​断罪の場に遅刻しただけなのに皇帝陛下に溺愛されています

恋守あい

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エストニア王国の王宮は、もはやかつての気品を失っていた。
廊下を走る侍女の姿はなく、窓には埃が積もり、至るところで「未払いの給与を寄越せ」という怒号が響いている。

カイルが泥まみれで執務室に転がり込むと、そこには旅支度を終えたエレナの姿があった。

「エレナ……! ああ、エレナ、無事だったか! ひどい目に遭ったぞ。あのレティシアの女、毒を盛った私を……」

「……あら。お帰りなさい、カイル様。意外と早かったのですね」

エレナの冷え切った声に、カイルは足を止めた。
彼女の手元には、王家に代々伝わる宝石箱がいくつか転がっている。

「……エレナ? その荷物はなんだ。それに、その宝石は……」

「見てわからないのですか? この国はもう終わりですわ。隣の裕福な商会の方が、私を保護してくださるとおっしゃったの。この宝石は、そのための支度金ですわ」

「な……何を言っている! お前は私の未来の王妃だろう!?」

「王妃? パンの一つも買えない国の王妃になって、どうしろと言うのですか? カイル様、愛だけではお腹は膨らまないのですよ」

エレナは鼻で笑うと、真っ赤に塗った唇を歪めた。

「レティシア様がいれば、こんなことにはならなかったのに。……あの方、本当に有能だったのですね。私、あの方の書類の山を見て、吐き気がしたもの。それを一人でこなしていたなんて、化け物ですわ」

「貴様……! 私のことを愛していると言ったではないか!」

「ええ、金払いの良いカイル様は愛していましたわよ。……さようなら、無能な王子様。次はもっと、現実を見られる女性を選びなさいな」

エレナは高笑いと共に部屋を去った。
カイルはその場に膝をつき、拳で床を叩いた。
だが、追いかける気力も、彼女を止める権力も、今の彼には残されていなかった。

一方、ギニョール帝国の離宮。
レティシアは、約束通りアラルと一緒に「究極のミルフィーユ」を囲んでいた。

「……サクッ、という音がたまらないですわね、アラル様。このパイ生地、何層あるのでしょうか」

「職人によれば、一千層を超えているらしい。君のために、寝る間を惜しんで折らせたからな」

「まあ、それは感謝していただかなくては。……ふふ、美味しいですわ」

レティシアが幸せそうに目を細めると、アラルは手元に届いた報告書をそっと脇に避けた。

「レティシア。……エストニア王国で、クーデターの兆しがあるようだ。貴族たちが国王を幽閉し、カイル王子の廃嫡を求めている」

「……。そうですか」

レティシアの手は止まらない。
彼女は丁寧にクリームを掬い取り、口に運んだ。

「悲しくはないのか? 君が生まれ育った国だろう」

「……。正直に申し上げますと、ミルフィーユの層が崩れることの方が、今の私には重大な事件ですわ」

レティシアは、冗談めかさずに淡々と答えた。

「私はあの日、あの夜会で『捨てられた』のです。その瞬間に、私の王国への義務はすべて果たしました。今の私にあるのは、アラル様がくださる美味しいお菓子への忠誠心だけですわ」

「……。ふっ、そうか。それなら安心した」

アラルは満足げに微笑むと、レティシアの髪を優しく撫でた。

「君の忠誠が揺らがないよう、明日は南方の島から届く、とっておきの果実を用意させよう」

「まあ! それは楽しみですわ!」

滅びゆく王国の悲鳴など、今の彼女には遠い異国の雷鳴ほどにも響かない。
ただ目の前にある甘い幸福だけが、彼女のすべてだった。
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