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しおりを挟むレインヴァルド侯爵家の三男が、大層女好きだという噂は聞いていた。
夜会に顔を出せば、必ずどこかの令嬢と姿を消すだとか、女性もののドレスや宝飾品を大量に買い占めていたとか。社交界についてまだあまり詳しくないエレオノーラでも彼の華々しい遍歴は知っている。
エレオノーラは、由緒正しいハーヴェスト伯爵家の長女である。
彼女には双子の妹が一人、跡目を継ぐ予定の幼い弟が一人いる。
幼少期に双子の妹と共に聖女に任命されてからはずっと各地を巡礼していたため、社交界には縁遠く、例の遊び人と名高いレインヴァルド家の子息のことは、名前は知っていてもそれ以上のことは何も知らなかった。彼女はつい先日、聖女の役目を終えたばかりであり、嫌々ながらも本格的に貴族令嬢として社交の場に顔を出さねばならなくなったところだった。
数多くの貴族からパーティーの招待は受けたものの、運が良いのか彼の噂だけが一人歩きしていて未だ本人とは顔を合わせたことがなかったのだ。
エレオノーラは一人で静かに本を読んだり花を愛でたりすることを好む質だった。
引きも切らないパーティーへの誘いは非常にストレスが溜まる。愛想笑いをしながらお酒を飲むことの何が楽しいのかと内心ではうんざりしていた。
貴族という腹に一物も二物も抱えた相手とは対峙するだけでも神経を擦り減らす。言葉の裏の裏まで読み、常に気を張っていなければならない夜会は苦手だった。出来る限り屋敷に引き篭もっていたいというのが彼女の紛うことなき本音のところだった。
聖女だったうちは、そういった交流からは離れていることができた。だが、“元”聖女となったからには多少色物扱いではあるけれど、呼ばれたら顔を出さないわけにはいかない。
つい数日前までは仲間たちと祈りを捧げ、徹底して禁欲された暮らしを送っていた。
聖女には正確な任期はなく、ともすれば一生をかけて務めることになったかもしれない。古い文献を遡ってもどれほどの時間がかかるかは杳として知れなかった。
エレオノーラにとって、それは都合の良いことだった。
彼女にはこの世の何を差し置いてでも優先させなければならないものがある。双子の妹であるセレフィーナだ。
エレオノーラにとってセレフィーナは世界の全てだったのだ。
見た目も性格もまるで似ていない双子の妹。おっとりとしていて汚れを知らない妹は、己の半身でもあり何よりも愛しい存在だった。
貴族としての役目やしがらみから離れ、大好きな妹と常に行動を共にできることはエレオノーラにとってこの上ない喜びだった。
瘴気を祓う任務には危険も多い。魔物と遭遇することも何度もあったけれど、聖女たちを護衛するための聖騎士も常に彼女たちのそばにいたし、なによりエレオノーラ自身もある程度剣が扱えた。
いざというときには妹を自らの手で守ってやりたい。そう思った彼女は、聖女の務めに加えて剣術も習っていた。教えを乞うていたのは王国一の騎士だった。彼の指導のもと、馬術や体術も会得している。
全ては愛する妹のためだった。
しかし、それももう終わりだ。
妹セレフィーナは聖女の任を解かれるのと同時に、この国の王子と結婚することになったのだ。
エレオノーラが守るべき相手はいなくなった。
まるで生き甲斐を見失ったような気分だった。
感傷に浸る間もなく、瘴気の浄化の儀完遂を祝うパーティーは連日連夜行われた。エレオノーラは心にぽっかりと空いた穴を埋めるかのように片っ端から顔を出した。
聖女のうちは飲酒も禁止されていたが、今となってはその禁も気にしなくていい。
覚えたてのワインの味はまだ好きになれない。
夜会の華である彼女はひらひらと妖精のような足取りで顔見知りの貴族たちに挨拶をして回る日々を送っていた。
エレオノーラのつまらない日常に変化が訪れたのは、彼女が元聖女となってから半月程経った頃のことだった。
その日は、アスティマ伯爵家での晩餐会だった。
もちろん会の主役は元聖女たちだ。
貴族たちの間では、元聖女たちを夜会に呼べるほどの影響力と財力があることが、権威を誇示する最も手っ取り早い方法だと広まり始めていた。
