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第8話 かたいいしのプリン・ア・ラ・モード
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満月に薄ぼんやりとした雲がかかっていたある晩、喫茶月影に男性客がひとり来店した。彼はお世辞にも利発そうには見えず、本日の空模様のようにぼんやりとしていた。なんとも冴えない――それが彼の第一印象だった。
店主が声をかけても、席に案内してお冷を出しても、彼は気の抜けるような生返事しか返さなかった。
注文をとろうにもまともな返事が返ってこずで、店主は少々困ってしまった。少しして、彼はのったりと顔をあげると、ぼんやりとした瞳で店主を見つめた。
「ここって、何でも願いが叶う不思議な喫茶店だと伺ったんですけれど。本当ですか?」
「あら、そんな噂、どこでお聞きになったんです?」
「ネットで見かけたんです。七曲りの交差点の、八つ目を曲がると現れるっていう不思議な喫茶店の話を。僕、この現状をどうにかしたいと思っていて……」
彼はまるで奥歯に物が挟まるような、はたまた、ひと目を気にしてコソコソとしているような、そんな感じでもごもごとそう言って顔を伏せた。話の続きを待って店主は聞きの姿勢でいたが、「あの」や「その」ばかりで彼が話してくれる気配は一向になかった。――そんな彼の中途半端な態度にしびれを切らせたのは、店主ではなく居合わせた常連客だった。お客のひとりである勝ち気な女性は釣り目をいっそう釣り上げると、八重歯をむき出して彼を睨みつけた。
「ああもう、じれったい! とっととお話しよ! 日本男児たるもの、そんな弱気でどうするんだい! もっと自己主張をおしよ!」
「これこれ、八塚さん。そういう言い方で括るのは良くないよ。それに、彼にもいろいろと事情があるんだろう」
「いやでも、水瀬様。はっきりしない物言いで『どうにかしたいことがある』と言われても、じゃないですか。そんなんじゃあ、マスターだってどうしようもないだろう?」
店主は苦笑いを浮かべながら、遠慮がちに「そうですね」と返した。すると彼が萎縮していっそう顔を伏せてしまったので、初老の男性客――水瀬は彼に優しく笑いかけた。
「そう固くなりなさんな。ここは面接会場などではないのだから。それに、マスターは見た目通りの優しい方だからね。君のペースでゆっくりと事情を説明したらいい」
ようやく顔をあげた彼は、愛想良く見せようとでも思ったのか、頬を引きつらせて精一杯の作り笑いを浮かべた。そして情けなく目を細めると、人差し指で頬を掻きながらポツリと言った。
「いやあ、その八塚さん? って方の言うとおりです。僕、男らしくないというか、むしろ人としても駄目な部類なので……。でも、どうにか変わりたいと思って。それで神頼みならぬ、怪しいネットの噂頼みでここまで来たんです」
彼――公生のこれまでの人生は、常に受け身であった。そして、「つもりだった」の言葉ばかりであった。そのため、人に言われるがまま、流れに任せるがままだったので、公生は努力らしい努力をしたことがなかった。公生の良いところといえば、人がいいことくらいだった。
そんな公生にも、友人がいることにはいた。ただし、その全てがいい人間とは言いがたかった。公生の人がいいのを良いことに、悪巧みを働く者がいたのだ。
公生は騙されても傷つけられても受け流してしまい、そして「彼は友達だから」と許してしまうため、何度も同じ過ちを繰り返した。公生がそのように育ってしまった原因の一端は親にあるはずなのだが、その親ですら公生の受け身グセに愛想を尽かしてしまった。――唯一公生を見捨てなかったのは、幼馴染にして恋人である貴子だけだった。
「お恥ずかしながら、その貴子にもとうとう三行半をつけられてしまったんです」
貴子はずっと、側で心配し続けてくれた。――それは騙されているのではないか。もう少し、自分で考えて自分で努力をして物事を決めたほうがいいのではないか。そのように常に気をかけてくれていた貴子に対して、公生は「そのつもりだ」「そうするつもりだった」「これも縁だから、そういう流れだから」「何とかなるさ」などとのらりくらりと返した。そのたびに貴子は難色を示したが、公生の「次からはそうする」という言葉を信じて彼女は口をつぐんだという。
