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「――それ以来、自分を責めて血を我慢していたんでしょう。でも拓斗君を助けるために伊吹生さんは飲血に至りました」
ひどく優しげな声色で凌貴は話す。隣で硬直していた拓斗は、首の据わらない赤ん坊のように頭を傾げ、伊吹生に問いかけてきた。
「俺のせい?」
「そうですよ」
凌貴が即答する。
テーブルを大股で迂回した伊吹生は招かれざる客人の隣に立ち、断言した。
「拓斗のせいじゃない。俺が血を飲んだのは乾杯を命じてきたコイツのせいだ」
「でも……俺がノスフェラトゥに行かなかったら……」
「拓斗。今日はもう帰ってくれるか。頼む」
伊吹生に再三帰るよう言われ、拓斗はやっと席を立つ。たどたどしい手つきで食器をオカモチに仕舞い、事務所を出ていこうとした。
「また今度、拓斗君」
凌貴に声をかけられると背中をビクリと痙攣させ、振り返らずに早足で退出していった。
「俺の身辺調査をしたければ勝手にやれ」
込み上げてくる怒りを抑え、押し殺した声で伊吹生は呟く。
「でも過去を掘り起こすな。拓斗を巻き込むな」
「隣に来たとき、殴られるかと思いました」
これ以上、構っていられない。伊吹生は平気で居座る客人から離れようとした。
「菖(あやめ)さんは、なかなか素敵な方ですね」
その名前を口にした凌貴に、すかさず言い放つ。
「本当に殴られたいのか」
「貴方になら喜んで両方の頬を差し出しますよ」
立ち上がった凌貴がまた無駄に距離を詰めてくる。後方への退路はパーテーションに阻まれ、伊吹生は挟まれる格好になった。
「拓斗君といい、菖さんといい、心配性の伊吹生さんは普通種たらし、とでも呼ぶのでしょうか」
「いい加減、俺の前から消えてくれないか」
「十年前の、こんな夏の日」
「……」
「菖さんはマンションの隣室まで聞こえる声で、やめてと叫んでいたそうですね。嫌がる相手の血を無理やり奪った罪悪感から、あの夜までずっと血を断っていたんでしょう? 随分と思い入れのある普通種なんですね?」
伊吹生は真正面から凌貴を睨みつけた。
「菖は俺の兄弟で家族だ。それ以外でも何でもない」
「家族と言っても母親の再婚相手の連れ子。血の繋がりはありませんね」
少しだけ間隔を空けると、凌貴は、緩んでいた伊吹生のネクタイをきちんと締め直した。
「先月のあの夜、クラブのスタッフに暴力を振るったでしょう。その件で話をつけたのも僕ですから。一応、伝えておきますね」
視界に尾を引く嗜虐的な微笑を残して凌貴は去っていった。
「暴力を振るわれたのは俺の方だ」
たちが悪い同種と関わってしまった。伊吹生は締め直されたばかりのネクタイを歯痒そうに緩めるのだった。
伊吹生の両親は「吸血種」で共に弁護士をしていた。
伊吹生が小学校低学年の頃に離婚し、一緒に暮らしていた母親は一人息子が高校生になると「普通種」の男性と再婚した。再婚相手にも高校三年生になる一人息子がいた。それが菖だった。
新しい父親は洋食レストランを経営する自営業者で、多忙な母親と同じく家にいることが少なく、下校すれば大抵、伊吹生は自宅マンションで菖と二人きりになった。
『伊吹生って食べ物でアレルギーとかある?』
父親の店の手伝いをしていた菖の手料理は、どれも美味しかった。伊吹生の母親は店の常連で、お互い、再婚前から顔見知りだったという。
中性的な名前に見合う繊細そうな外見とは裏腹に気丈でしっかり者だった菖。
自分より図体のでかかった二つ年下の「吸血種」を弟として極自然に迎え入れてくれた。
優しかった兄が大学進学のため家を出、二年後には伊吹生もまた地元を離れて私大の法律学科へ進んだ。
その年の夏だった。
