声なき王子は素性不明の猟師に恋をする

石月煤子

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声なき王子は素性不明の猟師に恋をする

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凍てついた寒さに指先がかじかんでくる。

マントを纏う細身の体どころかセピア色の髪の先まで容赦なく冷えていくような。

まるで殺気にも似た緊張感に張り詰めた鋭さ。



いや、確かに命をとられかねない。

気を抜けば膨大な疲労に押し潰されてそのまま亡骸と成り果ててもおかしくはなかった。



雪に足をとられてうまく歩けない。
いっそこのまま死んでしまおうか。



国王が重い病に臥し、正統な王位後継者で腹違いの兄君は妾の子である庶子の私に毒を盛った。

死は免れたが声を失い、幼子の頃から世話役としてそばにいてくれた婆やは涙ながらに遠くへ逃げるよう進言してきた。



『誰も信じてはいけない。一人で行きなさい』



城を飛び出して見知らぬ国境の森まで逃げてきたが、これからどう生きたらいい……?


いつの間に雪がやんだ針葉樹林の奥深くで彼はとうとう膝を突いた。

自然と上体が積雪の上へと倒れ込む。

呼吸は掠れ、感覚が麻痺するのに時間はかからなかった。



何だ、こんなに楽じゃないか。
死とはもっと恐ろしいものだと思っていた。


切れ長な瞳から流れ落ちた涙にも気づけずに彼は、十八歳のロスティアは、ゆっくりと目を瞑った。



* * *




暖かい。

これが死後の世界か。

こんなに暖かで安らかなものだとは思いもしなかった。

しかも鼓動を感じる。



死んでも心臓は脈を打つというのか……。


「起きたか」


自分に向かって落ちてきた声にロスティアはゆっくりと目を開いた。

「具合はどうだ?」

見知らぬ長身の男が自分を見下ろしている。

水晶の色をした鋭い双眸が綺麗だ。

引き締まった筋肉質の体で、あちこち解れて着古したような羊毛の防寒着は胸元がやや開いており、凹凸豊かな雄々しい喉元が露になっている。

無造作にハーフアップ結びされた、鎖骨に届く長めの髪はダークブロンド。

無駄な贅肉のないフェイスラインはシャープな線を連ね、精悍な顔立ちを引き立てていた。



ここは死後の世界ではない。
私は生きている。



「急に動くなよ」


寝台で仰向けに寝ていたロスティアに男がすかさず言う。

最初の一声と比べると鋭く尖っており、目覚めたばかりの思考では十分に飲み込めず身じろぎ一つすれば。

すぐそばで獣の唸り声が聞こえた。

寝惚け眼にそれを見やったロスティアは愕然となる。

何と、自分の真上に二頭の狼が折り重なって寝ているではないか。


「いきなり起こすな。機嫌を損ねたら噛まれる」


眠気が一気に遠退いて硬直したロスティアに男は淡々と注意を促した。

覆い被さっているのは灰色狼と白狼で、どちらも成獣だ。

本気で噛まれたら大怪我どころではない、本当に天に召されるだろう。



一体、どうしたらいいんだ。
そもそも、どうしてこんな事になったんだ。



ロスティアは目を見開かせて寝台の傍らに立つ男を一心に見上げた。


「こいつ等があんたの上で勝手に眠ったんだ」


そんな。
眠る前に退かしてくれたらいいのに。


「暖がとれていいだろう。そもそも雪に埋もれていたあんたを見つけたのはこいつ等だ。感謝しろよ。発見が遅れていたら死んでいたぞ」


はっきりと物を言う男である。

何枚ものブランケットに大型動物の毛皮、その上に被さる本物の獣二頭の重さをロスティアはやっと痛感し、額に汗を滲ませた。



ありがとう。

そう言いたかった。

それなのに声が出てこない。



ロスティアは男を見上げたまま口を何度か開閉してみせた。

声が出せない事を伝えたかったのである。


「腹が減ったのか?」 


ち、違う。

まぁ実際に空腹ではあるが、私は貴方にお礼を言いたいのだ……。


「お綺麗な顔に見合わず図太い性格だな。まぁ、いい。何か持ってきてやる」


男はそう告げると颯爽とロスティアの視界から去った。

男がいなくなり、眠る獣と残されて急に心細さを感じたロスティアは一先ず辺りを見回した。

石造りの壁や梁だらけの天井には立派な毛皮が幾重にもぶら下げられている。

剥製などは見当たらない。

無造作な出来のサイドテーブルは若干斜めであり、置かれた洗面器は微妙に傾いていた。



見つけてくれたのは狼らしいが、ここまで運び、看病をしてくれたのはあの男性だ。
