96 / 246
【第5話】君に捧げるフレンチトースト
【5-12】
しおりを挟む
「リュリちゃんは、……屋敷の地下牢に?」
「そうだ。七年前のリュリは、今よりもっと幼く可憐だった。そんな少女を相手に、その屋敷のろくでもない貴族は、口に出すのもおぞましい虐待をしていたんだ。……それでも、リュリは美しいままだった」
記憶を掘り起こすイラさんの表情が、ふっと曇る。当時のリュリちゃんのことを想って、胸が痛んだのだろうか。薄い唇を微かに震わせ、何かに耐えるようにキュッと一度引き結んでから、彼女は意を決したかのように先を話し始めた。
「どうやら、リュリは没落した貴族の家に生まれ、そこの主──つまりリュリの父が自ら首を吊って死んだとき、悪徳貴族が強引にあの子を買い上げたようだ。リュリの母君も相当な美人だったそうだが、また違う貴族に買われたらしい。……これは、リュリ本人から聞いたわけじゃない。私が後から調べたことだ」
「……じゃあ、リュリちゃんはご家族のことは、何も?」
「ああ。おそらくは、父親の死も、母親のことも、分かっていない。……ただ、家族と二度と会えないことは理解しているようだ」
胸が痛い。あんなに可愛らしい少女の身に、そんな出来事があったなんて。家族と引き離され、地下牢に閉じ込められ、虐待を受けていた。あの危うい歩行は、そのときの後遺症なのだろうか。
その悪い貴族を直接知っているわけじゃないけれど、イラさんの語る内容が事実だとしたら、その貴族はジルよりもよほど魔王らしいし、カミュよりも悪魔らしいのは間違いないだろう。それほどの所業だ。
さっき、顔を合わせたのは少しの時間だけだったけれど、そのとき接した彼女の様子を見るに、リュリちゃんは僕と似たようなタイプなんだと思う。自分の身の上を「事実」として受け入れている。それを分かっているから、安易な同情はしたくない。
──それでも、あの華奢な身体が抱え込んでいるであろう悲しみを思うと、心が押し潰されそうに苦しい。
「リュリの母も、娘に二度と会えないと悟っていたんだろう。そして、自分と娘の身に何が起ころうとしているのかも、きっと察していた。……だから、リュリに言い聞かせていたんだ。あなたの身に何が起ころうとも、気高く美しい心でありなさい、と」
「気高く美しく……、貴族の教えか何か?」
「いや、違う。そもそも、リュリは元貴族ではあるが、一族まるごと身分を剥奪されていて、今は平民だ。──そうではなくて、人間らしさを忘れないための教えだったんだと思う」
「人間、らしさ……」
「心を綺麗に保つのも、汚してしまうのも、あなた次第。何があろうと心はあなただけのもの。そう言い聞かされていたそうだ。──どんな酷い言葉を投げつけられたとしても、どんな手段で辱められたとしても、身体にどんな傷を負ったとしても、心を穢すことは誰にも出来ない。美しい心がある限り、誰に何を言われようとリュリは美しい人間なのだと。そう伝えたかったんじゃないかと、私は思う。……そして、実際、リュリは美しかった」
イラさんが小さく息をついた。その青い瞳には、どこか恍惚とした色が滲んでいる。
「あんな地下牢で、あんなに酷い有様で、身体もボロボロだったのに、リュリは美しかった。突如現れた侵入者の私に対しても、あの子は微笑んだんだ。あんなに美しい姿、どんな絵画にだって描けやしない。その美しさに惹かれて、私は彼女を盗んだ」
「……助けたかった、ではなく?」
「違う。盗んだんだ。あの不変の美しさが傍に在れば、盗賊に身を堕とした私でも誇りを忘れずにいられるのではないかと、そう思った。どうしても、あの子が欲しかった。私はリュリを、心の底から尊敬している」
そう語る横顔は、確かに美しい。中性的で端正な顔立ちの中に、自信や誇りが見て取れる。イラさんの行いは、どれもこれも正しいとは言えない。でも、間違いだと糾弾することも難しい。──そうして己を貫いている彼女を、少し羨ましく感じた。
