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エストニア王国の王太子執務室は、もはや足の踏み場もないほどに書類の山で埋め尽くされていた。
かつてこの部屋は、レティシアの手によって完璧に整理整頓されていた。
しかし今、主であるカイル王子の足元には、インクが染みた契約書や期限切れの督促状が散乱している。
「……おい、この『小麦の流通許可証』の予備はどこにある! これがないと、明日の市場にパンが並ばないんだぞ!」
カイルが血走った目で叫ぶと、執事のセバスが深いため息をついて答えた。
「殿下。予備の保管場所を知っていたのは、レティシア様だけです。彼女は三年前からのすべての流通経路を暗記しておられましたから」
「暗記だと!? そんなこと、一介の令嬢ができるはずがないだろう!」
「できていたのですよ。彼女は、殿下がエレナ様とお茶をされている間に、黙々とそれらの処理を済ませていたのです」
セバスの言葉に、カイルは奥歯を噛み締めた。
隣で退屈そうに爪を磨いていたエレナが、甘ったるい声で口を挟む。
「カイル様ぁ、そんなにイライラしないでください。レティシア様が隠していただけじゃありませんの? いじわるですわね」
「……黙れエレナ。お前が『計算なんて侍女にやらせればいい』と言って、予算管理の魔導具を壊したせいもあるんだぞ!」
「そんな! ひどいですわ、カイル様!」
二人が言い争っている間にも、新たな伝令が部屋に飛び込んできた。
「殿下! 緊急事態です! 国境付近の農民たちが、食料不足を訴えて暴動を起こしかけています! 帝国の商人たちが、一方的に取引を停止したためです!」
「何だと!? なぜだ、金は払うと言っているだろう!」
「それが……『レティシア様がいないエストニア王国には信用がない』と、ギルド長が鼻で笑ったそうでして……」
カイルはガタガタと震えながら、椅子に深く沈み込んだ。
ようやく、ようやく理解し始めたのだ。
彼が「逃げ遅れた」と嘲笑い、婚約破棄を突きつけたあの少女が、実はこの国の血管を流れる「血」そのものだったということに。
「……連れ戻す。レティシアを、連れ戻すぞ。彼女は私の婚約者だ。公爵家の娘として、国を支える義務があるはずだ!」
「殿下、それは無茶です。彼女は今、帝国の特別顧問として……」
「うるさい! 彼女は騙されているだけだ! あの『死神皇帝』に脅されているに決まっている! 私が行って、直接彼女に『許してやるから戻れ』と言えば、あいつは泣いて喜ぶはずだ!」
カイルの歪んだ自己愛は、崩壊しつつある現実を直視することを拒んでいた。
一方その頃、ギニョール帝国の離宮。
レティシアは、アラルが特別に用意させた「究極のとろけるプリン」を堪能していた。
「……ふふっ。この食感、まさに奇跡ですわ。アラル様も一口いかがですか?」
「……。君が食べさせてくれるなら、いただこう」
アラルが期待に満ちた目で口を開ける。
レティシアが微笑みながら、スプーンを彼の口に運ぶ。
「いかがでしょうか?」
「……甘いな。だが、君の笑顔の方が、ずっと甘い」
「もう、アラル様ったら。……あ、そういえば、アラル様。先ほどから、窓の外に騎士様たちが集まっているようですが、何かあったのですか?」
レティシアが何気なく尋ねると、アラルの瞳の奥に冷徹な光が宿った。
「ああ、気にするな。ただの『害虫』が、我が国の国境を越えようとしているという報告があってな。少しばかり、駆除の準備をさせているだけだ」
「害虫、ですか。この時期にしては珍しいですわね」
「ああ。……不潔で、厚かましくて、自分が捨てた宝石の価値もわからない……。非常にたちの悪い害虫だ」
アラルはレティシアの手を握り、指先に深く口づけた。
「レティシア。何があっても、私の側を離れないと約束してくれ。君を二度と、あのような泥の中に返したくないんだ」
「ええ、もちろん。ここにいれば、美味しいものが毎日食べられますもの。……それに、アラル様と一緒にいるのが、一番落ち着きますから」
レティシアの無邪気な回答に、アラルは満足げに目を細めた。
彼の背後では、帝国最強の近衛軍が、間もなくやってくる「元婚約者」を迎え撃つべく、静かに刃を研いでいた。
