嗜虐的に恋して咬みついて

石月煤子

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 冷房が効いていて肌寒い部屋。拓斗が言っていた通り、生活感に欠ける殺風景な住まいだった。

「お前のことは信用していないから断る」

 伊吹生はきっぱりと言い切った。

「僕のこと、悪魔だとでも思っています?」
「半分くらい思ってる」
「どうして会いにいったんですか」

 片腕をとられ、抗う暇もなく、黒一色のソファへ。

 若く美しい深黒の獣に押し倒された。

「伊吹生さん、菖さんに未練があるんでしょう」
「……まだ、そんなこと言ってるのか」
「菖さんが貴方に好意を寄せていたのは間違いありません」

 菖と直接的な接触を持たない凌貴に断言されて、伊吹生の脳裏に浮かび上がったのは、数時間前に見た彼の笑顔だった。

『咬みついてもよかったのに』

 十年前、十九歳の、あの夏の日。吸血鬼になりかけた伊吹生に菖は「どうして」と問いかけてきた。

 血を奪われそうになって恐怖し、怯え、裏切られたショックで出た「糾弾の言葉」だと伊吹生はこれまで思っていた。

(一歩間違えば俺も化け物になっていた)

 凌貴と同じ道を辿っていたかもしれない「if」に身震いした。

(菖と話をしよう)

 罪悪感や自己嫌悪から距離をおく日々を重ねてきたが、いい加減、疎んじていた過去と向き合わなければ。恐らく死ぬまで克服できない、どうしようもない弱さを家族に明かそうと思い立った。

『どうして奪ってくれなかったんだろう?』

 菖に「嘆きの言葉」を吐かれたとき、伊吹生は当時の彼の気持ちを知った。

(過去の感情だ)

 菖は、いつまでも伊吹生とは家族同士だと伝えてきた。今の彼にとって、もう、過ぎ去った思い出の一つに過ぎないはず――。

「貴方はどうですか。菖さんのことを、昔も今も愛しているんじゃないですか?」

(俺からしてみれば昔も今も菖は大切な家族に他ならない)

 伊吹生は真上に迫る爛々とした目を見据える。菖への余計な詮索が的を射ていた彼への腹いせに、黙秘を選んだ。

 凌貴は……微笑した。

 冷たい五指を伊吹生の凹凸豊かな喉にそっと絡めてきた。

「ドアベルの音が耳障りな油臭いあの店で二人きりで話をして……想い合っている恋人同士にしか見えませんでした」

 伊吹生はヒヤリとする。

 優しく首を絞められた。

 ひたすら甘やかな眼差しで狂気を振舞う凌貴に心身が痺れた。

(やっぱり悪魔だ、コイツは)

「貴方のこと、殺すみたいに抱いてしまいたい」

 下手に抵抗して加虐心を刺激しないよう、じっとしていたら、両手に力が加わった。

 掌による抱擁が徐々に過激になっていく。

(どうする、いい加減、堪忍袋の緒を切ってもいい頃か?)

 息苦しさが加速する。伊吹生は拳を握った。惜しみない狂気を振り翳す凌貴に、渾身の一撃を見舞う覚悟を決める。

 これがノーダメージに終わったら、その先に待っているのは――。

 ……カリカリカリカリ……

 階段で丸まっていたはずの黒猫がフロアへ降り立ち、玄関ドアを引っ掻き始めた。

 凌貴は耳ざとく聞きつけたようだ。今の今まで夢中になっていた伊吹生の喉から両手を遠ざけ、立ち上がり、玄関へ向かう。

「食事に行くんだね。気をつけて」

 一声鳴いた黒猫に微笑みかけ、ドアを開く前に振り返り、ソファで咳き込んでいる伊吹生に問う。

「伊吹生さんも一緒に出ていきますか?」

 口元を拭った伊吹生は起き上がる。落ちていたトートバッグを拾い上げ、玄関前に立つ凌貴を乱暴に押し退け、黒猫と共に外へ出ようとした。

「名前はイブキにしましょうか」

 伊吹生の足元に纏わりつく柔らかで温かな愛玩動物を見、凌貴はクスリと笑う。

「でも、そんな名前をつけたら、ずっと閉じ込めたくなってしまって駄目ですね」

 伊吹生は何も言わずに部屋を出た。黒猫とは瞬く間にはぐれた。夕闇が蔓延る街の中を一人で突っ切った。

 まだ凌貴に囚われているような気がした。

 不快な息苦しさが喉元にこびりつき、数回咳をして、じわりとかいた汗を大雑把に拭う。

 猫に助けられた。不甲斐ないが、心から感謝した。

 渾身の一撃で凌貴を仕留める自信はゼロに等しかったのだから。

「情けない」

 独り言がポツリと零れる。

(まさか痕なんてついていないだろうな?)

 大股で先を急ぎながら頸部に手をやれば、酷薄な掌の抱擁がまざまざと蘇って、伊吹生は眉根を寄せた。

 そのときだった。

「伊吹生さん」

 すぐ耳元で名前を呼ばれたかと思えば後ろから抱きしめられた。

 突然の力強い抱擁に息が止まりそうになり、立ち竦む伊吹生に、追いかけてきた凌貴は謝罪を……。

「ごめんなさい」

 明かりを宿す街灯の下、西日の余熱が居座る路上で。周囲にいる通行人も目に入っていないのか、凌貴は伊吹生に哀願する。

「僕を嫌わないで」

 伊吹生はただただ途方に暮れた。


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