「リュリが戻ってきた」
不意に呟いたイラさんが近くの扉へ歩み寄り、軋む扉を開く。すると、ほどなくして、三つのコップを載せた木製のトレーを両手で持ったリュリちゃんが戻ってきた。
「美しい姫、お持ちしましょう」
「ふふっ。ありがとう、イラ」
トレーを片手で受け取るイラさんと、彼女を見上げて楽しそうに笑うリュリちゃん。盗んだ者と盗まれた者の間には、確かな絆が結ばれているようだった。
イラさんがリュリちゃんに対して「美しい」「姫」と連呼しているのは、たぶんあえてなんだろう。そして、リュリちゃんもまた、それをあえて自然に受け入れるようにしている。二人が美しいままでいるために、きっと必要なことなんだ。
そんなことを考えていると、気高く美しい小さな姫君がにっこりと笑いかけてくれる。
「ミカさんはお風呂上がりみたいだから、冷たいお茶を淹れてきたの」
「わぁ、ありがとう!」
「お待たせしました。はい、どうぞ」
リュリちゃんは、イラさんが持つトレーから木のカップを取って、手渡してくれた。
「そうだ。七年前のリュリは、今よりもっと幼く可憐だった。そんな少女を相手に、その屋敷のろくでもない貴族は、口に出すのもおぞましい虐待をしていたんだ。……それでも、リュリは美しいままだった」
記憶を掘り起こすイラさんの表情が、ふっと曇る。当時のリュリちゃんのことを想って、胸が痛んだのだろうか。薄い唇を微かに震わせ、何かに耐えるようにキュッと一度引き結んでから、彼女は意を決したかのように先を話し始めた。
「どうやら、リュリは没落した貴族の家に生まれ、そこの主──つまりリュリの父が自ら首を吊って死んだとき、悪徳貴族が強引にあの子を買い上げたようだ。リュリの母君も相当な美人だったそうだが、また違う貴族に買われたらしい。……これは、リュリ本人から聞いたわけじゃない。私が後から調べたことだ」
「……じゃあ、リュリちゃんはご家族のことは、何も?」
「ああ。おそらくは、父親の死も、母親のことも、分かっていない。……ただ、家族と二度と会えないことは理解しているようだ」
胸が痛い。あんなに可愛らしい少女の身に、そんな出来事があったなんて。家族と引き離され、地下牢に閉じ込められ、虐待を受けていた。あの危うい歩行は、そのときの後遺症なのだろうか。
その悪い貴族を直接知っているわけじゃないけれど、イラさんの語る内容が事実だとしたら、その貴族はジルよりもよほど魔王らしいし、カミュよりも悪魔らしいのは間違いないだろう。それほどの所業だ。
さっき、顔を合わせたのは少しの時間だけだったけれど、そのとき接した彼女の様子を見るに、リュリちゃんは僕と似たようなタイプなんだと思う。自分の身の上を「事実」として受け入れている。それを分かっているから、安易な同情はしたくない。
──それでも、あの華奢な身体が抱え込んでいるであろう悲しみを思うと、心が押し潰されそうに苦しい。
「リュリの母も、娘に二度と会えないと悟っていたんだろう。そして、自分と娘の身に何が起ころうとしているのかも、きっと察していた。……だから、リュリに言い聞かせていたんだ。あなたの身に何が起ころうとも、気高く美しい心でありなさい、と」
「気高く美しく……、貴族の教えか何か?」
「いや、違う。そもそも、リュリは元貴族ではあるが、一族まるごと身分を剥奪されていて、今は平民だ。──そうではなくて、人間らしさを忘れないための教えだったんだと思う」
「人間、らしさ……」
「心を綺麗に保つのも、汚してしまうのも、あなた次第。何があろうと心はあなただけのもの。そう言い聞かされていたそうだ。──どんな酷い言葉を投げつけられたとしても、どんな手段で辱められたとしても、身体にどんな傷を負ったとしても、心を穢すことは誰にも出来ない。美しい心がある限り、誰に何を言われようとリュリは美しい人間なのだと。そう伝えたかったんじゃないかと、私は思う。……そして、実際、リュリは美しかった」