彼は何者なのだろう。
こんな山奥に一人で暮らしているのか。



ロスティアがぼんやりと男の正体について考えていたら本人が大股で戻ってきた。

手にはアルミ製のカップが握られている。

スパイシーな香りが部屋の中を漂い、どうやらそれが狼達の嗅覚をも刺激したようだ。

ロスティアの薄っぺらな腹の上で灰色狼がおもむろに頭を擡げた。


「お前の玩具がお目覚めだぞ」


玩具呼ばわりされて固まるロスティアを灰色狼は覗き込んできた。

偽りを貫くような聡明で美しい眼だ。

ロスティアは恐怖を忘れてその輝きに釘づけとなった。

べろりと大きな舌で頬を舐められた際には声にできない悲鳴を上げたが。


「気に入られたな、あんた」と、呑気に男が言う。


舐められ続けているロスティアは目を白黒させるばかりだ。

下手に抵抗したらガブリといかれるかもしれないと、逃げ出したい気持ちを懸命に抑える。

次に目覚めた白狼からまたも舌の愛撫を受けると巨体を支えきれずに情けなくベッドへ埋もれた。


「せっかく助けたのに窒息するぞ。その辺にしておけ」


男が短い口笛を鳴らす。

二頭の獣は大きな耳をピンと立てて寝台から飛び降りた。

放心しているロスティアに男は笑いつつカップを差し出す。


「温めたミルクに香辛料を混ぜた。熱いから、ゆっくり飲むといい」


スパイシーな香りを間近にしてロスティアは我に返り、受け取ろうとした。

しかし手が震えてうまくカップを握れない。

凍傷は寸でのところで免れたが指の腹は何箇所か裂けて血を滲ませていた。



男は難儀するロスティアに声をかけるでもなく冷たい手に自分の手を重ねた。

心身を落ち着かせる温かい飲み物にロスティアはほっとする。

男の手を借りてあっという間に飲み干した。

喉の奥からじんわり熱くなっていくのを感じ、寝台のそばにいる狼達への警戒も一端解いて、人心地つく。


「飲んだな」


アンバランスなテーブルにカップが下ろされる。

ロスティアは口元を拭い、男を見た。

彼は床に腰を下ろして狼達と戯れ始める。

森を自由に駆ける獣は謎めいた男に至極お似合いであった。



この人は礼を言わない私を不快に思わないのだろうか。

手荷物一つで森を突っ切ろうとしていた私に疑問を抱かないのだろうか。

何も事情を聞こうとしない。

私は言葉をかけたいのに声が出ない……。


「――どうした」


向きを変えて真正面から自分を見つめてくるロスティアに男が尋ねた。

長い鼻頭を擦りつけてくる白狼の頭を広げた掌で撫でながら彼は首を傾げる。

ロスティアは必死に男を見つめたまま「ありがとう」と呟いた。



声にはならなかったが。
視線と唇の動きで届くよう祈りながら。


「……ああ、別に。構わない」


よかった。
届いた。



ロスティアは気持ちを伝えられた喜びに頬を緩め、次に自分の喉を指差し、首を左右に振った。

男は水晶の双眸をすぅっと細めてロスティアを見つめた。



「あんた、ひょっとして話せないのか」







風が恐ろしげな音を奏でる。

誰かの断末魔のような細く高い音色。


寝台の上で毛布に包まり座り込んでいたロスティアは王族の紋章が刻まれたペンダントの中に潜む写真を眺めていた。

今は亡き母親が色褪せた姿でそこにいる。

流行病にかかり城の片隅でロスティアと婆やにのみ看取られて死んでいった、美しい人だった。



ペンダントが閉じられる些細な音に灰色狼の片耳が僅かに震えた。



あ、すまない。



一瞬牙を覗かせて唸った灰色狼であったが、すぐに夢の続きへと戻っていった。

ロスティアはちょっと怯えたものの寝台を下りようとはせず、そっと膝を抱いた。



シーアンはもう寝たのだろうか。



彼は隣の部屋で白狼と寝ていた。

寝台はロスティアに譲り、自分は暖炉前の長椅子で眠るという。

扉がなく音は筒抜けのはずだが壁の向こうから聞こえる物音はすでになかった。



シーアンは猟師だという。



年齢は二十八歳、この住居の隣に仕事場の小屋があり、そこで獣を捌いて肉は食料に、よい毛皮ができあがれば麓の町で売るか交換して生活に必要な品を得ているらしい。



日々生きる事に対し無駄のない生業だとロスティアは思った。



王族の者には金に汚く、色に明け暮れ、下々を見下す人間がいる。

腹違いの兄がそのいい例であった。

彼が継ぐとなると国の行く末が危ぶまれる。

だけど、もう、私はあそこには戻れない。

そもそも妾の子で正当な継承者でもあるまいし……。



一人で生きていかなければならないのだ。