エレオノーラはいつものように愛想笑いを顔面に貼り付けていた。
妹のセレフィーナは前日に体調を崩してしまったため欠席だ。残る元聖女の二人も、広い会場のどこかにいるのは確実なのだが、招待客が多くて姿を見つけることができない。
エレオノーラは笑顔こそ崩さなかったけれど連日のパーティーにはほとほと疲れ切っていた。
今日は愛しの妹がいないものだから普段の三割り増しで鬱々とした気分である。
お酒は好きではないし、愛想笑いのし過ぎで頬が変に引き攣れているような気もしてきた。
既知の貴族たちへの挨拶回りも済ませたことだし、少し休憩しようと辺りを見渡す。
会場の隅に置かれていた猫足の趣味の悪い真っ赤なソファーを見つけてしまい思わず顔をしかめる。他に座るところがないかと視線を巡らせるけれど、どこもでっぷりと肥えた貴族たちで占領されている。その会話の中に入っていくのも億劫であることは明白だった。
仕方なく件の真っ赤なソファーに浅く腰を下ろして溜息をつく。
手に持ったワイングラスを見るともなしに見つめながら(つまらないわ……)と、紛うことなき本音を心の中で呟いた。
今日はもう帰ってしまおうかしらと思いながら何度か瞬きをする。お酒を飲むと眠くなってしまう体質らしいということは最近知った。
先日元聖女四人で集まってお酒を飲んだときにはあれほど楽しかったのに、今はその酩酊すら不快に感じた。
「失礼。隣に座ってもいいだろうか」
「ええ、もちろん」
不意に声をかけられて条件反射で答えてしまう。
遅ればせながらハッと顔を上げると、随分と姿勢の良い男性が睨むような視線でエレオノーラを見下ろしていた。
目付きの鋭いその男性に見覚えはなかった。
どなたかしらとエレオノーラは内心では首を傾げながらも彼が座れるように端に寄る。男は折り目正しく礼をすると素早く隣に腰掛けた。
座っても背筋をピンと伸ばしている様子が妙に目につく。まるで兵士のようだという印象を受けた。
エレオノーラの剣術の師も、同じように背中に芯が通っているかのような姿勢を崩さないのだ。恐らくこの第一印象に間違いないだろうと思いつつ、エレオノーラはじっと男を観察した。
(騎士かしら……でもただの騎士が私に気軽に話しかけてくるなんて有り得ない)
最低でも伯爵位か、それ以上の身分だろう。
社交界に頻繁に顔を出すような貴族の顔と名前は頭に入っていた。そのどれとも一致しない彼は、普段こういった場には顔を出さないのかもしれない。
そういった相手は厄介だ、と警戒心を強める。
普段は夜会に顔を出さない貴族の目的は元聖女にあることが大半だからだ。
「ハーヴェスト伯爵家のエレオノーラと申します」
面倒なことになりませんようにと心の中で祈りつつ、一応礼儀として自分から名乗った。
男はどうしてかひどく強張った表情で、
「シルベスタだ。レインヴァルド家の三男」
と、短く答えた。
エレオノーラはその名を聞いて思わずギョッとしながらも居住まいを正す。
レインヴァルドといえば、侯爵家の中でも特に国王の信任が厚い。公爵家に次いで影響力が大きい家柄で、こうして正面から言葉を交わすことすら不敬に感じるほどだった。
格上の相手が一伯爵令嬢でしかない自分に突然話しかけてきたことに戸惑いながら、エレオノーラは表面上は微笑んで取り繕う。
(一体、侯爵家の方が何の御用なのかしら)
緊張していることを気取られないように振る舞いつつも「お声がけいただき光栄です」と返した。
シルベスタはそれに対しては慇懃に頷くだけだった。視線を逸らし、正面を向いていた。
失礼とも取れる言動にエレオノーラは良い気分がしなかったけれど、それを態度に出すようなこともしない。
何か話があるのだろう。シルベスタの様子からそれを察したエレオノーラはじっと彼が話し始めるまで待った。
彼は、何を迷っているのか口を開きかけては止めることを繰り返している。
気まずい時間を誤魔化すようにエレオノーラは何度かワインに口をつけた。
数分の沈黙の後、彼はようやく本題に入る決心がついたらしい。エレオノーラのほうに顔を向けて座り位置を直す。
睨むような目付きは変わらなかったけれど、その虹彩の美しさには目を奪われた。シルベスタの両の眼は、夏の日の青空を閉じ込めたような色をしていた。吸い込まれそうなそれを思わず見つめ返す。