「親ですら愛想を尽かした僕のことを、貴子は見捨てないでくれたから。そこに甘えていたんですよね。きっと貴子だけは僕を見捨てないでくれるという変な自信というか、確信というかがあって。だから、変わろうと努力しなかった。何かやったとしても、貴子に言われたことを『ちょうど、そうするつもりだったんだ』と言ってやるとかで。――それで、僕、あれこれあって仕事を辞めて、そこからヒモ状態になったんですけど」
「あんた、そりゃあ駄目だよ! そりゃあ、もう耐えられないとなってもしかたがないよ!」
普段こんなにしゃべるということをしないのか、公生は疲れたとばかりに言葉を切った。そこに間髪入れず、八塚が声をひっくり返した。公生は水をこっくりとひと飲みすると、バツが悪そうに顔をしかめて「ですよねえ」と呟いた。
静かに聞いていた店主も苦い顔を浮かべ、水瀬も困り顔を浮かべた。
「親しき仲にも何とやらと言うからねえ。彼女も、君のことを受容し続けることができなくなったんだろうねえ」
「それはさすがに、彼女が可哀想ですよ……。ずっと信じてくれてたのに、結局は裏切り続けていたってことじゃあないですか。公生さん、失礼ですけれど、それは人がいいとは言えません。むしろ、悪いです」
「はい、自分でもそう思います……。見捨てられてからようやく気づくだなんて、僕は本当に大馬鹿ですよ。どうしようもない悪ですよ。しかも、『もう面倒見きれない』と言って彼女が出ていってすぐのころは、まだ彼女が無条件で戻ってきてくれるんじゃないかと思って、何もせず彼女が帰ってくるのをただ待っていたんです」
もちろん、貴子が帰ってくることはなかった。いよいよ「自分はとうとう見捨てられたのだ」と気づいた公生は、遅すぎる独り立ちを決意した。今さら努力したところで彼女が戻ってくるはずがないとは思いつつも、行動せずにはいられなかった。何故なら貴子は出ていく前、「もうすぐ職探しをするつもりだ。大丈夫、何とかなるさ」とヘラヘラ笑う公生に対して「じゃあ、自力で安定した生活を送れるようになったら迎えに来てよ。そしたら、きみちゃんのことをもう一度信じてあげる」と言ったからだ。
「今さらだとは思いますし、とても自分勝手だとも思います。でも、最後の最後まで彼女を裏切って終わるのは、今まで信じて待ち続けてくれた彼女に対して本当に悪いことだと思うから。だから、実家に帰ってひとまずアルバイトを始めて。少しずつお金を貯めながら就職活動をしているんですけれど……。やってくる連絡といったら、途方もない数の企業からのお祈りメールだけで。もう、心が折れそうで」
「でも、今までがそんなんだったんだから、そして変わりたいんなら、ここで折れちゃあいられないだろう」
八塚が鼻を鳴らしてそう言うと、公生は大きく頷いた。
「はい、だから僕、〈やり遂げることのできる、堅い意志〉を手に入れたくて」
公生がそう言い終えると、水瀬は「さて、どうするね」と言わんばかりに店主を見据えた。店主はそれに応えることなく、公生をじっと見つめた。――来店時は雲がかかった月のようにぼんやりとしていた公生の瞳は、今はスッキリと晴れて明るく輝いていた。今回は絶対にやり遂げてやるんだという気概を、感じることができる目だった。
店主はにっこりと笑うと、唐突に「プリン、お好きですか?」と公生に尋ねた。面食らって押し黙った公生を気にすることなく、店主はにこやかに続けて言った。
「今日はちょうど特別な卵が手に入ったので、いつもよりも豪華なプリン・ア・ラ・モードをお出ししているんです。――初めての努力で挫折しそうで、でも成し遂げたいから噂頼みでいらしたんですものね。でしたら、是非この〈特別なプリン〉を食べていってくださいな。そしてそれが、公生さんの意に沿うものだといいんですけれど……」
店主は麻の生成り色の三つ編みをピンと弾きながら、くるりと踵を返してカウンターへと戻っていった。しばらくして、店主は色とりどりの果物で飾り立てたプリンを運んできた。思わず、公生は驚いて目を丸くした。