「あんた、風邪を引くぞ」


白銀の大地の上で薄着姿のシーアンがブランケットを頭から被って外へ出てきたロスティアに言う。



吐く息はどこまでも白かった。

灰色の空へゆっくりと舞い上がって溶けていく。

木々の纏う雪の純白さは寝起きの目には些か毒だった。



ロスティアは何度も瞬きしながら薪割りに勤しむ男へ近づいた。

ロスティアが手を差し出したのでシーアンは首を傾げる。


「何かほしいのか」


ロスティアは首を左右に振り、シーアンの握る斧を指差し、次に自分を指した。


「割りたいのか?」


頷く。

シーアンは無理だとも何も言わずに斧を渡した。

なかなかの重さにロスティアは動揺したが、ブランケットを雪の上に落とし、それを振り上げた。



「ッ……ッ……!!」



鈍い音が静まり返った森の懐で響く。


「まだあんたには早かったな」


立てかけた薪に不恰好に刺さった斧を軽々と抜き、シーアンは両手の痺れを必死で堪えるロスティアに小さく笑う。


次の瞬間、小気味いい音を立てて薪が二つに割れた。


「俺がするのを見ていればいい。自然と覚えるだろう」


ブランケットを被り直したロスティアは後退し、言われた通り、シーアンが薪を割るのを眺める事にした。



彼の肉体はどこもかしこも頼もしい力強さに溢れていた。

かぎ編みの防寒着をさり気なく盛り上げる胸板、筋張った腕、程よく締まった腰。

不敵な眼差しは片時も揺るがない。



獣を狩る時、彼はどんな表情を見せるのだろうか。

この人も森を駆る獣と化すのかもしれない。


「今日は荒れそうだ」


シーアンの呟きを聞いてロスティアは空を仰ぐ。

どこをどう見て天候を読んだのか。

樹氷越しに広がる空はただどこまでも同じ灰色で、さっぱりわからなかった。



この人から学びたい。生きるための術を。

迷惑だろうか。

話もできない者に、そばにいられたら……。






シーアンに読み書きができないと言われ、文字を書いて言葉を伝えようとしたロスティアは見事に頓挫してしまった。


「悪かったな」


詫びられたロスティアは思い切り首を左右に振った。

か弱げな手でシーアンの服を掴み、眉根を寄せて彼をじっと見上げる。

ジェスチャーと視線しか頼るものがない彼は「貴方は悪くない」と切れ長な双眸で伝えようとした。



暖炉の前で折り重なった狼達は人間二人の言葉のない遣り取りを無邪気に見守っている。

外では雪を伴う風が逆巻き、相変わらず慟哭じみた音色を起こしていた。



自分を真摯に見上げ続けるロスティアにシーアンは頷いてみせた。


「あんたは優しいんだな」


優しいのは貴方だろう。



ロスティアに指差されたシーアンは「それはない」と首を左右に振って一笑したのだった。







嵐は二日続いた。

出るにも出られず、ロスティアはシーアンと共にいた。

群れを離れたという珍しい狼二頭で時に暖をとり、すっかり慣れて愛着を覚え、時間が経つのを忘れて戯れたりもした。



話ができない身であるが故に会話を求めぬ獣達といるのは居心地がよかった。



それは人間であるシーアンにも言えた。



彼は最低限のジェスチャーと真っ直ぐに繋げた視線でロスティアの言葉を容易に察してくれた。

一つ一つ、気持ちが伝わる度にロスティアは嬉しくて、城ではあまり見せなかった笑顔をよく浮かべるようになった。



この人と一緒に月日を過ごせたらどんなにいいだろう。



その思いは彼に伝わらないようにした。

無理な話だとわかっていたから。

曝した瞬間、嫌な顔をされたらと思うと。

二度と癒えない傷を負ってしまいそうな気がして。







その者達には見覚えがあった。

嵐がやみ、早朝から狩りに出たシーアンを一目見たく、闇雲に森の中を彷徨っていたら遭遇した相手。


「これはこれは。嘆きの壁の花ではありませんか」


向こうもロスティアを覚えていた。

兄を護衛する武装従者の内の二人だ。

黒ずくめの装束と抜き身の殺気で周囲を威圧する手練れ共。

「嘆きの壁の花」とはいつも城の片隅で虚ろにしているロスティアを揶揄した呼び名だった。


彼等が何故ここに?


「お声が出ないようで」
「好都合というもの」


戦闘経験がなく武道の一つもろくに習得していないロスティアはあっという間に打ち倒された。

雪の上に縫い止められて身動きを容易く封じられ、恐怖に射竦められる暇もなく、頭上に短剣を振り仰がれる。



何故。

私は城を出たというのに。

王位は兄君が継ぐというのに殺されなければ……?