イラさんが小さく息をついた。その青い瞳には、どこか恍惚とした色が滲んでいる。
「あんな地下牢で、あんなに酷い有様で、身体もボロボロだったのに、リュリは美しかった。突如現れた侵入者の私に対しても、あの子は微笑んだんだ。あんなに美しい姿、どんな絵画にだって描けやしない。その美しさに惹かれて、私は彼女を盗んだ」
「……助けたかった、ではなく?」
「違う。盗んだんだ。あの不変の美しさが傍に在れば、盗賊に身を堕とした私でも誇りを忘れずにいられるのではないかと、そう思った。どうしても、あの子が欲しかった。私はリュリを、心の底から尊敬している」
そう語る横顔は、確かに美しい。中性的で端正な顔立ちの中に、自信や誇りが見て取れる。イラさんの行いは、どれもこれも正しいとは言えない。でも、間違いだと糾弾することも難しい。──そうして己を貫いている彼女を、少し羨ましく感じた。
「リュリが戻ってきた」
不意に呟いたイラさんが近くの扉へ歩み寄り、軋む扉を開く。すると、ほどなくして、三つのコップを載せた木製のトレーを両手で持ったリュリちゃんが戻ってきた。
「美しい姫、お持ちしましょう」
「ふふっ。ありがとう、イラ」
トレーを片手で受け取るイラさんと、彼女を見上げて楽しそうに笑うリュリちゃん。盗んだ者と盗まれた者の間には、確かな絆が結ばれているようだった。
イラさんがリュリちゃんに対して「美しい」「姫」と連呼しているのは、たぶんあえてなんだろう。そして、リュリちゃんもまた、それをあえて自然に受け入れるようにしている。二人が美しいままでいるために、きっと必要なことなんだ。
そんなことを考えていると、気高く美しい小さな姫君がにっこりと笑いかけてくれる。
「ミカさんはお風呂上がりみたいだから、冷たいお茶を淹れてきたの」
「わぁ、ありがとう!」
「お待たせしました。はい、どうぞ」
リュリちゃんは、イラさんが持つトレーから木のカップを取って、手渡してくれた。
1
あなたにおすすめの小説
異世界に転移したら、孤児院でごはん係になりました
雪月夜狐
ファンタジー
ある日突然、異世界に転移してしまったユウ。
気がつけば、そこは辺境にある小さな孤児院だった。
剣も魔法も使えないユウにできるのは、
子供たちのごはんを作り、洗濯をして、寝かしつけをすることだけ。
……のはずが、なぜか料理や家事といった
日常のことだけが、やたらとうまくいく。
無口な男の子、甘えん坊の女の子、元気いっぱいな年長組。
個性豊かな子供たちに囲まれて、
ユウは孤児院の「ごはん係」として、毎日を過ごしていく。
やがて、かつてこの孤児院で育った冒険者や商人たちも顔を出し、
孤児院は少しずつ、人が集まる場所になっていく。
戦わない、争わない。
ただ、ごはんを作って、今日をちゃんと暮らすだけ。
ほんわか天然な世話係と子供たちの日常を描く、
やさしい異世界孤児院ファンタジー。
3歳で捨てられた件
玲羅
恋愛
前世の記憶を持つ者が1000人に1人は居る時代。
それゆえに変わった子供扱いをされ、疎まれて捨てられた少女、キャプシーヌ。拾ったのは宰相を務めるフェルナー侯爵。
キャプシーヌの運命が再度変わったのは貴族学院入学後だった。
異世界に転移してしまった私、古民家をもらったのでカフェを始めたら大盛況。国王陛下が頻繁に来るのですが、どうしたらいいですか?
来栖とむ
ファンタジー
ブラック企業で疲れ果てた30歳の元OL・美里(みさと)が転移した先は、見渡す限りの深い森。
そこで彼女が授かったのは、魔女の称号……ではなく、一軒の**「日本の古民家」**だった!
