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【第5話】君に捧げるフレンチトースト
【5-12】
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「リュリちゃんは、……屋敷の地下牢に?」
「そうだ。七年前のリュリは、今よりもっと幼く可憐だった。そんな少女を相手に、その屋敷のろくでもない貴族は、口に出すのもおぞましい虐待をしていたんだ。……それでも、リュリは美しいままだった」
記憶を掘り起こすイラさんの表情が、ふっと曇る。当時のリュリちゃんのことを想って、胸が痛んだのだろうか。薄い唇を微かに震わせ、何かに耐えるようにキュッと一度引き結んでから、彼女は意を決したかのように先を話し始めた。
「どうやら、リュリは没落した貴族の家に生まれ、そこの主──つまりリュリの父が自ら首を吊って死んだとき、悪徳貴族が強引にあの子を買い上げたようだ。リュリの母君も相当な美人だったそうだが、また違う貴族に買われたらしい。……これは、リュリ本人から聞いたわけじゃない。私が後から調べたことだ」
「……じゃあ、リュリちゃんはご家族のことは、何も?」
「ああ。おそらくは、父親の死も、母親のことも、分かっていない。……ただ、家族と二度と会えないことは理解しているようだ」
胸が痛い。あんなに可愛らしい少女の身に、そんな出来事があったなんて。家族と引き離され、地下牢に閉じ込められ、虐待を受けていた。あの危うい歩行は、そのときの後遺症なのだろうか。
その悪い貴族を直接知っているわけじゃないけれど、イラさんの語る内容が事実だとしたら、その貴族はジルよりもよほど魔王らしいし、カミュよりも悪魔らしいのは間違いないだろう。それほどの所業だ。
さっき、顔を合わせたのは少しの時間だけだったけれど、そのとき接した彼女の様子を見るに、リュリちゃんは僕と似たようなタイプなんだと思う。自分の身の上を「事実」として受け入れている。それを分かっているから、安易な同情はしたくない。
──それでも、あの華奢な身体が抱え込んでいるであろう悲しみを思うと、心が押し潰されそうに苦しい。
「リュリの母も、娘に二度と会えないと悟っていたんだろう。そして、自分と娘の身に何が起ころうとしているのかも、きっと察していた。……だから、リュリに言い聞かせていたんだ。あなたの身に何が起ころうとも、気高く美しい心でありなさい、と」
「気高く美しく……、貴族の教えか何か?」
「いや、違う。そもそも、リュリは元貴族ではあるが、一族まるごと身分を剥奪されていて、今は平民だ。──そうではなくて、人間らしさを忘れないための教えだったんだと思う」
「人間、らしさ……」
「心を綺麗に保つのも、汚してしまうのも、あなた次第。何があろうと心はあなただけのもの。そう言い聞かされていたそうだ。──どんな酷い言葉を投げつけられたとしても、どんな手段で辱められたとしても、身体にどんな傷を負ったとしても、心を穢すことは誰にも出来ない。美しい心がある限り、誰に何を言われようとリュリは美しい人間なのだと。そう伝えたかったんじゃないかと、私は思う。……そして、実際、リュリは美しかった」
イラさんが小さく息をついた。その青い瞳には、どこか恍惚とした色が滲んでいる。
「あんな地下牢で、あんなに酷い有様で、身体もボロボロだったのに、リュリは美しかった。突如現れた侵入者の私に対しても、あの子は微笑んだんだ。あんなに美しい姿、どんな絵画にだって描けやしない。その美しさに惹かれて、私は彼女を盗んだ」
「……助けたかった、ではなく?」
「違う。盗んだんだ。あの不変の美しさが傍に在れば、盗賊に身を堕とした私でも誇りを忘れずにいられるのではないかと、そう思った。どうしても、あの子が欲しかった。私はリュリを、心の底から尊敬している」
そう語る横顔は、確かに美しい。中性的で端正な顔立ちの中に、自信や誇りが見て取れる。イラさんの行いは、どれもこれも正しいとは言えない。でも、間違いだと糾弾することも難しい。──そうして己を貫いている彼女を、少し羨ましく感じた。
「リュリが戻ってきた」
不意に呟いたイラさんが近くの扉へ歩み寄り、軋む扉を開く。すると、ほどなくして、三つのコップを載せた木製のトレーを両手で持ったリュリちゃんが戻ってきた。
「美しい姫、お持ちしましょう」
「ふふっ。ありがとう、イラ」
トレーを片手で受け取るイラさんと、彼女を見上げて楽しそうに笑うリュリちゃん。盗んだ者と盗まれた者の間には、確かな絆が結ばれているようだった。
イラさんがリュリちゃんに対して「美しい」「姫」と連呼しているのは、たぶんあえてなんだろう。そして、リュリちゃんもまた、それをあえて自然に受け入れるようにしている。二人が美しいままでいるために、きっと必要なことなんだ。
そんなことを考えていると、気高く美しい小さな姫君がにっこりと笑いかけてくれる。
「ミカさんはお風呂上がりみたいだから、冷たいお茶を淹れてきたの」
「わぁ、ありがとう!」