彼は神経質そうにグレーの髪を後ろに撫でつけた。
正面から改めて見ると、彼が随分と若いことが分かる。恐らくはエレオノーラと同年代であろう。二十代前半に見えた。
シルベスタは貴族らしからぬ引き締まった体型をしていて、礼服がよく似合っていた。
「何度か君の家には手紙を送ったんだ。覚えがないか?」
「手紙でございますか? シルベスタ様から、私に?」
受け取った記憶はない。
不思議そうにするエレオノーラを観察してシルベスタは溜息をついた。
「申し訳ございません。何か行き違いがあったようですわ。侯爵家の方からの手紙が行方知らずだなんて……。屋敷に戻り次第、すぐに執事に確認させます」
「いや、いい。いいんだ。……普段から、俺が根も葉もない噂があることを知っていながら野放しにしていたのが悪いのだろう。伯爵家の対応は間違っていない。今尋ねたことはどうか忘れてくれ」
「そういうわけにはまいりません。他ならぬ侯爵家の方からのお手紙ですもの。家の者が紛失したのかもしれませんわ。帰ったら厳しく言いつけます」
使用人の不始末に対して怒りを露わにするエレオノーラを前にシルベスタは言葉に詰まったようだった。
勢い込んで立ち上がろうとすると手首を掴んでくる。
その力が存外強くて、抜けそうもなかった。これには困ってしまってエレオノーラも眉根を下げるしかない。促されて再び元のところに腰を下ろすと、彼はそっと手を離して咳払いをした。
「一つ提案があって手紙を送った。恐らく、再び送ったところで受け取ってはもらえないだろうから直接言おう。
もちろん、この提案に関する決定権は君にある。
悪い話ではないはずだ。君自身にとっても、我々の家同士の繋がりという意味でも益のある提案だ」
家同士という言葉に嫌な予感がしたけれど先を促した。元より格上の相手の話を遮るなどという無作法をエレオノーラができるはずもない。
「つまり、君に送ったのは結婚の申し込みだ」
「結婚……でございますか?」
「ああ。俺の妻になってほしい」
そう言って彼は手に持っていたグラスの中身を飲み干す。
ほんのりと頬が赤らんでいるように見えるが錯覚だろう。彼の眉間の皺は深くなるばかりで、とても結婚を申し込んでいるようには見えなかった。
エレオノーラは曖昧な微笑みを浮かべた。
何と返事をしたものだろうか。
「大変申し訳ないのですが、私その手のお話は全てお断りすることにしております」
道理で使用人がエレオノーラに手紙を渡してこないはずだった。
なにせ執事たちにはその類の手紙には断りを入れるように指示しているからだ。彼らは指示された通りに丁寧な断り文句を並べた返事をしているだけに過ぎない。シルベスタから送られたという求婚の書状も彼らは同様に処理したことだろう。
それなのに彼は懲りもせずに直接交渉に来たという。
相当に諦めが悪いらしい。
呆れつつも、同時にエレオノーラは一つの噂を思い出していた。
レインヴァルド侯爵家の三男は女性との噂に事欠かない。
目の前の彼からは神経質で真面目そうな印象を受けた。浮いた話とは無縁のように見えるけれど人は見かけによらないものだ。
お遊びの相手として元聖女を選ぶのは的外れな気もしたが、遊び尽くして普通の相手では物足りなくなったのかもしれない。変わった人ね、と独りごち、エレオノーラは丁寧に断りを入れると再びその場を辞そうとした。
早々にこの場を離れたほうが身のためだと判断したからだ。
しかし今度は手を握られてしまう。
振り払って不興を買うのは賢くない。立ち尽くしていると彼は尚も食い下がってきた。
「俺は、君を伴侶にと望んでいるが、君の一番になろうなどとは思っていない。エレオノーラ嬢。他に想う相手がいることは知っている。しかし天地がひっくり返ってもその相手と結ばれることはないだろう? 君は伯爵令嬢だ。送られてくる求婚や見合い話を今は断れても、家のためにいつかは、嫌でも心が通じ合わない相手と結婚しなくてはいけないときがくる。この会場にいる未婚の男たちをよく見てみろ。大抵は一癖も二癖もある奴か、男やもめだ。それに君のほうが確実に身分が高い。そんな相手と一生を共にできるか? 俺で手を打っておくのが最善とまでは言わずとも、少なくとも最悪にはならないと思わないか?」
