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ギニョール帝国の皇帝執務室は、本来、国家の命運を左右する冷徹な決断が下される場所である。
しかし、現在のそこは、香ばしいバターの香りと、甘いハチミツの香りが漂う「楽園」と化していた。
「……ふむ。アラル様、こちらの地方税の徴収報告書ですが、あと三パーセントほど軽減しても国庫には影響ありませんわよ」
レティシアは、サクサクと心地よい音を立ててフィナンシェを頬張りながら、片手で書類をめくった。
「むしろ、税を下げて領民の購買意欲を煽ったほうが、市場が活性化して最終的な消費税収は増える計算になりますわ。その浮いたお金で、皆様がもっと美味しいお菓子を買ってくだされば、なお良しですわね」
彼女の隣で、アラルは感嘆したように溜息を漏らした。
「……信じられないな。財務省の連中が三日三晩徹夜して導き出した増税案を、一蹴するどころか、より利益の出る減税案に変えてしまうとは」
「そんなに難しいことではありませんわ。ただ、お金の流れを『胃袋』の動きに置き換えて考えてみただけですから」
「……その独特の経済感覚、やはり君を帝国に招いたのは正解だった」
アラルは嬉しそうに目を細めると、レティシアの唇に付いた焼き菓子の欠片を、指先で優しく拭った。
「あ……アラル様、その……自分で拭けますわ」
「いいや。顧問としての仕事に集中してくれ。身の回りの世話は、私がやりたいのだ」
「……。皇帝陛下にそんなことをさせる顧問など、世界中どこを探しても私くらいではないでしょうか」
レティシアは少し顔を赤くしながら、視線を書類に戻した。
これまで、エストニア王国では「やって当たり前」と思われていた彼女の知見。
ここでは、それを披露するたびに、アラルが惜しみない賞賛と、最高級のお菓子を与えてくれる。
その心地よさに、レティシアの心は少しずつ解きほぐされていた。
その時、執務室のドアが控えめにノックされた。
入ってきたのは、顔を強張らせた一人の若い貴族だった。
「へ、陛下! 失礼いたします! ……あ、あの、レティシア顧問」
「何だ、ハンス。そんなに慌てて」
「は、はい。実は……エストニア王国のカイル王子より、親書が届いております。内容は……『そちらに迷い込んだ私の婚約者を、速やかに返還せよ』とのことです」
その言葉が出た瞬間、執務室の温度が急降下した。
アラルの瞳から光が消え、絶対零度の冷気が室内を支配する。
「……返還、だと?」
「は、はい! 『彼女は我が国の機密を握っており、不当な拘束は宣戦布告と見なす』とも……」
「ハッ、面白いな」
アラルは低く笑ったが、その瞳は全く笑っていなかった。
彼は立ち上がると、震える伝令の男から親書をひったくり、一瞥もせずに魔導火で燃やし尽くした。
「レティシアは私の恩人であり、この帝国の至宝だ。……ゴミ溜めに返す理由がどこにある?」
「ア、アラル様、あまり怒らないでください。血圧に障りますわよ。……それより、宣戦布告だなんて。カイル殿下に、そんな軍資金が残っているはずありませんのに」
レティシアは冷静に、紅茶をお代わりしながら言った。
「現在のエストニア王国の国庫は、私が去った時点で底をつきかけていました。さらに、私が管理していた物流のコネクションもすべて遮断しましたから、兵士たちの食料さえ満足に調達できないはずですわ」
「……。なるほど、つまりあのアホ王子は、ハッタリで私を脅そうというわけか」
アラルの殺気が、少しだけ収まった。
彼はレティシアの前に跪き、その両手を恭しく取った。
「レティシア。君はどうしたい? 望むなら、あの国を今すぐ地図から消し飛ばしても構わないが」
「……。いえ、そこまでしていただく必要はありませんわ」
レティシアは微笑み、最後の一口のフィナンシェを口にした。
「放っておいても、自滅するでしょうし。……それよりアラル様。次は、帝都の北側にあるという特大クレープのお店に行きたいですわ」
「……。ああ、君がそう言うなら、クレープにしよう。今すぐ準備させる」
アラルの溺愛と、レティシアのマイペース。