亡き祖母が遺したその屋敷には、異世界では失われたはずの「お醤油」「お味噌」「白いお砂糖」という禁断の調味料が眠っていて――。
「えっ、唐揚げにそんなに感動しちゃうの?」
「プリン一口で、国王陛下が泣いちゃった……!?」
おにぎり、オムライス、そして肉汁溢れるハンバーグ。
現代日本の「当たり前」が、この世界では常識を覆す究極の美食に。
お掃除のプロな親子や、お忍びの王様、さらにはツンデレな宮廷料理人まで巻き込んで、
美味しい香りに包まれた、心もお腹も満たされるスローライフが今、始まります!
バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します
namisan
ファンタジー
バーンズ伯爵家の長男マイルズは、完璧な容姿と神童と噂される知性を持っていた。だが彼には、誰にも言えない秘密があった。――前世が日本の「医師」だったという記憶だ。
マイルズが10歳となった「洗礼式」の日。
その儀式の最中、領地で謎の疫病が発生したとの凶報が届く。
「呪いだ」「悪霊の仕業だ」と混乱する大人たち。
しかしマイルズだけは、元医師の知識から即座に「病」の正体と、放置すれば領地を崩壊させる「災害」であることを看破していた。
「父上、お待ちください。それは呪いではありませぬ。……対処法がわかります」
公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。
前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。
これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。
御家騒動なんて真っ平ごめんです〜捨てられた双子の片割れは平凡な人生を歩みたい〜
伽羅
ファンタジー
【幼少期】
双子の弟に殺された…と思ったら、何故か赤ん坊に生まれ変わっていた。
ここはもしかして異世界か?
だが、そこでも双子だったため、後継者争いを懸念する親に孤児院の前に捨てられてしまう。
ようやく里親が見つかり、平和に暮らせると思っていたが…。
【学院期】
学院に通い出すとそこには双子の片割れのエドワード王子も通っていた。
周りに双子だとバレないように学院生活を送っていたが、何故かエドワード王子の影武者をする事になり…。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
スキル買います
モモん
ファンタジー
「お前との婚約を破棄する!」
ローズ聖国の国立学園第139期卒業記念パーティーの日、第3王子シュナル=ローズレアは婚約者であるレイミ・ベルナール子爵家息女に宣言した。
見習い聖女であるレイミは、実は対価と引き換えにスキルを買い取ることのできる特殊な能力を有していた。
婚約破棄を受け入れる事を対価に、王子と聖女から特殊なスキルを受け取ったレイミは、そのまま姿を消した。
レイミと王妃の一族には、数年前から続く確執があり、いずれ王子と聖女のスキル消失が判明すれば、原因がレイミとの婚約破棄にあると疑われるのは明白だ。
そして、レイミを鑑定すれば消えたスキルをレイミがもっている事は明確になってしまうからだ。
かくして、子爵令嬢の逃走劇が幕を開ける。
莫大な遺産を相続したら異世界でスローライフを楽しむ
翔千
ファンタジー
小鳥遊 紅音は働く28歳OL
十八歳の時に両親を事故で亡くし、引き取り手がなく天涯孤独に。
高校卒業後就職し、仕事に明け暮れる日々。
そんなある日、1人の弁護士が紅音の元を訪ねて来た。
要件は、紅音の母方の曾祖叔父が亡くなったと言うものだった。
曾祖叔父は若い頃に単身外国で会社を立ち上げ生涯独身を貫いき、血縁者が紅音だけだと知り、曾祖叔父の遺産を一部を紅音に譲ると遺言を遺した。
その額なんと、50億円。
あまりの巨額に驚くがなんとか手続きを終える事が出来たが、巨額な遺産の事を何処からか聞きつけ、金の無心に来る輩が次々に紅音の元を訪れ、疲弊した紅音は、誰も知らない土地で一人暮らしをすると決意。
だが、引っ越しを決めた直後、突然、異世界に召喚されてしまった。
だが、持っていた遺産はそのまま異世界でも使えたので、遺産を使って、スローライフを楽しむことにしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる