをする。意味はよく分からないが、褒められていることだけは感じ取った。
男は、にやりと笑う。
「でな……俺は考えた。
“善人であろうとした魂に、神の力を与えたらどうなるのか”ってな。」
「……かみの、ちから?」
「おう。もう持ってんだよ、生まれたときからな。おまえにしか扱えねぇ、特別な力だ。」
ルミナは目を瞬かせる。何のことか分からないが、胸の奥がじんわり温かくなる。
「おまえはこのまま善人でいられるのか。
それとも、欲望に呑まれて変わっちまうのか。
――それを、俺は見てみたい。」
まるで悪戯を企む子供のような笑みだった。
けれど、その瞳にはどこか本気の光も宿っている。
「忘れんな、ちび。おまえは俺が選んだんだ。
俺様は、ちゃんと見てる。
途中で死なれちゃ困るからな。ちゃんと守ってやるよ」
男は立ち上がり、背を向ける。
その肩越しに、ちらりと振り返って言った。
「なあ、ルミナ。俺を退屈させんなよ」
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