八月、実家へ帰省しようとしていた伊吹生は、地元に到着した矢先に事故現場に出くわした。まだ警察や消防が駆けつける前で、車の下敷きになった被害者を通行人が懸命に励ましていた。
アスファルトには血溜まりが広がりつつあった。
伊吹生は直ちにその場を離れた。片手で口と鼻を覆い、無心になって帰路を急いだ。春振りに再会する街が牙を剥いて襲いかかってくる錯覚に心拍数が跳ね上がっていた。
実際、牙を剥いたのは伊吹生自身だった。
血を望む本能に意識を乗っ取られ、一足先に帰省していた菖を玄関でがむしゃらに抱き寄せ、彼の首筋に乱杭歯を。
二人きりの自宅、サイレンが近づいてくる八月の昼下がり、人ならざるものにも等しい吸血鬼へ……。
「……先生が受任通知を出したら督促がやむんでしょうか?」
「……」
「あの、先生?」
伊吹生はハッとした。
打ち合わせ中、回想の波に意識を攫われていた司法書士は、真正面で怪訝そうにしている相談者に焦点を合わせた。
「本日中に受任通知を発送するので、各社の受け取りで多少のズレは生じますが……」
新規の委任契約を交わし、依頼人が帰った後、債務整理の手続きを始める。
電話が鳴れば中断し、消費者金融からの和解金交渉の場合はファックスで送るよう伝え、裁判所から民事訴訟の期日の連絡が入ればスケジュールを確認して返答する。
慌ただしい数時間が過ぎて一息ついたのは夕方だった。
ビルの斜向かいにあるコインパーキング前の自販機で缶コーヒーを買い、気分転換もそこそこに事務所へ戻る。ストレッチ代わりに背伸びをすれば、あちこちの関節が鳴った。
(調査だけに留めているんだろうか、アイツは)
十九歳の夏、それ以降、実家からは足が遠退いていた。冠婚葬祭に顔を出す程度で長居はせず、菖のみならず両親に対しても余所余所しい態度をとっていた。
(三人の生活を脅かしたりしないだろうか?)
出会ったその日から要注意人物扱いとなった凌貴が何かしらの問題を起こしそうで気がかりだ。
「心配性で悪かったな」
やり場のない焦燥を持て余す伊吹生は缶コーヒーを一気に呑み干した。
ひどく優しげな声色で凌貴は話す。隣で硬直していた拓斗は、首の据わらない赤ん坊のように頭を傾げ、伊吹生に問いかけてきた。
「俺のせい?」
「そうですよ」
凌貴が即答する。
テーブルを大股で迂回した伊吹生は招かれざる客人の隣に立ち、断言した。
「拓斗のせいじゃない。俺が血を飲んだのは乾杯を命じてきたコイツのせいだ」
「でも……俺がノスフェラトゥに行かなかったら……」
「拓斗。今日はもう帰ってくれるか。頼む」
伊吹生に再三帰るよう言われ、拓斗はやっと席を立つ。たどたどしい手つきで食器をオカモチに仕舞い、事務所を出ていこうとした。
「また今度、拓斗君」
凌貴に声をかけられると背中をビクリと痙攣させ、振り返らずに早足で退出していった。
「俺の身辺調査をしたければ勝手にやれ」
込み上げてくる怒りを抑え、押し殺した声で伊吹生は呟く。
「でも過去を掘り起こすな。拓斗を巻き込むな」
「隣に来たとき、殴られるかと思いました」
これ以上、構っていられない。伊吹生は平気で居座る客人から離れようとした。
「菖(あやめ)さんは、なかなか素敵な方ですね」
その名前を口にした凌貴に、すかさず言い放つ。
「本当に殴られたいのか」
「貴方になら喜んで両方の頬を差し出しますよ」
立ち上がった凌貴がまた無駄に距離を詰めてくる。後方への退路はパーテーションに阻まれ、伊吹生は挟まれる格好になった。
「拓斗君といい、菖さんといい、心配性の伊吹生さんは普通種たらし、とでも呼ぶのでしょうか」
「いい加減、俺の前から消えてくれないか」
「十年前の、こんな夏の日」
「……」
「菖さんはマンションの隣室まで聞こえる声で、やめてと叫んでいたそうですね。嫌がる相手の血を無理やり奪った罪悪感から、あの夜までずっと血を断っていたんでしょう? 随分と思い入れのある普通種なんですね?」