「殺しはしません」


黒布で顔の半面を覆う従者はさも愉快そうに言った。

殺しに慣れ、血に飢えた彼等は半ば常軌を逸した殺人集団でもある。

淀んだ目は美しく凍りついたロスティアに欲望を煽られて露骨にぎらついていた。


「ただ、目を頂こうかと」
「物言えぬ体で盲目ともなれば王も諦めましょう」


どういう事だ。


「血で穢された王子を犯すのも、また、一興……」


黒布の下で卑しい笑みを刻んだ従者は短剣を振り翳す。



しかし剣先はロスティアに届かなかった。

いずこから放たれた鋭き刃が従者の手首に突き立ったのだ。


「!」


もう一人の従者に対しても臨戦態勢に入る間も与えずに次の刃が襲いかかった。

片目に突き刺さる、その途方もない痛みに迸った悲鳴が再び森の静けさを貫く。


「次にそいつに触れてみろ」


それまで聞こえもしなかった、雪を荒く踏む足音にロスティアは強張りがちな視線を背後へ向ける。

擬態のため毛皮を身に纏ったシーアンが猟銃を構えた姿勢で視界を訪れた。


「眉間に向かって引き鉄を引く」


その身に刃を突き立てたまま負傷者は俊敏に去っていった。


やってきたシーアンは雪に埋もれていたロスティアを抱き起こすと、滑らかな頬に飛んでいた血をすぐさま拭った。


ロスティアはやっと自分がおかれていた状況を実感し、震えた。

真上に迫っていた短剣の輝きを思い出して背筋を粟立たせた。


「大丈夫だ」


シーアンは怯えに揺らぐロスティアの切れ長な眼を覗き込む。


「奴等はもういない。あんたは生きてる」


今までで一番近い距離で視線が繋がった。



「俺がここにいる」



そばに投げ出された短剣の柄には王族の紋章が彫られていた。

ロスティアの持つペンダントに刻まれたものと同じ王冠が。




* * *




知っていたのだと思う。

自分が王族の人間である事を。

きっと最初の介抱でペンダントを見かけたのだろう。





翌日、王の正式なる署名入りの書状を手にした者達をシーアンが連れてきた。

彼等はロスティアを見るや否や胸を撫で下ろして涙まで滲ませた。


「ロスティア王子、貴方が次なる王の後継者と決まりました」

「王はもう今日か明日の命でございます。どうか、最期を」

「王妃様もご承知しております。むしろ王妃様のご本望であられます」

「さぁ、早く」


次々と差し出される手を戸惑いがちに見、ロスティアは、壁際に佇むシーアンを見つめた。

彼は見知らぬ訪問者に殺気立つ狼達をさり気なく抑えていた。



外では雪が降り始めていた。



「これでいい」



ロスティアの視線の先で、彼の問いかけを感じ取ったシーアンは壁際に立ったまま返事をする。


「隣国の王が倒れたのは知っていた。上の王子のよからぬ噂も、な。だが下の王子については何も」


刃を投げる寸前に聞こえた男の台詞でもしやと思った。

ペンダントを目にして王家の人間だろうと粗方予想はついていたが、まさか直系とは。



そして今日、麓の町に下りてみれば行方不明となった王子を探しているという城の一行に出会った。



「王冠はあんたに相応しい。王子」



……貴方は言ってくれたのに。
……俺がいるからと。









城へ戻る途中であった。

殲滅を目的とする十数名の武装従者による襲撃に遭い、雪原は血に濡れた。



馬に乗せられていたロスティアは直ちに下ろされた。

そばにいた城仕えの者達が次々と無慈悲な刃に斬られ、死んでいく。

噴き上がった血飛沫が無情にも新たな雪に覆われていく。



やめろ。
殺すな。
私だけを殺したらいい。



叫ぶことすらできない絶望の中でロスティアは自分を守ろうとする腕を潜り抜けた。


「王子!」


最重要なる標的に襲撃者の視線が集まった。

小高い丘の上にいた者が弓を、横手に迫っていた者がすでに血で滑る刃を振り上げる。



その時だった。
二頭の獣が力強く地を蹴ったのは。



弓を番えていた者はふくらはぎを、剣を振り上げていた者は利き腕とは別の腕を一瞬にして失った。



……ああ、お前は……!!



