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しおりを挟む緑茶を飲んでいた拓斗はグラスをテーブルに下ろす。
「本当にありがとう、甫先生」
当時、正にカーニバル・デイの幕が上がる直前、スタッフから控室に残るよう指示されて拓斗は驚いたという。
「俺、自分に落ち度とか不備があって外されたのかと思ったんだ。びっくりしたけど、正直、ほっとした気持ちの方が大きかった」
真夜中の狂騒を経て、夜明け前になっても、大広間へ向かった他の「普通種」は控室に戻ってこなかった。
「数時間も放置された後、スタッフの人がやっと来て、帰っていいって言われて。一人で外に出て、門に向かったら先生がいて。あのとき本当に安心した。大広間に行かなくてよかったって心の底から思った」
高校二年生である拓斗の真っ直ぐな感謝は面映ゆくもあり、伊吹生は小さく頷いて話を終わらせようとした。
「そろそろ帰った方がいい。夏祭りも終わる頃だし、お母さんが心配する」
「……先生、あの話は本当なの?」
「どの話だ」
「大切だった人を襲って、血を飲んだって」
真剣な眼差しをした少年は伊吹生をじっと見つめてきた。
「それが原因でずっと血を我慢してきたの?」
夜なのに蝉の鳴き声が聞こえたような気がした。
口の中に血の味が広がったような。
「……忽那凌貴が話していたことは、半分、本当だ」
「半分……?」
十九歳の夏、あの日。
凄惨な事故現場で理性を揺さぶられ、心許ない足取りでアスファルトを進み、伊吹生は実家のマンションへ辿り着いた。
――血を望む本能に意識を乗っ取られ、一足先に帰省していた菖を玄関でがむしゃらに抱き寄せ、彼の首筋に乱杭歯を。
二人きりの自宅、サイレンが近づいてくる八月の昼下がり、人ならざるものにも等しい吸血鬼へ……。
「あのとき、俺は自分の腕に咬みついた」
すんでのところで伊吹生は「吸血種」の本能を抑え込んだ。
菖を傷つけないよう突き放し、自分の肌身に牙を埋め、暴走を食い止めた。
この血を代用にするつもりはなかった。血への渇望を痛みで紛らわせようとした。鮮血が次から次に溢れ出しても、我が身を虐げ、牙を封じ込め続けた。
「菖は……血の繋がらない普通種の兄は、俺を止めようとした」
伊吹生に咬まれて「やめて」と叫んだわけではなかった。
突き放された菖は、最初はとても怯えていたようだったが、度を越えた弟の自傷行為、夥しい出血に緊急性を見出して救急車を呼んでいた。
「ほら、痕が残ってるだろ」
ワイシャツを腕捲りしていた伊吹生は、右腕を掲げてみせる。確かに小さいながらも二つの痕がうっすら残っていた。
「こうまでしなきゃ、抑えられなかった。貪欲で狡猾で浅ましい自分を」
「ううん。先生は貪欲でも狡猾でも浅ましくもない」
「吸血鬼と化したも同然だ」
「違うよ。吸血鬼にならないよう、先生は頑張ったんでしょ?」
「……」
救急車が到着する前に伊吹生は気を失った。けたたましかった鼓動は鳴り止み、意識は深い暗闇の底に沈んだ。
目覚めれば病室のベッドの上だった。
泣き腫らした瞳で見下ろす菖がすぐそこにいた。
(また、いつか、同じことが起こったら)
その先の過ちに至ってしまったら。
もしも、一滴、口にして。
次を欲して。
止まらなくなったら。
「兄の血を奪おうとした俺は、兄だけじゃなく、俺を信頼してくれた新しい父親を、母を裏切ったも同然なんだ」
それから伊吹生は実家と距離をおくようにした。罪悪感。負い目。自己嫌悪。理由はいくらでもある。
「どうして」と問いかけてきた菖の怯えたような顔は、今でも記憶に鮮明だった。
(菖を怖がらせ、泣かせた……優しかった兄を傷つけた)
自分は吸血鬼になる恐れがある。
誰一人として、この牙の犠牲にしたくなかった伊吹生は自分自身に誓った。
「吸血種」特有の血を望む本能がほんの少しでも薄れるよう、正規品の血液パックだろうと、もう血は飲まないと。
大切な人達を守るために――。
「……それなのに、俺のせいで、先生は」
「いいか、拓斗。何度だって言う。悪いのは忽那凌貴だ」
「でも……」
「悪趣味で上から目線、空気が読めない吸血種の連中を煮詰めて出来上がった煮こごりみたいなアイツが俺に血を飲ませた。それだけの話だ」
「先生にとって、それだけの話なの?」
「もう十分過ぎた。帰る時間だ」
「ノスフェラトゥ」での経緯、伊吹生が背負う過去を知った拓斗は、こっくり頷いた。
「店まで送る」
「え、いいよ、すぐそこだし。でもさ、あの人は勘違いしてるんだね」
事務所のスチールドアを開けた伊吹生は付き添いを断られたにもかかわらず、拓斗と共に階段を下りていく。
「教えてあげたらいいのに。お兄さんのことは襲ってない、潔白だって」
「潔白とは言い切れない」
第六感に長けていそうな凌貴が事実を素通りしている。
誤認していた彼に対して否定も肯定もしなかったが、果たして、本当にそうなのか……。
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