「わっ、すっごいピンク! そのプリン、いちごを混ぜてあるんですか? それとも、食紅!?」
「ベリー類はトッピングにしか使っていませんよ。もちろん、食紅なども一切不使用です」
「じゃあ、どうしてそんなにドきついピンク色なんですか!?」
「ああ、巷じゃあ爬鳥類って出回っていないんだっけ」
驚き続ける公生をよそに、八塚がキョトンとした顔でそう言った。公生が不思議そうに目を瞬かせていると、公生が期待通りの反応を示したのが嬉しかったのか、店主がにこにこと満面の笑みを浮かべて胸を張った。
「やっぱり、普通は食べる機会なんてないですよねえ。爬鳥卵で作ったプリンだなんて。日本では、飼っている農家さんも少ないですから。爬鳥卵は火が通ると鮮やかなピンクや赤に色を変えるんですけれど――」
「いや、だから、あの、ハチョウルイ? ハチョウラン? 何ですか、それは。ハチュウルイではなくて?」
公生は店主の言葉を遮って頓狂した。店主は笑みを崩すことなく、当然とばかりに頷いた。
「はい、ハチョウルイです。――コカトリスって分かります? 鶏と蛇が合体したような姿をしているんですけれど」
絶句した公生は、顔を青ざめさせた。水瀬がまるでコカトリスに睨まれたかのように固まる公生に気遣うように笑いかけながら「大丈夫、美味しいよ」と勧めると、公生はますます動転して目を白黒とさせた。
公生は頬を引きつらせながらもスプーンを手に取ると、恐る恐るそれをプリンに差し入れた。スプーンは意外にも早く器に到達した。
「睨んだ相手を石にするくらいだから、もっと堅いものだと思ってた……。でも、巷のプリンと比べたら相当堅いですね」
訝しがりながらも、公生はスプーンを持ち上げた。――いわゆる〈懐かしの固めプリン〉はおろか、寒天や羊羹よりもやや固い。心がホッと落ち着くような、卵と砂糖が合わさったプリン特有の甘い香りが漂っていて、たしかにこれはプリンであるらしいというのは分かる。だが、ずっしりと重かった。
公生は恐る恐る、スプーンを口に運んだ。そしてこれでもかというくらいに目を見開くと、鼻から深くフウと息を抜き、空いた片手で口元を隠した。そして店主を見つめると、一心不乱にまくし立てた。
「こんなに濃厚なプリン、食べたことない……。驚くほどコクがあって、何だか少し香ばしい味わいがあって。すごく固いからゼラチンか寒天で固めてるのかと思っていたら、気持ちのいい食感だし口の中でとろりと蕩けていくし。――何なんですか、このプリン。本当にプリンなんですか?」
「はい。紛れもなく、プリンですよ。ちょっと特別な、ね」
「これでコカトリスパワーを取り込んで、かたいいしになれますかね!? それにしても、美味しい! ……本当に、美味しい……」
意欲的にプリンを食べ進めながら、公生が突如ポロポロと涙を流し始めた。店主たちはぎょっとすると、どうしたのかと公生に尋ねた。公生は涙を拭いながら、小さな声で返した。
「貴子がよく、プリンを作ってくれたんですよ。レンジでチンの、手抜きレシピですけれど。また食べられる日が、いつか来るかなあ……」
「かたいいしで成し遂げるんだね」
優しげに笑う八塚に、公生は頷き返した。
一年ほどしたのち。公生が再び喫茶月影に姿を現した。公生は以前とは比べ物にならないくらいに凛々しい雰囲気をまとっていたが、しかしながら以前と同じように冴えない表情をしていた。どうしたのかと店主が尋ねると、公生は何とも言えぬ不安げな顔つきでポツリと言った。
「本当に、これでよかったのかと思いまして……」
「と、言いますと?」
店主が表情を曇らせて公生の顔を覗き込むと、公生はバツが悪そうに目をそらした。そして心なしか俯くと、苦い顔を浮かべた。
「僕が成し遂げたことは、結果として貴子を不幸にしてしまったのではないかと思うんです」
何でも、この一年、公生は貴子と全く連絡がつかなかったそうだ。長い付き合いの幼馴染であるにもかかわらず、だ。きっと、貴子は「迎えに来て」と言いつつも今度こそ公生と縁を切ろうと思っていたのだろう。ところが、つい先日、公生は偶然にも貴子と再会を果たしたのだという。