「お待たせしました。はい、どうぞ」
リュリちゃんは、イラさんが持つトレーから木のカップを取って、手渡してくれた。
「そうだ。七年前のリュリは、今よりもっと幼く可憐だった。そんな少女を相手に、その屋敷のろくでもない貴族は、口に出すのもおぞましい虐待をしていたんだ。……それでも、リュリは美しいままだった」
記憶を掘り起こすイラさんの表情が、ふっと曇る。当時のリュリちゃんのことを想って、胸が痛んだのだろうか。薄い唇を微かに震わせ、何かに耐えるようにキュッと一度引き結んでから、彼女は意を決したかのように先を話し始めた。
「どうやら、リュリは没落した貴族の家に生まれ、そこの主──つまりリュリの父が自ら首を吊って死んだとき、悪徳貴族が強引にあの子を買い上げたようだ。リュリの母君も相当な美人だったそうだが、また違う貴族に買われたらしい。……これは、リュリ本人から聞いたわけじゃない。私が後から調べたことだ」
「……じゃあ、リュリちゃんはご家族のことは、何も?」
「ああ。おそらくは、父親の死も、母親のことも、分かっていない。……ただ、家族と二度と会えないことは理解しているようだ」
胸が痛い。あんなに可愛らしい少女の身に、そんな出来事があったなんて。家族と引き離され、地下牢に閉じ込められ、虐待を受けていた。あの危うい歩行は、そのときの後遺症なのだろうか。
その悪い貴族を直接知っているわけじゃないけれど、イラさんの語る内容が事実だとしたら、その貴族はジルよりもよほど魔王らしいし、カミュよりも悪魔らしいのは間違いないだろう。それほどの所業だ。
さっき、顔を合わせたのは少しの時間だけだったけれど、そのとき接した彼女の様子を見るに、リュリちゃんは僕と似たようなタイプなんだと思う。自分の身の上を「事実」として受け入れている。それを分かっているから、安易な同情はしたくない。
──それでも、あの華奢な身体が抱え込んでいるであろう悲しみを思うと、心が押し潰されそうに苦しい。
「リュリの母も、娘に二度と会えないと悟っていたんだろう。そして、自分と娘の身に何が起ころうとしているのかも、きっと察していた。……だから、リュリに言い聞かせていたんだ。あなたの身に何が起ころうとも、気高く美しい心でありなさい、と」
「気高く美しく……、貴族の教えか何か?」
「いや、違う。そもそも、リュリは元貴族ではあるが、一族まるごと身分を剥奪されていて、今は平民だ。──そうではなくて、人間らしさを忘れないための教えだったんだと思う」
「人間、らしさ……」
「心を綺麗に保つのも、汚してしまうのも、あなた次第。何があろうと心はあなただけのもの。そう言い聞かされていたそうだ。──どんな酷い言葉を投げつけられたとしても、どんな手段で辱められたとしても、身体にどんな傷を負ったとしても、心を穢すことは誰にも出来ない。美しい心がある限り、誰に何を言われようとリュリは美しい人間なのだと。そう伝えたかったんじゃないかと、私は思う。……そして、実際、リュリは美しかった」
イラさんが小さく息をついた。その青い瞳には、どこか恍惚とした色が滲んでいる。
「あんな地下牢で、あんなに酷い有様で、身体もボロボロだったのに、リュリは美しかった。突如現れた侵入者の私に対しても、あの子は微笑んだんだ。あんなに美しい姿、どんな絵画にだって描けやしない。その美しさに惹かれて、私は彼女を盗んだ」
「……助けたかった、ではなく?」
「違う。盗んだんだ。あの不変の美しさが傍に在れば、盗賊に身を堕とした私でも誇りを忘れずにいられるのではないかと、そう思った。どうしても、あの子が欲しかった。私はリュリを、心の底から尊敬している」
そう語る横顔は、確かに美しい。中性的で端正な顔立ちの中に、自信や誇りが見て取れる。イラさんの行いは、どれもこれも正しいとは言えない。でも、間違いだと糾弾することも難しい。──そうして己を貫いている彼女を、少し羨ましく感じた。
「リュリが戻ってきた」
不意に呟いたイラさんが近くの扉へ歩み寄り、軋む扉を開く。すると、ほどなくして、三つのコップを載せた木製のトレーを両手で持ったリュリちゃんが戻ってきた。
「美しい姫、お持ちしましょう」
「ふふっ。ありがとう、イラ」
トレーを片手で受け取るイラさんと、彼女を見上げて楽しそうに笑うリュリちゃん。盗んだ者と盗まれた者の間には、確かな絆が結ばれているようだった。
イラさんがリュリちゃんに対して「美しい」「姫」と連呼しているのは、たぶんあえてなんだろう。そして、リュリちゃんもまた、それをあえて自然に受け入れるようにしている。二人が美しいままでいるために、きっと必要なことなんだ。
そんなことを考えていると、気高く美しい小さな姫君がにっこりと笑いかけてくれる。
「ミカさんはお風呂上がりみたいだから、冷たいお茶を淹れてきたの」
「わぁ、ありがとう!」
「お待たせしました。はい、どうぞ」
リュリちゃんは、イラさんが持つトレーから木のカップを取って、手渡してくれた。
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