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ヴァルハイト公爵家での生活が始まって数日が経ちました。
私は広大な図書室の窓際に座り、所在なげに外を眺めていました。
本来なら、今頃は冷たくて暗い牢獄で「あーあ、計画通りだけど暇だわー」なんて言っているはずだったのに。
目の前にあるのは、最高級の茶葉で淹れられたアールグレイと、専属パティシエが焼き上げた季節のタルト。
そして、部屋の隅には「お嬢様が退屈なさらないように」と、私の好みを完璧に把握したリタが山積みにした流行の小説。
(……おかしいわ。監獄生活って、もっとこう、精神的に磨り減るものじゃなかったかしら?)
私はタルトを一口頬張り、そのあまりの美味しさに頬を緩めそうになり、慌てて引き締めました。
(ダメよ、クロエル! こんな贅沢に慣れてしまっては、悪女としての矜持が保てないわ。今日こそは……今日こそは、この屋敷の主であるアッシュ様に嫌な女だと思わせて、速やかに追放されなければ!)
そこへ、執務の合間を縫ってアッシュ様が様子を見に現れました。
「……どうだ、クロエル。不自由はないか」
相変わらず、氷のような冷徹な声。
しかし、その瞳が私の首元のチョーカーを一瞬だけ、確認するように掠めたのを私は見逃しませんでした。
(チャンスだわ! ここで『こんな狭苦しい屋敷、息が詰まりますわ!』と、傲慢の限りを尽くしてやるのよ!)
「……ええ、不自由しかありませんわ! アッシュ様、あなた……っ」
喉が熱くなります。
紫の宝石が、私の邪悪な(はずの)決意を嘲笑うように輝きました。
「……あなた……っ、あなたのホスピタリティが完璧すぎて、私、ここから一歩も外に出たくなくなってしまいましたわ! こんなに甘やかされたら、私、ダメな女になってしまいます……。もっと厳しくしてくださらないと、あなたのことがもっともっと、大好きになってしまいますわ!」
「…………」
アッシュ様は無言で視線を逸らしました。
その端正な横顔が、わずかに引き攣っているように見えます。
「……君は、私を揶揄っているのか?」
「まさか! 私は……っ、私はあなたのことなんて……っ」
(私はあなたのことなんて、冷酷な石像だと思ってますわ!)
「……私はあなたのことなんて、……この世で一番尊い、生ける芸術品だと思ってますわ! あなたのその不器用な優しさに触れるたび、私の心はとろけてしまいそうですの。ああ、なんて罪深い男かしら……!」
私は、自分の意志を完全に裏切った口を両手で押さえました。
恥ずかしさで爆発しそうです。
アッシュ様は大きく溜息をつき、私の対面に座りました。
「……クロエル。君が王太子のためにあのような嘘を吐いた理由は聞いた。だが、なぜそこまでして他人を優先する? 君自身の幸せはどうなる」
彼の声は低く、どこか切実さを孕んでいました。
「私の幸せなんて、二の次ですわ。私は……っ」
(私は、自分が悪者になって物語が綺麗に終わるのが快感なんですのよ! 自虐的な趣味なんですの!)
「……私は、大切な人たちが笑っている姿を見ることが、何よりの贅沢なんですの……。マリエル様が殿下と結ばれて、幸せな涙を流す。それだけで、私の心は満たされるんですわ。私は、そのためなら地獄に落ちても構わないって、本気で思っていますのよ」
チョーカーは沈黙していました。
つまり、これが私の魂の底にある、一片の曇りもない真実だということです。
アッシュ様の拳が、テーブルの上で固く握りしめられました。
「……地獄、だと? 君のような女が地獄に落ちるなら、この世の聖女は全員首を吊らねばならなくなるな」
「え?」
「これを見ろ」
アッシュ様が差し出したのは、王宮から届いた一通の書状でした。
そこには、王太子ジュリアン様とマリエル様の婚約が、陛下の特例によって正式に認められたという知らせが記されていました。
「……! 本当……? よかった……。ああ、本当によかった……っ」
私は、心の底から溢れ出た喜びを隠せませんでした。
これで、私の「嘘」は報われたのです。
マリエル様は、もう身分を気にして夜中に一人で泣くことはない。殿下も、愛のない政略結婚に縛られることはない。
「……嬉しいか。自分を犠牲にして、すべてを失ったというのに」
「ええ! 私は……っ」
(私は、稀代の嘘つき悪女として、歴史に名を残せて光栄ですわ!)