「この一年、僕は本気で心を入れ替えて行動し続けました。マスターさんや八塚さん、水瀬さんとの出会いのおかげで、堅い意志を持ち続けることができたんです。その甲斐あって手堅い職にも就くことができたし、悪い友人とは縁を切りましたし、幾ばくかの貯金もしました」
「それは、素晴らしいことじゃあありませんか。再会した貴子さんも、公生さんの変わりように喜んでくれたんじゃあありませんか?」
「いえ、それが……。逆に泣かせてしまって……」
連絡の途絶えていた一年の間に、貴子は貴子で「過去に踏ん切りをつけて、前を向いて歩いていこう」としていたそうだ。そのため、公生と再会したときには新しくできた恋人と婚約していたという。そして、彼女は泣きながら「遅いよ、きみちゃん。遅すぎるよ」と呟いたそうだ。
「僕は貴子の新しい門出を祝福しようと思いました。でも、彼女は『約束は約束だから』と婚約破棄して、僕のもとに戻ってきたんです。……僕のしたことは結局、彼女を振り回しただけだったんじゃないか。新しい恋人と一緒になったほうが、貴子は幸せになれたんじゃないかと思わずにはいられなくて。それで、『心からの笑顔が、プリンのお代』とのことでしたけれど、到底お支払いできる気がしなくて、やっぱり現金支払いできないものかとご相談を思いまして……」
店主と一緒に話を聞いていた八塚は厳しい表情を浮かべると、思い切りバシリと公生の背中を叩いた。公生が驚き戸惑っていると、八塚はピシャリと言い放った。
「かたいいしの生み出した結果そうなったんだったら、それからのこともかたいいしでやり通すしかないだろう! ここからが男の見せどころだ、しっかりおしよ!」
「……お代はいつまでもお待ちしておりますから。かたいいしで、まずは貴子さんを笑顔にしてあげてくださいな」
店主がそう声を掛けると、公生はにこりと笑って頷いた。以前の〈頬の引きつった作り笑い〉と比べたら、笑うことが上手になっていた。――笑顔を取り戻した貴子と一緒に、貴子の作ったプリンを食べる日が訪れたら。そうしたらきっと、公生は支払いのための来店を果たすことができるだろう。そう信じて、店主たちは公生を再び送り出したのだった。
店主が声をかけても、席に案内してお冷を出しても、彼は気の抜けるような生返事しか返さなかった。
注文をとろうにもまともな返事が返ってこずで、店主は少々困ってしまった。少しして、彼はのったりと顔をあげると、ぼんやりとした瞳で店主を見つめた。
「ここって、何でも願いが叶う不思議な喫茶店だと伺ったんですけれど。本当ですか?」
「あら、そんな噂、どこでお聞きになったんです?」
「ネットで見かけたんです。七曲りの交差点の、八つ目を曲がると現れるっていう不思議な喫茶店の話を。僕、この現状をどうにかしたいと思っていて……」
彼はまるで奥歯に物が挟まるような、はたまた、ひと目を気にしてコソコソとしているような、そんな感じでもごもごとそう言って顔を伏せた。話の続きを待って店主は聞きの姿勢でいたが、「あの」や「その」ばかりで彼が話してくれる気配は一向になかった。――そんな彼の中途半端な態度にしびれを切らせたのは、店主ではなく居合わせた常連客だった。お客のひとりである勝ち気な女性は釣り目をいっそう釣り上げると、八重歯をむき出して彼を睨みつけた。
「ああもう、じれったい! とっととお話しよ! 日本男児たるもの、そんな弱気でどうするんだい! もっと自己主張をおしよ!」
「これこれ、八塚さん。そういう言い方で括るのは良くないよ。それに、彼にもいろいろと事情があるんだろう」
「いやでも、水瀬様。はっきりしない物言いで『どうにかしたいことがある』と言われても、じゃないですか。そんなんじゃあ、マスターだってどうしようもないだろう?」
店主は苦笑いを浮かべながら、遠慮がちに「そうですね」と返した。すると彼が萎縮していっそう顔を伏せてしまったので、初老の男性客――水瀬は彼に優しく笑いかけた。
「そう固くなりなさんな。ここは面接会場などではないのだから。それに、マスターは見た目通りの優しい方だからね。君のペースでゆっくりと事情を説明したらいい」