伊吹生は真正面から凌貴を睨みつけた。
「菖は俺の兄弟で家族だ。それ以外でも何でもない」
「家族と言っても母親の再婚相手の連れ子。血の繋がりはありませんね」
少しだけ間隔を空けると、凌貴は、緩んでいた伊吹生のネクタイをきちんと締め直した。
「先月のあの夜、クラブのスタッフに暴力を振るったでしょう。その件で話をつけたのも僕ですから。一応、伝えておきますね」
視界に尾を引く嗜虐的な微笑を残して凌貴は去っていった。
「暴力を振るわれたのは俺の方だ」
たちが悪い同種と関わってしまった。伊吹生は締め直されたばかりのネクタイを歯痒そうに緩めるのだった。
伊吹生の両親は「吸血種」で共に弁護士をしていた。
伊吹生が小学校低学年の頃に離婚し、一緒に暮らしていた母親は一人息子が高校生になると「普通種」の男性と再婚した。再婚相手にも高校三年生になる一人息子がいた。それが菖だった。
新しい父親は洋食レストランを経営する自営業者で、多忙な母親と同じく家にいることが少なく、下校すれば大抵、伊吹生は自宅マンションで菖と二人きりになった。
『伊吹生って食べ物でアレルギーとかある?』
父親の店の手伝いをしていた菖の手料理は、どれも美味しかった。伊吹生の母親は店の常連で、お互い、再婚前から顔見知りだったという。
中性的な名前に見合う繊細そうな外見とは裏腹に気丈でしっかり者だった菖。
自分より図体のでかかった二つ年下の「吸血種」を弟として極自然に迎え入れてくれた。
優しかった兄が大学進学のため家を出、二年後には伊吹生もまた地元を離れて私大の法律学科へ進んだ。
その年の夏だった。
八月、実家へ帰省しようとしていた伊吹生は、地元に到着した矢先に事故現場に出くわした。まだ警察や消防が駆けつける前で、車の下敷きになった被害者を通行人が懸命に励ましていた。
アスファルトには血溜まりが広がりつつあった。
伊吹生は直ちにその場を離れた。片手で口と鼻を覆い、無心になって帰路を急いだ。春振りに再会する街が牙を剥いて襲いかかってくる錯覚に心拍数が跳ね上がっていた。
実際、牙を剥いたのは伊吹生自身だった。
血を望む本能に意識を乗っ取られ、一足先に帰省していた菖を玄関でがむしゃらに抱き寄せ、彼の首筋に乱杭歯を。
二人きりの自宅、サイレンが近づいてくる八月の昼下がり、人ならざるものにも等しい吸血鬼へ……。
「……先生が受任通知を出したら督促がやむんでしょうか?」
「……」
「あの、先生?」
伊吹生はハッとした。
打ち合わせ中、回想の波に意識を攫われていた司法書士は、真正面で怪訝そうにしている相談者に焦点を合わせた。
「本日中に受任通知を発送するので、各社の受け取りで多少のズレは生じますが……」
新規の委任契約を交わし、依頼人が帰った後、債務整理の手続きを始める。
電話が鳴れば中断し、消費者金融からの和解金交渉の場合はファックスで送るよう伝え、裁判所から民事訴訟の期日の連絡が入ればスケジュールを確認して返答する。
慌ただしい数時間が過ぎて一息ついたのは夕方だった。
ビルの斜向かいにあるコインパーキング前の自販機で缶コーヒーを買い、気分転換もそこそこに事務所へ戻る。ストレッチ代わりに背伸びをすれば、あちこちの関節が鳴った。
(調査だけに留めているんだろうか、アイツは)
十九歳の夏、それ以降、実家からは足が遠退いていた。冠婚葬祭に顔を出す程度で長居はせず、菖のみならず両親に対しても余所余所しい態度をとっていた。
(三人の生活を脅かしたりしないだろうか?)
出会ったその日から要注意人物扱いとなった凌貴が何かしらの問題を起こしそうで気がかりだ。
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