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しおりを挟む結局、その日志摩からのお誘いはなかった。
所詮、教師と生徒だ。岬は仕方ないと割り切った。放課後早々、友達と共に学校から近い繁華街のカラオケへ、二時間満喫した後はファミレスで晩ごはんを食べ、朝からずっとテンションの高いクラスメートと別れて家路についた。
一人だけバス通学であり、賑わう繁華街を突っ切って停留所を目指していたら、視界の隅を過ぎった見覚えのある姿。
志摩だった。
女性を連れて歩いていた。
嘘だろ。
志摩センセェ、彼女いたのか……。
学校じゃない夜の街角。
スタイルのいい女性を連れて歩く志摩はいつもと違って見えた。
何の変哲もない手つかずのヘアスタイル、遊び心皆無なモノトーンのコーディネート、しゃれっ気に欠けた黒縁眼鏡。死んだ魚の目と揶揄される双眸に色褪せた眼差し。
何もかもが同じなのに。
燦然と煌めく色鮮やかな街並みを背景にすると校舎にいるよりも野性的な精気を孕んで見えた。
視界の隅を過ぎった瞬間、志摩であると確信し、その姿に焦点を合わせた岬は棒立ちになった。
数人の通行人にぶつかられると我に返り、視界から消えかけていた姿を慌てて目で追った。目で追うだけでは足りずに足でも追いかけた。人通りの多い舗道で見失わないよう、気づかれないよう、注意して。
何やってるんだ、俺。
岬はスクールバッグの取っ手をきつく握り締めた。
人々の哄笑や車のクラクション、街に溢れるどのノイズよりも自分の鼓動が大きく聞こえる。しつこく騒ぐ胸に呼吸すら苦しくなった。
一言くらい教えてくれたらよかったのに。
自分には彼女がいる、だからキスしない、単なる慰めにそんなモン必要ないって……。
今からその人とラブホにでも行くつもりかよ、志摩センセェ。
そして俺はラブホまでコソコソ尾行するつもりかよ?
「馬鹿馬鹿し……」
岬が回れ右しようとした、そのときだった。
酔っ払いのスーツ集団の向こうで志摩はタクシーを拾った。一緒にいた女性だけが乗り込み、タクシーはそのまま車道を埋め尽くすヘッドライトの渦に呑み込まれていった。
二人でタクシーに乗らずに素っ気なく別れたことに岬は一先ずほっとした。そして安堵した自分自身に嫌気が差した。
ガキっぽい。
持て余すしかない「とめどなき淫欲」を慰めてくれる都合のいい担任相手に簡単に感情を操作されて、かっこわりぃ。
不安になったり安心したり、落ち着かない心境に舌打ちしてその場を去ろうとした。
「おい、なんだ、今の」
舌打ちしたタイミングが悪かった。
酔っ払い集団の一人が勘違いして岬に絡んできた。
派手な外見で買うつもりのない喧嘩を売られたことが度々あるヤンキー淫魔は、いつも通り、視線を合わせずに素通りしてやり過ごそうとした。
しかし、そうはさせまいと相手は腕を掴んできた。
よって、ついつい仏頂面になってスーツ男を睨みつけ、さらに絡まれる展開になってしまった。
「ガキのくせに生意気そうな目ぇしやがって」
恐ろしく生意気そうな目つき故、似通った悪口を幼い頃から度々投げつけられてもきた。面倒くせぇ、ただその一言に尽きる。二十代後半と思しきスーツ男は同行者に諌められている最中で、相手が手を離すのをしらけ顔で待っていた岬だが。
「ウチの生徒がどうかしましたか」
岬も、悪酔いしていたスーツ男も、その同行者らもぎょっとした。
志摩だった。
いつの間にすぐそばまでやってきていた教師は岬の片腕を掴むスーツ男の手首を掴んでいた。
「ご迷惑おかけしたみたいで、どうも申し訳ありません」
「ッ……はぁ? 俺は別にッ」
「喧嘩っ早い生徒でして学校でも手を焼いているんです」
「おい!!」
スーツ男に絡まれたときよりも怒りが湧いてきた岬、声を荒げて凄む生徒に志摩は一切リアクションせず、スーツ男の手首を掴んだまま淡々と言う。