ロスティアのすぐそばに降り立った灰色狼は鼻頭に皺を寄せて歯肉を剥き出しにし、周囲に唸った。


片腕を失い斜面を転がり落ちてきた者は石に頭をぶつけて絶命し、突然の鮮烈なる返り討ちに襲撃者達は動じ、劣勢でありながらも必死に応戦していた城の者達は士気を上げた。



そして彼はまたも現れた。
ロスティアの命を何度も救ってくれた強き男。



ロスティアは目を見開かせてシーアンが立ち塞がる敵を尽く蹴散らすのを見た。

緩やかな曲線を描く剣は振るわれる度に鮮血を迸らせて相手を雪に沈める。

放たれる刃は血肉の奥深くまで突き刺さり、瞬く間に戦意を喪失させる。



尋常ならぬ強さを目の当たりにし、仲間を倒されていく屈辱に滾り、矜持を保つため襲撃者の攻撃がロスティアからシーアンへと変わった。

水晶の眼に獣性の鋭さを宿したシーアンは多勢に怯むでもなかった。

的確に、俊敏に、容赦なく急所を攻めては立て続く渾身の一撃を緩やかにかわす。



ロスティアは灰色狼を抱いて懸命に見守っていた。

もしやという恐れで加速する心臓の動悸に胸を苛まれながらも目が離せなかった。



丘に潜んでいた者達は白狼の牙に屠られ、血塗れの体で雪原に蹲って悶絶していた。

最後の一人がシーアンの一閃により声もなく伏す。



ロスティアは彼に向かって駆け出した。



城仕えの者達の制止を振り切って、白く色づいた息を吐き散らし、灰色狼と共に何よりも大切な者のそばへ……。



シーアンはこちらへ駆け寄ってくるロスティアを見ていた。

その隙を見逃さなかった者がいた。

最後に斬られた黒ずくめの武装従者が彼の背後でゆらりと立ち上がる。

その手には、なけなしの力を振り絞って握り締められた長剣があった。

ロスティアはスローモーションのように振り上げられた腕を見、叫ぶ。

自分が声を失っていた事も忘れて。

その愛おしい命を守りたくて。



シーアン……………………!!!!