「……私は、世界で一番幸せな女ですわ! こんなに素敵な結末を迎えられたのですもの。もう私、いつ死んでも悔いはありませんわ……!」
私の目から、ポロリと一粒の涙がこぼれました。
それは、悲しみではなく、純粋な安堵の雫。
その瞬間、アッシュ様の理性が、音を立てて崩れるのが見えた気がしました。
「――死ぬなど、許さない」
アッシュ様が身を乗り出し、私の両手を強く握りました。
その瞳には、今まで見たこともないような、激しく燃え上がるような熱が宿っていました。
「君は、他人のために自分を捨てた。ならば、捨てられたその命、私が拾う。これからは、私が君を、世界で一番甘やかされるべき『真実の女』として、この手の中に閉じ込めておく」
「え、ええ……っ!?」
「君がどれほど自分を貶めようとしても、この首輪がある限り、君の美しさは私に筒抜けだ。逃げられると思うなよ、クロエル」
アッシュ様の顔が、これまでにないほど至近距離まで迫ります。
その香水の香りが鼻を掠め、私の心臓は、これまでにないほどの速度で鐘を打ち始めました。
(ど、どうしましょう……。アッシュ様の目が、なんだか肉食獣みたいになってますわ!)
「……っ、嫌ですわ! あなたのような恐ろしい方に執着されるなんて……っ」
(……あなたのような恐ろしい方に執着されるなんて、……嬉しすぎて、腰が抜けてしまいそうですわ! もっと、もっと私をあなたの色に染めて……っ)
「……っ、あああ! 今のなしです! 今のなし!」
私は顔を真っ赤にして叫びましたが、アッシュ様は、今度は隠そうともせずに、口角を上げて愉悦に満ちた笑みを浮かべました。
「……言ったそばから、可愛らしいおねだりをするものだ。いいだろう、望み通りにしてやる」
「ひぃい……っ!」
この冷徹公爵、私の「本音」に慣れるどころか、それを楽しむ方向にシフトし始めたようです。
私の前途多難(幸せいっぱい)な監獄生活は、まだ始まったばかりでした。
私は広大な図書室の窓際に座り、所在なげに外を眺めていました。
本来なら、今頃は冷たくて暗い牢獄で「あーあ、計画通りだけど暇だわー」なんて言っているはずだったのに。
目の前にあるのは、最高級の茶葉で淹れられたアールグレイと、専属パティシエが焼き上げた季節のタルト。
そして、部屋の隅には「お嬢様が退屈なさらないように」と、私の好みを完璧に把握したリタが山積みにした流行の小説。
(……おかしいわ。監獄生活って、もっとこう、精神的に磨り減るものじゃなかったかしら?)
私はタルトを一口頬張り、そのあまりの美味しさに頬を緩めそうになり、慌てて引き締めました。
(ダメよ、クロエル! こんな贅沢に慣れてしまっては、悪女としての矜持が保てないわ。今日こそは……今日こそは、この屋敷の主であるアッシュ様に嫌な女だと思わせて、速やかに追放されなければ!)
そこへ、執務の合間を縫ってアッシュ様が様子を見に現れました。
「……どうだ、クロエル。不自由はないか」
相変わらず、氷のような冷徹な声。
しかし、その瞳が私の首元のチョーカーを一瞬だけ、確認するように掠めたのを私は見逃しませんでした。
(チャンスだわ! ここで『こんな狭苦しい屋敷、息が詰まりますわ!』と、傲慢の限りを尽くしてやるのよ!)
「……ええ、不自由しかありませんわ! アッシュ様、あなた……っ」
喉が熱くなります。
紫の宝石が、私の邪悪な(はずの)決意を嘲笑うように輝きました。
「……あなた……っ、あなたのホスピタリティが完璧すぎて、私、ここから一歩も外に出たくなくなってしまいましたわ! こんなに甘やかされたら、私、ダメな女になってしまいます……。もっと厳しくしてくださらないと、あなたのことがもっともっと、大好きになってしまいますわ!」
「…………」
アッシュ様は無言で視線を逸らしました。
その端正な横顔が、わずかに引き攣っているように見えます。
「……君は、私を揶揄っているのか?」
「まさか! 私は……っ、私はあなたのことなんて……っ」
(私はあなたのことなんて、冷酷な石像だと思ってますわ!)