ようやく顔をあげた彼は、愛想良く見せようとでも思ったのか、頬を引きつらせて精一杯の作り笑いを浮かべた。そして情けなく目を細めると、人差し指で頬を掻きながらポツリと言った。
「いやあ、その八塚さん? って方の言うとおりです。僕、男らしくないというか、むしろ人としても駄目な部類なので……。でも、どうにか変わりたいと思って。それで神頼みならぬ、怪しいネットの噂頼みでここまで来たんです」
彼――公生のこれまでの人生は、常に受け身であった。そして、「つもりだった」の言葉ばかりであった。そのため、人に言われるがまま、流れに任せるがままだったので、公生は努力らしい努力をしたことがなかった。公生の良いところといえば、人がいいことくらいだった。
そんな公生にも、友人がいることにはいた。ただし、その全てがいい人間とは言いがたかった。公生の人がいいのを良いことに、悪巧みを働く者がいたのだ。
公生は騙されても傷つけられても受け流してしまい、そして「彼は友達だから」と許してしまうため、何度も同じ過ちを繰り返した。公生がそのように育ってしまった原因の一端は親にあるはずなのだが、その親ですら公生の受け身グセに愛想を尽かしてしまった。――唯一公生を見捨てなかったのは、幼馴染にして恋人である貴子だけだった。
「お恥ずかしながら、その貴子にもとうとう三行半をつけられてしまったんです」
貴子はずっと、側で心配し続けてくれた。――それは騙されているのではないか。もう少し、自分で考えて自分で努力をして物事を決めたほうがいいのではないか。そのように常に気をかけてくれていた貴子に対して、公生は「そのつもりだ」「そうするつもりだった」「これも縁だから、そういう流れだから」「何とかなるさ」などとのらりくらりと返した。そのたびに貴子は難色を示したが、公生の「次からはそうする」という言葉を信じて彼女は口をつぐんだという。
「親ですら愛想を尽かした僕のことを、貴子は見捨てないでくれたから。そこに甘えていたんですよね。きっと貴子だけは僕を見捨てないでくれるという変な自信というか、確信というかがあって。だから、変わろうと努力しなかった。何かやったとしても、貴子に言われたことを『ちょうど、そうするつもりだったんだ』と言ってやるとかで。――それで、僕、あれこれあって仕事を辞めて、そこからヒモ状態になったんですけど」
「あんた、そりゃあ駄目だよ! そりゃあ、もう耐えられないとなってもしかたがないよ!」
普段こんなにしゃべるということをしないのか、公生は疲れたとばかりに言葉を切った。そこに間髪入れず、八塚が声をひっくり返した。公生は水をこっくりとひと飲みすると、バツが悪そうに顔をしかめて「ですよねえ」と呟いた。
静かに聞いていた店主も苦い顔を浮かべ、水瀬も困り顔を浮かべた。
「親しき仲にも何とやらと言うからねえ。彼女も、君のことを受容し続けることができなくなったんだろうねえ」
「それはさすがに、彼女が可哀想ですよ……。ずっと信じてくれてたのに、結局は裏切り続けていたってことじゃあないですか。公生さん、失礼ですけれど、それは人がいいとは言えません。むしろ、悪いです」
「はい、自分でもそう思います……。見捨てられてからようやく気づくだなんて、僕は本当に大馬鹿ですよ。どうしようもない悪ですよ。しかも、『もう面倒見きれない』と言って彼女が出ていってすぐのころは、まだ彼女が無条件で戻ってきてくれるんじゃないかと思って、何もせず彼女が帰ってくるのをただ待っていたんです」
もちろん、貴子が帰ってくることはなかった。いよいよ「自分はとうとう見捨てられたのだ」と気づいた公生は、遅すぎる独り立ちを決意した。今さら努力したところで彼女が戻ってくるはずがないとは思いつつも、行動せずにはいられなかった。何故なら貴子は出ていく前、「もうすぐ職探しをするつもりだ。大丈夫、何とかなるさ」とヘラヘラ笑う公生に対して「じゃあ、自力で安定した生活を送れるようになったら迎えに来てよ。そしたら、きみちゃんのことをもう一度信じてあげる」と言ったからだ。