どこまでも広がる雪原の白く淡い光を受けながら剣は振り下ろされた。





* * *





礼拝堂に鐘の音が響き渡る。

喪に服した参列者達は頭を垂れて黙祷を捧げる。

繊細な細工の施された棺の中で眠る死者との別れであった。




「偉大なる王に祈りを」




祭壇に立った司祭が十字を切るのを見習い、ロスティアも胸元で手を翳した。



父王はロスティアの両手を握りながら死んでいった。

亡き母と我が子への懺悔を掠れた声で囁きながら、それはそれはゆっくりと瞼を閉ざしたのだ……。



「ロスティア、次は君の戴冠式だな」



隣に着く男の声にロスティアはそっと頷く。

男は葬儀中であるにも関わらず人懐っこそうな笑顔を浮かべ、肩に手を乗せてきた。


「国を、我々を導いてくれ。弟よ」


喪が明けた後には戴冠式があり、そして、処刑が控えていた。

王位後継者の命を狙った武装従者の生き残り全員が斬首刑に処せられるのだ。

ロスティアは反対したがこの男は刑の執行を推し進めた。

代々この国の礎を築き見守ってきた長老衆もその件については全員が処刑を望み、次なる王の意見は却下されてしまった。



「僕の知らないところで恐ろしい計画を立て、実行に移した彼等を生かしておくわけにはいかない」



武装従者はすでに牢に捕らえられて目と口を縫われていた。

真実はもう誰の口からも語られないのだろう。



……この兄君が隣にいる以上私の命は度々危険に晒されるに違いない……。



父君に託された国を守るために命を賭すのは当然だ。
民のためにも。
この身を捧げなければ。


私の盾となって今は土深くに眠る者達のためにも。
母のためにも。







そして。








年中雪に支配されたこの国に太陽の日が差す時間は限られている。

今、広大な雲の切れ端が光に滲んで、真っ白な大地に光の梯子がかかろうとしていた。



外に出ていたシーアンはふとそんな空に目を奪われてしばし佇んだ。

二頭の狼は森に遊びに出ている。

時折、尾を引く遠吠えが奥の方から聞こえてきていた。



そして。

日の光は寒々しい大地に訪れた。



雲間に澄んだ青空が覗き、その眩しさに思わずシーアンは目を閉じる。

不意に雪を踏む音が柔らかな日差しに染められた空気を伝って鼓膜に届いた。

目を開けてそちらを見る。

久方に青い空を見たせいで視界はぼやけており、最初は曖昧な世界が広がっていた。



「相変わらずここは寂しいわね、墓場みたい」
「ああ、ラウラか」



厚手の外套を着込んだ女性が馬に乗ってシーアンのそばまでやってくる。

羽織るものもなく上は着古した防寒着一枚という薄着の猟師を見下ろして身震いし、下りようともせずに言った。


「毛皮を取りにきたの」
「何と交換だ?」
「金貨よ。寒いから早くして」


シーアンは仕事場の小屋へ引っ込み、先日仕上がったばかりの美しい毛皮をとってきた。

馬の背に乗せてやると、ラウラと呼ばれた若い女性は外套の懐から金貨の入った袋を取り出した。


「毛皮を渡して金貨を受け取ったぞ。さっさと帰れ」
「待って、サインをちょうだい。金貨の場合だと兄さんがうるさいのよ」
「しょうがないな」


今度は布袋から取り出された羊皮紙とインクを突きつけられる。

シーアンは自分の名前と毛皮を渡したなどの仔細を速やかに書いてラウラに手渡した。


「ああ、それからね」と、馬の手綱を引いて方向転換する際、彼女は突っ立っているシーアンとは別の方を指差す。