「……私はあなたのことなんて、……この世で一番尊い、生ける芸術品だと思ってますわ! あなたのその不器用な優しさに触れるたび、私の心はとろけてしまいそうですの。ああ、なんて罪深い男かしら……!」
私は、自分の意志を完全に裏切った口を両手で押さえました。
恥ずかしさで爆発しそうです。
アッシュ様は大きく溜息をつき、私の対面に座りました。
「……クロエル。君が王太子のためにあのような嘘を吐いた理由は聞いた。だが、なぜそこまでして他人を優先する? 君自身の幸せはどうなる」
彼の声は低く、どこか切実さを孕んでいました。
「私の幸せなんて、二の次ですわ。私は……っ」
(私は、自分が悪者になって物語が綺麗に終わるのが快感なんですのよ! 自虐的な趣味なんですの!)
「……私は、大切な人たちが笑っている姿を見ることが、何よりの贅沢なんですの……。マリエル様が殿下と結ばれて、幸せな涙を流す。それだけで、私の心は満たされるんですわ。私は、そのためなら地獄に落ちても構わないって、本気で思っていますのよ」
チョーカーは沈黙していました。
つまり、これが私の魂の底にある、一片の曇りもない真実だということです。
アッシュ様の拳が、テーブルの上で固く握りしめられました。
「……地獄、だと? 君のような女が地獄に落ちるなら、この世の聖女は全員首を吊らねばならなくなるな」
「え?」
「これを見ろ」
アッシュ様が差し出したのは、王宮から届いた一通の書状でした。
そこには、王太子ジュリアン様とマリエル様の婚約が、陛下の特例によって正式に認められたという知らせが記されていました。
「……! 本当……? よかった……。ああ、本当によかった……っ」
私は、心の底から溢れ出た喜びを隠せませんでした。
これで、私の「嘘」は報われたのです。
マリエル様は、もう身分を気にして夜中に一人で泣くことはない。殿下も、愛のない政略結婚に縛られることはない。
「……嬉しいか。自分を犠牲にして、すべてを失ったというのに」
「ええ! 私は……っ」
(私は、稀代の嘘つき悪女として、歴史に名を残せて光栄ですわ!)
「……私は、世界で一番幸せな女ですわ! こんなに素敵な結末を迎えられたのですもの。もう私、いつ死んでも悔いはありませんわ……!」
私の目から、ポロリと一粒の涙がこぼれました。
それは、悲しみではなく、純粋な安堵の雫。
その瞬間、アッシュ様の理性が、音を立てて崩れるのが見えた気がしました。
「――死ぬなど、許さない」
アッシュ様が身を乗り出し、私の両手を強く握りました。
その瞳には、今まで見たこともないような、激しく燃え上がるような熱が宿っていました。
「君は、他人のために自分を捨てた。ならば、捨てられたその命、私が拾う。これからは、私が君を、世界で一番甘やかされるべき『真実の女』として、この手の中に閉じ込めておく」
「え、ええ……っ!?」
「君がどれほど自分を貶めようとしても、この首輪がある限り、君の美しさは私に筒抜けだ。逃げられると思うなよ、クロエル」
アッシュ様の顔が、これまでにないほど至近距離まで迫ります。
その香水の香りが鼻を掠め、私の心臓は、これまでにないほどの速度で鐘を打ち始めました。
(ど、どうしましょう……。アッシュ様の目が、なんだか肉食獣みたいになってますわ!)
「……っ、嫌ですわ! あなたのような恐ろしい方に執着されるなんて……っ」
(……あなたのような恐ろしい方に執着されるなんて、……嬉しすぎて、腰が抜けてしまいそうですわ! もっと、もっと私をあなたの色に染めて……っ)
「……っ、あああ! 今のなしです! 今のなし!」
私は顔を真っ赤にして叫びましたが、アッシュ様は、今度は隠そうともせずに、口角を上げて愉悦に満ちた笑みを浮かべました。
「……言ったそばから、可愛らしいおねだりをするものだ。いいだろう、望み通りにしてやる」
「ひぃい……っ!」
この冷徹公爵、私の「本音」に慣れるどころか、それを楽しむ方向にシフトし始めたようです。
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