二人の絆が深まる一方で、海の向こうの王国では、破滅のカウントダウンが確実に進んでいた。
しかし、現在のそこは、香ばしいバターの香りと、甘いハチミツの香りが漂う「楽園」と化していた。
「……ふむ。アラル様、こちらの地方税の徴収報告書ですが、あと三パーセントほど軽減しても国庫には影響ありませんわよ」
レティシアは、サクサクと心地よい音を立ててフィナンシェを頬張りながら、片手で書類をめくった。
「むしろ、税を下げて領民の購買意欲を煽ったほうが、市場が活性化して最終的な消費税収は増える計算になりますわ。その浮いたお金で、皆様がもっと美味しいお菓子を買ってくだされば、なお良しですわね」
彼女の隣で、アラルは感嘆したように溜息を漏らした。
「……信じられないな。財務省の連中が三日三晩徹夜して導き出した増税案を、一蹴するどころか、より利益の出る減税案に変えてしまうとは」
「そんなに難しいことではありませんわ。ただ、お金の流れを『胃袋』の動きに置き換えて考えてみただけですから」
「……その独特の経済感覚、やはり君を帝国に招いたのは正解だった」
アラルは嬉しそうに目を細めると、レティシアの唇に付いた焼き菓子の欠片を、指先で優しく拭った。
「あ……アラル様、その……自分で拭けますわ」
「いいや。顧問としての仕事に集中してくれ。身の回りの世話は、私がやりたいのだ」
「……。皇帝陛下にそんなことをさせる顧問など、世界中どこを探しても私くらいではないでしょうか」
レティシアは少し顔を赤くしながら、視線を書類に戻した。
これまで、エストニア王国では「やって当たり前」と思われていた彼女の知見。
ここでは、それを披露するたびに、アラルが惜しみない賞賛と、最高級のお菓子を与えてくれる。
その心地よさに、レティシアの心は少しずつ解きほぐされていた。
その時、執務室のドアが控えめにノックされた。
入ってきたのは、顔を強張らせた一人の若い貴族だった。
「へ、陛下! 失礼いたします! ……あ、あの、レティシア顧問」
「何だ、ハンス。そんなに慌てて」
「は、はい。実は……エストニア王国のカイル王子より、親書が届いております。内容は……『そちらに迷い込んだ私の婚約者を、速やかに返還せよ』とのことです」
その言葉が出た瞬間、執務室の温度が急降下した。
アラルの瞳から光が消え、絶対零度の冷気が室内を支配する。
「……返還、だと?」
「は、はい! 『彼女は我が国の機密を握っており、不当な拘束は宣戦布告と見なす』とも……」
「ハッ、面白いな」
アラルは低く笑ったが、その瞳は全く笑っていなかった。
彼は立ち上がると、震える伝令の男から親書をひったくり、一瞥もせずに魔導火で燃やし尽くした。
「レティシアは私の恩人であり、この帝国の至宝だ。……ゴミ溜めに返す理由がどこにある?」
「ア、アラル様、あまり怒らないでください。血圧に障りますわよ。……それより、宣戦布告だなんて。カイル殿下に、そんな軍資金が残っているはずありませんのに」
レティシアは冷静に、紅茶をお代わりしながら言った。
「現在のエストニア王国の国庫は、私が去った時点で底をつきかけていました。さらに、私が管理していた物流のコネクションもすべて遮断しましたから、兵士たちの食料さえ満足に調達できないはずですわ」
「……。なるほど、つまりあのアホ王子は、ハッタリで私を脅そうというわけか」
アラルの殺気が、少しだけ収まった。
彼はレティシアの前に跪き、その両手を恭しく取った。
「レティシア。君はどうしたい? 望むなら、あの国を今すぐ地図から消し飛ばしても構わないが」
「……。いえ、そこまでしていただく必要はありませんわ」
レティシアは微笑み、最後の一口のフィナンシェを口にした。
「放っておいても、自滅するでしょうし。……それよりアラル様。次は、帝都の北側にあるという特大クレープのお店に行きたいですわ」
「……。ああ、君がそう言うなら、クレープにしよう。今すぐ準備させる」
アラルの溺愛と、レティシアのマイペース。
二人の絆が深まる一方で、海の向こうの王国では、破滅のカウントダウンが確実に進んでいた。
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