エレオノーラはぐっと押し黙る。シルベスタが言っていることはあながち間違いとも言えない。彼の言うとおり、いつかはエレオノーラも結婚しなくてはいけないときがくる。それが貴族として生まれた者の宿命だ。血を絶やさないこと、家を存続させること。そんなことは分かりきっている。
今のところはまだ聖女としての役目を果たしたばかりであり、妹が王子との結婚も控えているおかげで父も母も強く言ってこない。だが、きっと一年も経たないうちにエレオノーラもどこかの貴族と籍を入れなければならなくなるだろう。
「君のことは調べてある。不躾なことを言わせてもらえるならば、君は俺と同じだ。決して結ばれない相手に叶わぬ恋をしている。だからこその提案だ。君は俺を愛す努力をしなくていい。結婚という契約を結んでくれるだけで充分だ」
「……契約結婚ということでしょうか」
「ああ。跡継ぎさえ産んでくれれば後は自由にしていい。もし君が望むのならば領地の一部を分け与えよう。そこに別宅を用意して好きなように暮らしてもいい。そのための援助は惜しまないつもりだ」
「なぜ、そこまでしていただけるのか分かりません。シルベスタ様に利がありません」
「俺は元聖女という申し分ない相手と結婚できる。成人してもなお未婚だと周りがうるさいんだ。君も周囲からやいのやいのと言われる面倒が減る。それに子を産むというのは女性にとっては命懸けだ。君は命をかけて俺の子を産む。俺は後継を得る。その見返りに俺は君に対して生涯支援することを約束する。むしろこちらの利益のほうが多くて申し訳ないくらいだ」
「跡継ぎを残した後は、私が他の方とどうなろうが構わないと?」
「ああ、問題ない。逢引でも何でも好きにしてくれたらいい」
「…………」
エレオノーラはシルベスタが言うところの結ばれない相手が誰を指しているのかについて察していた。彼がどうやら何か勘違いしているということにも気付いている。
彼が言うところのエレオノーラの想い人というのは妹のセレフィーナを指しているのだろう。エレオノーラが双子の妹を度が過ぎる程に溺愛しているのは周知のことだ。叶うことなら妹と結婚したいくらいと口走ったことさえある。
ただ、それは双子という精神的に強固な繋がりを持つ相手だからというところが大きく、恋愛感情を抱いているというわけではない。伝言ゲームのように間違った意味で彼には伝わってしまったのだろう。
ここにきて初めて彼女の心には迷いが生じていた。
シルベスタの提案は思いの外、悪くないものだった。このまま求婚を断り続けていたら、彼の言うとおり条件の悪い相手と結婚することになる可能性は非常に高い。
エレオノーラは改めて彼を観察する。
シルベスタの眉間の皺は不機嫌そうで近寄りがたいが、いかにも知的そうな雰囲気は嫌いではない。手足が長いので細く見えるが、その実随分と鍛えているであろうことは確実だろう。
女好きという噂が気にはなるが、彼もエレオノーラに貞淑さは求めないだろう。不貞を働く気は全くなかったけれど束縛されるのは御免被りたいと思った。
家柄にも問題はない。三男だが、確か次期当主はシルベスタだ。長男次男は家督を継ぐ気がないらしいと聞いたことがある。
だからこそ適当な結婚相手がどうしても必要なのだろう。未婚では侯爵としての素質が充分とは対外的には言いづらい。
先程のシルベスタの熱弁をよくよく思い返してみる。
どう見ても弁が立つようには見えない。その彼があれだけスラスラと並べ立てたということは、事前に話す内容を用意してから近付いてきたということだ。
何の根回しもなく勝負に挑むような人には見えなかった。
きっと偶然夜会で姿を見つけたから話しかけてきたわけではない。ここにエレオノーラが来ることを知っていて、何もかも計画した上で提案に来ている。
夜会の主催者であるアスティマ伯爵が、遠くからこちらの様子を窺っているようだ。視線が合ったので微笑むと気まずそうに口髭を撫でながら人混みに紛れていく。
「用意周到ですのね」
思わず呟くと、シルベスタは「それだけ本気だということだ」と苦もなく受け流す。
後手に回らされている。
次期侯爵として交渉慣れしている彼とエレオノーラでは経験値に圧倒的な差があった。