かつてこの部屋は、レティシアの手によって完璧に整理整頓されていた。
しかし今、主であるカイル王子の足元には、インクが染みた契約書や期限切れの督促状が散乱している。
「……おい、この『小麦の流通許可証』の予備はどこにある! これがないと、明日の市場にパンが並ばないんだぞ!」
カイルが血走った目で叫ぶと、執事のセバスが深いため息をついて答えた。
「殿下。予備の保管場所を知っていたのは、レティシア様だけです。彼女は三年前からのすべての流通経路を暗記しておられましたから」
「暗記だと!? そんなこと、一介の令嬢ができるはずがないだろう!」
「できていたのですよ。彼女は、殿下がエレナ様とお茶をされている間に、黙々とそれらの処理を済ませていたのです」
セバスの言葉に、カイルは奥歯を噛み締めた。
隣で退屈そうに爪を磨いていたエレナが、甘ったるい声で口を挟む。
「カイル様ぁ、そんなにイライラしないでください。レティシア様が隠していただけじゃありませんの? いじわるですわね」
「……黙れエレナ。お前が『計算なんて侍女にやらせればいい』と言って、予算管理の魔導具を壊したせいもあるんだぞ!」
「そんな! ひどいですわ、カイル様!」
二人が言い争っている間にも、新たな伝令が部屋に飛び込んできた。
「殿下! 緊急事態です! 国境付近の農民たちが、食料不足を訴えて暴動を起こしかけています! 帝国の商人たちが、一方的に取引を停止したためです!」
「何だと!? なぜだ、金は払うと言っているだろう!」
「それが……『レティシア様がいないエストニア王国には信用がない』と、ギルド長が鼻で笑ったそうでして……」
カイルはガタガタと震えながら、椅子に深く沈み込んだ。
ようやく、ようやく理解し始めたのだ。
彼が「逃げ遅れた」と嘲笑い、婚約破棄を突きつけたあの少女が、実はこの国の血管を流れる「血」そのものだったということに。
「……連れ戻す。レティシアを、連れ戻すぞ。彼女は私の婚約者だ。公爵家の娘として、国を支える義務があるはずだ!」
「殿下、それは無茶です。彼女は今、帝国の特別顧問として……」
「うるさい! 彼女は騙されているだけだ! あの『死神皇帝』に脅されているに決まっている! 私が行って、直接彼女に『許してやるから戻れ』と言えば、あいつは泣いて喜ぶはずだ!」
カイルの歪んだ自己愛は、崩壊しつつある現実を直視することを拒んでいた。
一方その頃、ギニョール帝国の離宮。
レティシアは、アラルが特別に用意させた「究極のとろけるプリン」を堪能していた。
「……ふふっ。この食感、まさに奇跡ですわ。アラル様も一口いかがですか?」
「……。君が食べさせてくれるなら、いただこう」
アラルが期待に満ちた目で口を開ける。
レティシアが微笑みながら、スプーンを彼の口に運ぶ。
「いかがでしょうか?」
「……甘いな。だが、君の笑顔の方が、ずっと甘い」
「もう、アラル様ったら。……あ、そういえば、アラル様。先ほどから、窓の外に騎士様たちが集まっているようですが、何かあったのですか?」
レティシアが何気なく尋ねると、アラルの瞳の奥に冷徹な光が宿った。
「ああ、気にするな。ただの『害虫』が、我が国の国境を越えようとしているという報告があってな。少しばかり、駆除の準備をさせているだけだ」
「害虫、ですか。この時期にしては珍しいですわね」
「ああ。……不潔で、厚かましくて、自分が捨てた宝石の価値もわからない……。非常にたちの悪い害虫だ」
アラルはレティシアの手を握り、指先に深く口づけた。
「レティシア。何があっても、私の側を離れないと約束してくれ。君を二度と、あのような泥の中に返したくないんだ」
「ええ、もちろん。ここにいれば、美味しいものが毎日食べられますもの。……それに、アラル様と一緒にいるのが、一番落ち着きますから」
レティシアの無邪気な回答に、アラルは満足げに目を細めた。
彼の背後では、帝国最強の近衛軍が、間もなくやってくる「元婚約者」を迎え撃つべく、静かに刃を研いでいた。
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