「よろしければ名刺を頂戴できますか。後日、当校から正式にお詫びさせていただきます」
志摩の言葉を聞くなりスーツ男はぱっと手を離した。
「教師も生徒もろくな奴いねぇ学校だな」なんて捨て台詞を吐いて、そのまま同行者らと共にまだ始まったばかりの夜のカオスへ飛び込んで消えていった。
乱暴に手を振り払われた志摩と残され、尾行していたという後ろめたさや気まずい気持ちが湧き上がって、焦燥するかと思いきや。
「さっきのどういう意味だ! 喧嘩っ早い!? 喧嘩なんか一度もしてねぇだろうが!!」
岬は先程のスーツ男よりも凄まじい剣幕で志摩に喚き立てた。傍から見れば一般人に絡む凶悪ヤンキーだ。一部の通行人はあからさまに距離をとってそそくさと通り過ぎていった。
「お前の手ぇ焼かせた覚えなんかねぇぞ!!」
「岬、声が大きい、お巡りさんが来る」
「うるせぇッ、この……ッムッツリ教師!! 彼女がいるなんて聞いてねぇ!!」
「はい?」
「いるって知ってたら志摩センセェにわざわざ慰めてもら、ッ」
本当に通報されかねない喚きっぷりに肩を竦め、志摩は、岬の口を真正面から容赦なく塞いだ。
「ほら、現在進行形でお前に焼かれてる手だ」
志摩の利き手に顔の下半分が覆われて、じんわり熱もつ掌が唇に触れて、岬の吊り目は大きく見開かれた。
『しー』
学校のトイレで喘ぎ声が廊下まで洩れないよう背後から問答無用に口を塞がれることがあった。そのときのことを反射的に思い出し、下半身がよからぬ反応を示しそうになって密かに周章した。
「もう喚かないな?」
眼鏡のレンズ越しに乾いた双眸で見つめられて岬はふてぶてしげに頷いた。
「さっきの相手は恋人じゃない」
手が退けられた後、予想外の台詞を寄越されると思い切り眉根を寄せた。
「嘘つくな!!」
「また口塞がれたいのか」
「だって、すげぇ仲良さそうにしてたじゃねぇか、腕組んで楽しそうに話してたじゃねぇか、でっかいのが腕にめちゃくちゃ当たってたじゃねぇか、ラーメン屋の前でラーメンうまそうってテンション上げてたじゃねぇか!!」
「尾行なんて探偵みたいだな、反抗期ちゃん」
担任の口癖になっている決め台詞ならぬ決め悪口を言われ、カッとなった岬は志摩の胸倉を掴んだ。これはもうアウトだ、お巡りさんが駆けつけてくるのも時間の問題だ……。
「セフレだよ」
教師の口から出てくるなんて予想もしていなかったワードに岬は呆気にとられた。
「正確に言うなら数年前に関係があった元セフレで、楽しそうに話したりラーメンを食べたがったりしたのは彼女だけだ、ちなみに胸も一方的に当てられた」
「……志摩センセェ、そんなダセぇ言い訳公の場で言うもんじゃねぇだろ、ちょっとは周り気にしろよ」
「ダセぇ言い訳、か」
自分から生徒の両手をやんわり遠ざけた志摩は「ろくでもない教師だからな」と先程の中傷を抑揚のない口調でなぞった。
「教師を尾行する生徒も確かにろくでもないな」
……センセェ、まさか結婚してたりしねぇだろうな。指輪はしてねぇけど、そんな奴たくさんいる。
……まさか、こどもまでいたりなんてことは……そういやセンセェって何歳なんだ?
「志摩センセェって何歳だよ? もしかして結婚してて奥さんやこどもいたりすんのか?」
春めく教室で志摩と出会って一ヶ月ほど経過した。
性的なテクニックに長けていることは身をもって知らされたが、基本的な情報についてはろくに知らなかった。
もしも結婚している場合、秘密の慰めは今後一切当てにしないつもりで岬は率直に尋ねた。
けばけばしい店頭の照明や看板の電飾に劣る街灯の元、志摩は岬を見下ろした。
「確かめにくるか?」
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