彼女はしばらく無言で考え込んだ後、視線をわざと外したまま待っているシルベスタの横顔をじっと見つめた。
「結婚式はいつを予定しているのですか?」
彼の喉が大きく上下するのを見ていた。
「来週だ。明朝、当家の屋敷に来て婚姻書類に署名をしてほしい。午後は式で着るドレスのチェックをしてもらう」
「あら。本人の同意も得ていないうちから随分と段取りが良いんですね」
「今ここで断られたら、それまでのつもりだった。そのときは諦めるつもりでいたが、もし了承してもらえたのなら君の気が変わらないうちにと思って準備をしていただけだ」
チクリと軽い皮肉を言うと彼は初めて素で答えたようだった。不貞腐れたようなその表情を見てエレオノーラは思わず破顔する。
「そういったお顔の方が私好きですわ」
それに対してシルベスタは何も答えなかったけれど動揺している気配は感じ取ることができた。
次々と湧き上がってくる不安には一旦蓋をする。意識して完璧な笑顔をつくり、そうしていかにも余裕がある風を装いながら、エレオノーラは彼の提案を受け入れた。
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奇妙なことに、シルベスタが用意したウェディングドレスはエレオノーラのサイズにぴったりだった。
デザインも彼女が好きな控えめなもので、強いて言うなら胸元がもう少し開いていると良いと思ったけれど夫となる彼からは却下された。
挙式は来週という話だったが、セレフィーナと王子の婚約発表と時期が被ってしまうので延期になってしまった。シルベスタは不満げだったけれど婚姻書類にエレオノーラが無事に署名したことを確認してからは気分も良くなったらしい。
早々にエレオノーラの私物がレインヴァルド家の屋敷に運び込まれ、あっという間にシルベスタとは夫婦になってしまった。
彼はエレオノーラの父母である伯爵夫妻をどう説得したのか、ものの数分で了承を得てきた。仕事ができるのねぇなんて呑気でいられたのも陽がまだ天高く昇っているうちだった。
夜半、エレオノーラは重大な問題に直面していた。
寝支度を終えた後に通されたのは夫婦の寝室だったのだ。
夫婦の寝室だ。
つまり当然シルベスタも同じ部屋、それも同じベッドで寝ることになるわけだ。
広い寝室の中には四人は横並びで寝れそうなくらい大きなベッドが一つあった。それ以外に眠れそうなところはない。
三人掛けのソファーで寝ようと思えばやれなくもないだろうが、ここにきて悪足掻きしようという気にはなれなかった。
シルベスタには跡取りが必要なのだ。少なくとも一回は彼と閨を共にしなくてはいけない。それも込みでエレオノーラは彼の提案を受け入れた。反故にするのは契約違反だろう。
正式に契約結婚に関する取り決めを書面に起こしたわけではないけれど、たとえ口約束に過ぎないとしても淑女に二言はない。
ベッド端でシルベスタが来るのを待った。
彼は程なくして寝室に入ってくると、エレオノーラを見て僅かに目を見張った。まるで、いるとは思わなかったとでも言いたげだった。
腕に抱えていた書類をベッドサイドのテーブルに置き、そして枕元を静かに見つめた後にエレオノーラのほうをゆっくりと振り向く。
「婚姻書類は無事受理された。晴れて俺たちは夫婦だ」
エレオノーラが顔を上げると彼はベッドには乗り上げてきたが、そのまま仰向けに寝転がってしまう。
エレオノーラは迷いながらも恐る恐る彼の隣に横たわり、同じように天蓋の裏を見つめた。よく目を凝らしたところで何の面白味もない。天井に特別な装飾でも施されているのかと思ったけれど、そんな物の影も形もなかった。
随分と長い間、無言が続いた。
彼のほうが先に寝てしまったのではないかと思うくらいだった。お互いに身動き一つしなかった。耳鳴りがするほどの静寂のなか、口火を切ったのはシルベスタだった。
「おやすみ」
それだけだった。
エレオノーラは何度か目を瞬かせた後、シルベスタのほうに顔を向ける。
目蓋は閉じているが間違いなく彼は起きている。
初夜に肌を重ねないなんてことが有り得るのだろうか。