「ここに来る途中で会ったの。アンタの知り合いみたいだったから連れてきたわ」


シーアンはラウラの指差す方を目で追い、立派な杉の大木に隠れるようにして立っていたマント姿の彼を見つけた。

去り行くラウラに頭を下げ、入れ代わるようにして隣国の王は目深に被っていたフードを外し、シーアンの前に立つ。



「久し振りだな、王子」




複数の死者を出したあの襲撃からひと月。

声のないロスティアの叫びはシーアンに伝わった。

背後に迫る敵に気づき、振り向きざまに剣を突き出し、見事、水晶の目を持つ男は敵の戦力を断ったのだ。


「そういえば礼を言っていなかったな。ありがとう。あの時、俺を救ってくれて」


シーアンが礼を言う。

言われたロスティアは笑い返すでもなく、どこか探るような目つきで彼と対峙していた。

そしてロスティアは手を掲げると虚空に文字を書く仕草をした。


「ああ、見ていたのか」


読み書きができないと言っていたはずのシーアンがすらすらとサインするのを大木の陰からロスティアは見ていた。


どうして嘘をついたのだろう。
もっと容易に意思の伝達ができたというのに。


シーアンは気まずそうにするでもなく、言葉を濁すでもなく、不思議そうにしているロスティアに笑いかけた。


「あんたの視線が心地よくて、な。直向な目が俺だけに向けられるのが嬉しかった。文字よりもその目で語られたかったんだ」


ロスティアは目を見開かせた。



冷たくも澄み切った清らかなる風が、太陽の眩い恩恵を授かって煌めく雪の上を吹き抜けていく。



「恋しがっていた匂いが森に届いたみたいだ。あいつ等が降りてくる」



親しい狼の鳴き声をかろうじて聞き取ったシーアンは木立の奥へ目を向けた。



「灰色は寂しがっていた。お前が使っていた寝台に一日中寝そべっていてな。白もつまらなさそうにしていたぞ」

「私も寂しかった」



立ち並ぶ針葉樹林に視線を向けていたシーアンは珍しく愕然となった。

すぐに彼を見る事ができずに同じ姿勢のまま立ち尽くす。

見慣れたはずの風景に違う色が生まれたような、そんな鮮やかな錯覚を覚えた。




「貴方達に会いたかった。会って、山ほど伝えたい事があった」




城に戻ってきたロスティアを一番に出迎えたのは婆やであった。

堅牢なる門前にて、別れた時よりも彼女は涙し、長い抱擁を望んだ。

彼女の隣には見知らぬ男がいた。

男は遠い異国からはるばるやってきた医者であった。

東洋の衣を纏った彼は貴重な薬草を煎じてつくったという飲み薬を携えていた……。



「ありがとう、シーアン」



シーアンはやっとロスティアを見た。

ロスティアは彼を見つめていた。

今までと同じように水晶の双眸だけを一心に。



「私を何度も救ってくれた心強き人」



シーアンに抱き締められてロスティアの声は彼の胸へ吸い込まれた。



「視線だけで十分だと、言葉などいらないと思っていたが」
「……」
「あんたの声で名を呼ばれるのも悪くない、王子。いや、隣国ウィズスノイトの国王陛下……」



狼達が戻ってくるまでの間、二人はそうして抱き合っていた。






視線を合わさずとも、言葉を交わさなくとも。

重なった場所からは想いが溢れ出て互いの胸に伝わっていた。






もう、貴方を、離さない。






end

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