「今さらだとは思いますし、とても自分勝手だとも思います。でも、最後の最後まで彼女を裏切って終わるのは、今まで信じて待ち続けてくれた彼女に対して本当に悪いことだと思うから。だから、実家に帰ってひとまずアルバイトを始めて。少しずつお金を貯めながら就職活動をしているんですけれど……。やってくる連絡といったら、途方もない数の企業からのお祈りメールだけで。もう、心が折れそうで」
「でも、今までがそんなんだったんだから、そして変わりたいんなら、ここで折れちゃあいられないだろう」
八塚が鼻を鳴らしてそう言うと、公生は大きく頷いた。
「はい、だから僕、〈やり遂げることのできる、堅い意志〉を手に入れたくて」
公生がそう言い終えると、水瀬は「さて、どうするね」と言わんばかりに店主を見据えた。店主はそれに応えることなく、公生をじっと見つめた。――来店時は雲がかかった月のようにぼんやりとしていた公生の瞳は、今はスッキリと晴れて明るく輝いていた。今回は絶対にやり遂げてやるんだという気概を、感じることができる目だった。
店主はにっこりと笑うと、唐突に「プリン、お好きですか?」と公生に尋ねた。面食らって押し黙った公生を気にすることなく、店主はにこやかに続けて言った。
「今日はちょうど特別な卵が手に入ったので、いつもよりも豪華なプリン・ア・ラ・モードをお出ししているんです。――初めての努力で挫折しそうで、でも成し遂げたいから噂頼みでいらしたんですものね。でしたら、是非この〈特別なプリン〉を食べていってくださいな。そしてそれが、公生さんの意に沿うものだといいんですけれど……」
店主は麻の生成り色の三つ編みをピンと弾きながら、くるりと踵を返してカウンターへと戻っていった。しばらくして、店主は色とりどりの果物で飾り立てたプリンを運んできた。思わず、公生は驚いて目を丸くした。
「わっ、すっごいピンク! そのプリン、いちごを混ぜてあるんですか? それとも、食紅!?」
「ベリー類はトッピングにしか使っていませんよ。もちろん、食紅なども一切不使用です」
「じゃあ、どうしてそんなにドきついピンク色なんですか!?」
「ああ、巷じゃあ爬鳥類って出回っていないんだっけ」
驚き続ける公生をよそに、八塚がキョトンとした顔でそう言った。公生が不思議そうに目を瞬かせていると、公生が期待通りの反応を示したのが嬉しかったのか、店主がにこにこと満面の笑みを浮かべて胸を張った。
「やっぱり、普通は食べる機会なんてないですよねえ。爬鳥卵で作ったプリンだなんて。日本では、飼っている農家さんも少ないですから。爬鳥卵は火が通ると鮮やかなピンクや赤に色を変えるんですけれど――」
「いや、だから、あの、ハチョウルイ? ハチョウラン? 何ですか、それは。ハチュウルイではなくて?」
公生は店主の言葉を遮って頓狂した。店主は笑みを崩すことなく、当然とばかりに頷いた。
「はい、ハチョウルイです。――コカトリスって分かります? 鶏と蛇が合体したような姿をしているんですけれど」
絶句した公生は、顔を青ざめさせた。水瀬がまるでコカトリスに睨まれたかのように固まる公生に気遣うように笑いかけながら「大丈夫、美味しいよ」と勧めると、公生はますます動転して目を白黒とさせた。
公生は頬を引きつらせながらもスプーンを手に取ると、恐る恐るそれをプリンに差し入れた。スプーンは意外にも早く器に到達した。
「睨んだ相手を石にするくらいだから、もっと堅いものだと思ってた……。でも、巷のプリンと比べたら相当堅いですね」
訝しがりながらも、公生はスプーンを持ち上げた。――いわゆる〈懐かしの固めプリン〉はおろか、寒天や羊羹よりもやや固い。心がホッと落ち着くような、卵と砂糖が合わさったプリン特有の甘い香りが漂っていて、たしかにこれはプリンであるらしいというのは分かる。だが、ずっしりと重かった。
公生は恐る恐る、スプーンを口に運んだ。そしてこれでもかというくらいに目を見開くと、鼻から深くフウと息を抜き、空いた片手で口元を隠した。そして店主を見つめると、一心不乱にまくし立てた。
「こんなに濃厚なプリン、食べたことない……。驚くほどコクがあって、何だか少し香ばしい味わいがあって。すごく固いからゼラチンか寒天で固めてるのかと思っていたら、気持ちのいい食感だし口の中でとろりと蕩けていくし。――何なんですか、このプリン。本当にプリンなんですか?」