少なくとも彼の屋敷のメイドたちはその予定でエレオノーラの頭のてっぺんから足の爪の先まで磨き上げてくれた。寝衣の下はそれはもう扇情的な下着を着用している。
あまりに緊張してお腹まで痛くなってきたエレオノーラにメイドたちは「初めてですもの。多少のことは若様だって目を瞑ってくださいますわ」と慰めてくれたけれど、本当に目を瞑って動かなくなるとは思いもしていなかった。
エレオノーラは幼い頃から今に至るまで性格はともかく外見を褒められなかったことは一度もない。
絹のように細くて艶やかな髪、硝子玉のように澄んだ大きな瞳とすっと通った鼻筋。とびきりの美人だと言われ続けてきた。加えて、たわわな胸は剣術の稽古の時は邪魔で仕方なかったけれど嫌いだという男性はいないはずだ。それはシルベスタも例外ではないだろう。
彼の女性の好みは辛うじて使用人たちから聞き出すことに成功している。
外見的な特徴だけでいえば好みドンピシャのはずだった。
エレオノーラの頭の中は疑問でいっぱいだった。
すっかり抱かれる気で腹を括ってきたというのにあんまりだ。かといって自分から誘うなんてできるはずもない。
エレオノーラも無理矢理目を閉じて寝たふりをする。
すぐに眠気が追いかけてきた。
昨日からずっと結婚のための手続きや引っ越しで歩き回っていたおかげで疲れていた。体力的にも精神的にも限界だったのだ。
すうすうと寝息を立てる彼女の寝顔を、夫となった男が夜明け近くまでずっと見つめていたことなど露知らず、こうしてエレオノーラの契約結婚による新婚生活は幕を開けたのだった。
シルベスタは随分と律儀な人らしい。
そう思い始めたのは、結婚して一週間ほど経ったあたりのことだった。
互いに情のない相手との結婚生活はさぞかし淡々とした簡素なものになるだろうと予想していたけれど、夫となった彼はエレオノーラに甲斐甲斐しく尽くした。
シルベスタは次期当主として侯爵領の大半の統治を既に現レインヴァルド侯爵から引き継いでおり、多忙な身の上である。結婚後はお飾りの妻モドキである自分は放っておかれるものだとエレオノーラは思い込んでいた。
しかし予想に反して彼は仕事の合間を縫って頻繁に顔を見せた。
本を読むのが好きだと知ると図書室と庭に快適な東屋を建築する手配をした。ハンカチに刺繍をしているとすぐさま糸を扱う商人を呼び寄せ、商品を片っ端から買い上げてしまう。
花が好きだと聞くと庭園を増築し、聞きもしないうちに新しいドレスのための仕立て屋を呼んだ。
執事や侍女にこっそりと普段からこれほど散財をする方なのかと質問したけれど皆一様に首を横に振るものだから、一連の彼の行動は普段にないことらしいということは分かった。
思い切って本人を問いただしてみてもモゴモゴと口籠るだけでハッキリとした答えはない。ただエレオノーラが喜ぶと満足そうにするから、恐らく彼は仮初の妻相手にも紳士的に接することのできる奇特な人なのだろう。
おかげでレインヴァルド家での生活は快適そのものだった。
一つ納得できないことがあるとすれば、シルベスタが不自然なくらいにエレオノーラとの身体的接触を避けているということくらいだった。
子どもを作る気がないのかしらと不思議に思う。自分に魅力がないわけではないだろう。体型や顔つきは及第点のはずだ。跡継ぎを産むことがこの結婚の要件にも含まれているのだから手を出してこない理由がさっぱり分からなかった。
強いて挙げるとすれば、シルベスタの想い人である女性に彼が一途であることを誓っている可能性。もしくは、浮気とも取れる行為に躊躇しているのか。
浮気も何も、本妻はエレオノーラなのだが。
エレオノーラには彼の想い人である女性の見当が全くつかなかった。貴族なのか平民なのかも分からない。
シルベスタは日中、仕事で忙しそうにしている。夜はエレオノーラの隣で相変わらず天井を眺めていて、彼が意中の女性と蜜月のときを過ごす時間はないように思えた。
本命のところに行くわけでもなく子作りにも積極的ではない彼の行動には不審な点が多かった。
その日の夜も、エレオノーラは念の為じっくりと全身を万全の状態に整えてからベッドで彼を待っていた。
今日も手は出されないに違いない。
うとうとしていたけれど外は夕方から生憎の土砂降りだった。時折鳴り響く雷の音に寝落ちしそうな意識を叩き起こされる。
