嗜虐的に恋して咬みついて

石月煤子

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5-1-禁忌

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 今にも雨が降り出しそうな曇天の夜だった。

「ヒダカさん、委任状の名前なんですが、住民票の通りに書いていただけますか。ヒダカさんのダカは、はしごだか、ですよね。そちらを書いてほしいんです」

 残暑がしぶとく続く八月下旬。

 一ヶ所だけ蛍光灯をつけた薄明るい事務所で伊吹生は事務処理に励んでいた。途中、食事に出、また戻ってデスクワークに集中する。

 時刻が午後九時になろうとしていたところで切り上げ、ブラインド越しに外を覗いてみれば雨が降り出していた。

 事務所の傘立てからビニール傘を一本取り出し、家路につく。まだ明かりが点いている「マツモリ食堂」の前を通過し、人気が疎らな裏通りを進んだ。

 車一台が通れるマンション裏の薄暗い道で少女は伊吹生の帰りを待っていた。

「心春」

 傘を差さずにフードを被る、雨に濡れた心春と伊吹生は向かい合う。

 少女の片手には小型ナイフが握られていた。

 ポケットからとうとう出されてしまった凶器を見、傘を携えた伊吹生はゆっくりと瞬きする。

「アイツに復讐したい」

 人通りの少ない場所を狙い、事務所ではなく自宅周辺を選んだと思われる心春は、胸の前でナイフを構えた。

「あの吸血鬼から大切な人を奪ってやる」

 びしょ濡れになった肩が大きく上下している。パーカーはか細い肢体に張りついて重たそうだった。

「君と話がしたかった」

 こちらは凶器を持っているのに、一体、何を言い出すのか。心春は面食らった顔で伊吹生を凝視してきた。

「姉の今日花さんや、お母さんとお父さん、君自身のこと。色々、聞いてみたかった」
「アンタと話すことなんか何もない」
「それから殺されるのは御免だ」
「ッ……全部、アイツのせいだから。凌貴がお姉ちゃんにひどいことしたから」

 伊吹生は少女にさらに近づいた。

「人殺しと吸血鬼、何が違う? 君は堕ちてくるな、心春」

 強くなった雨。

 これ以上、心春が濡れないよう、伊吹生はナイフを構える彼女の方へ傘を傾けた。

「お姉さんに似て、君も家族思いなんだな」

 フードの下に覗く心春の瞳が大きく見開かれた。

「な……にも、知らないくせに、私のことなんか」
「君と同じくらいの年齢の子を知っている。その子も家族のことを大事にしてるんだ、とても」
「そんな話、どうでもいい……!」

 すぐそこにいる伊吹生にナイフを突きつけようとし、大袈裟なまでに両手が震え、心春の顔はくしゃくしゃに歪んだ。

「怖いだろ」

 自分の殺害を目論む少女を射程圏内に自ら招いた伊吹生は、尋ねる。

「今、君は俺以上に怖い思いをしていないか。いや、ずっと怖かったんじゃないのか?」
「アンタなんか怖くない……」
「俺は、この乱杭歯で誰かを傷つけることが何よりも怖い」
「嘘ばっかり……吸血種のくせに」
「その手で誰かを傷つけること。君は怖くないか?」

 伊吹生は濡れ渡るフード越しに小さな頭を撫でた。

「もう無理しなくていい、心春」

 心春は口ごもった。

 大粒の涙が湧き上がって、瑞々しい頬へ、次から次に落ちていった。

「お姉ちゃん……お姉ちゃんが……」

 心春は両手で顔を覆う。伊吹生が差す傘の下、心の拠り所にしていた殺意の象徴であるナイフを手放して、泣きじゃくった。

「また……笑わなくなった……ずっとベッドで泣いてる……」

(妹の心春も同じくらい傷ついている)

 彼女が心に負うダメージを家族は把握しているのだろうか。

 後で家に連絡をとらせることにして、一先ず、伊吹生はずぶ濡れの心春をマンションのエントランスへ誘導した。

(待て、ナイフはどうした?)

 扉の前まで来て、ナイフが地面に落ちたままになっているのに気づく。

 振り返れば、水溜まりの中の凶器を拾おうとしていた人物に視線がぶつかった。

 傘を差して屈んでいた相手は、伊吹生と目が合うと、問いかけてきた。

「忽那君と繋がっているんですか?」

 伊吹生は、このとき、その存在を初めて目視で確認した。心春に意識が集中し、周りへの注意力が疎かになっていたために感知すらできずにいたのだ。

「どうして心春まで泣かせるんですか?」

 鎖骨を越す長い髪。ほっそりした首を覆うシンプルなチョーカー。

「……お姉ちゃん……?」

 高岡今日花だった。

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