「はい。紛れもなく、プリンですよ。ちょっと特別な、ね」
「これでコカトリスパワーを取り込んで、かたいいしになれますかね!? それにしても、美味しい! ……本当に、美味しい……」
意欲的にプリンを食べ進めながら、公生が突如ポロポロと涙を流し始めた。店主たちはぎょっとすると、どうしたのかと公生に尋ねた。公生は涙を拭いながら、小さな声で返した。
「貴子がよく、プリンを作ってくれたんですよ。レンジでチンの、手抜きレシピですけれど。また食べられる日が、いつか来るかなあ……」
「かたいいしで成し遂げるんだね」
優しげに笑う八塚に、公生は頷き返した。
一年ほどしたのち。公生が再び喫茶月影に姿を現した。公生は以前とは比べ物にならないくらいに凛々しい雰囲気をまとっていたが、しかしながら以前と同じように冴えない表情をしていた。どうしたのかと店主が尋ねると、公生は何とも言えぬ不安げな顔つきでポツリと言った。
「本当に、これでよかったのかと思いまして……」
「と、言いますと?」
店主が表情を曇らせて公生の顔を覗き込むと、公生はバツが悪そうに目をそらした。そして心なしか俯くと、苦い顔を浮かべた。
「僕が成し遂げたことは、結果として貴子を不幸にしてしまったのではないかと思うんです」
何でも、この一年、公生は貴子と全く連絡がつかなかったそうだ。長い付き合いの幼馴染であるにもかかわらず、だ。きっと、貴子は「迎えに来て」と言いつつも今度こそ公生と縁を切ろうと思っていたのだろう。ところが、つい先日、公生は偶然にも貴子と再会を果たしたのだという。
「この一年、僕は本気で心を入れ替えて行動し続けました。マスターさんや八塚さん、水瀬さんとの出会いのおかげで、堅い意志を持ち続けることができたんです。その甲斐あって手堅い職にも就くことができたし、悪い友人とは縁を切りましたし、幾ばくかの貯金もしました」
「それは、素晴らしいことじゃあありませんか。再会した貴子さんも、公生さんの変わりように喜んでくれたんじゃあありませんか?」
「いえ、それが……。逆に泣かせてしまって……」
連絡の途絶えていた一年の間に、貴子は貴子で「過去に踏ん切りをつけて、前を向いて歩いていこう」としていたそうだ。そのため、公生と再会したときには新しくできた恋人と婚約していたという。そして、彼女は泣きながら「遅いよ、きみちゃん。遅すぎるよ」と呟いたそうだ。
「僕は貴子の新しい門出を祝福しようと思いました。でも、彼女は『約束は約束だから』と婚約破棄して、僕のもとに戻ってきたんです。……僕のしたことは結局、彼女を振り回しただけだったんじゃないか。新しい恋人と一緒になったほうが、貴子は幸せになれたんじゃないかと思わずにはいられなくて。それで、『心からの笑顔が、プリンのお代』とのことでしたけれど、到底お支払いできる気がしなくて、やっぱり現金支払いできないものかとご相談を思いまして……」
店主と一緒に話を聞いていた八塚は厳しい表情を浮かべると、思い切りバシリと公生の背中を叩いた。公生が驚き戸惑っていると、八塚はピシャリと言い放った。
「かたいいしの生み出した結果そうなったんだったら、それからのこともかたいいしでやり通すしかないだろう! ここからが男の見せどころだ、しっかりおしよ!」
「……お代はいつまでもお待ちしておりますから。かたいいしで、まずは貴子さんを笑顔にしてあげてくださいな」
店主がそう声を掛けると、公生はにこりと笑って頷いた。以前の〈頬の引きつった作り笑い〉と比べたら、笑うことが上手になっていた。――笑顔を取り戻した貴子と一緒に、貴子の作ったプリンを食べる日が訪れたら。そうしたらきっと、公生は支払いのための来店を果たすことができるだろう。そう信じて、店主たちは公生を再び送り出したのだった。
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それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
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