寝支度を終えたシルベスタはいつものようにエレオノーラの隣に横たわったが、いつまで経っても「おやすみ」という一言が聞こえてこない。
聞き逃したかと思い、彼のほうに顔を向ける。
「おやすみなさいませ、シルベスタ様」
「エレオノーラ。就寝前に頼みがある。いいか?」
眠い目を擦りながら頷く。
何を言われるかは予想もつかなかったけれど早く頼みとやらを聞いて眠りたかった。
「手を、握ってくれ」
「はい……はい?」
「雷が苦手なんだ。今夜は手を繋いでいてほしい」
想定外の言葉に眠気が吹き飛んでしまった。目をぱちくりさせながら唐突に妙なことを言い出した夫を見つめる。
とても雷を怖がっているようには見えなかった。
冗談かと疑ったけれど生真面目な彼が意味もなくそんなことを言うわけがない。
雷は空気も読まずに何度も窓の外で轟音を轟かせていた。大粒の雨が叩きつける音と交互に聞こえてくる。
乾いた唇を引き結び、そしてすぐにエレオノーラは口元に微笑みを浮かべた。
「実は私も苦手なんです、かみなり」
嘘であれ冗談であれ、シルベスタの頼みを断るという選択肢はエレオノーラの頭の中にはなかった。せめて夫の顔を立てようと同調する。
指先がそろそろとエレオノーラの手の甲に触れてきた。そうして、するりと手のひらに滑り込んでくる彼の手は思っていたよりも大きかった。
他人の手の感触にエレオノーラは不思議な気持ちになる。
試しにぎゅっと握ってみると彼は食い入るように繋いだところを見つめていた。
「君の手は小さいな。指が細くて、力を入れたら折れてしまいそうだ」
女性としては大きいほうだと思っていたのでエレオノーラは首を傾げる。
「シルベスタ様の手のひらは大きいですね。剣を扱われるんですか? 硬くなっているところがあります。……あ、ここはペンだこですね」
試しに手のひらを合わせて大きさを比べているとシルベスタは何とも言えないような表情をしていた。
「君も剣を習っていたんだろう。剣聖とも呼ばれたアルノルト卿に」
「はい。普段は剣聖とも聖騎士とも呼べないくらいお酒ばかり飲んでいる人ですけどね。もういい歳なんだから程々にしてくださいって何度もお願いしているのに人の話なんてこれっぽっちも聞いてくれないんです」
「君は、その、なんだ。アルノルト卿とは親しいのか?」
「ええ、もちろん。幼い頃から剣の師でしたから第二の父みたいなものです」
「そうか」
シルベスタは何度も頷いた。
いつの間にか絡めるようにして繋がれた手が温かい。彼ももう眠いのだろう。
自然、体が密着するような体勢になる。
シルベスタの存在をこれまでよりずっと近くに感じた。
不快には感じない。彼の手の感触も息遣いも心地良いと思った。
とくとくと自身の心臓が脈打つのを感じる。いつもより少しばかり鼓動は早かったけれど、嫌悪や恐怖によるものではない。
エレオノーラはほっと息を吐いた。
致命的なまでに彼のことが受け入れられなかったらどうしようと実は心配だったのだ。
「俺に触れられるのは嫌ではないか?」
ちょうど考えていたことを見透かされたように言われて驚く。エレオノーラはその場しのぎのお世辞を並べようとして止めた。彼の誠実な対応には、同じように返すべきだと思った。
「正直、不安でした。聖女は浄化の力を保持するために聖人と聖騎士以外の男性を近くに置きません。異性と関係してしまえば力を失うことになってしまうので厳格な決まりがあるんです。怖いことや嫌なことをされたらどうしようと思っていましたが、シルベスタ様がお優しくてよかったです」
「……俺は聖人君子ではないよ」
「うふふ、そうでしたね。シルベスタ様には他に好いた方がいらっしゃるのでした」
エレオノーラがくすくすと笑い声を上げると彼は黙り込んでしまう。
夫に貞操を求めるつもりはない。そんな罪悪感を抱えたような顔をしなくていいのに、とエレオノーラは思う。
「どういった方なんですか? その方がお嫌でなければ是非仲良くなりたいです。第二夫人としてお迎えになるのも良いかもしれませんね。繊細な話題ですから慎重に事を進める必要はありますけれど」
そこまで話してからエレオノーラはハッとした。
(お相手の方が既婚者だったらどうしましょう!)
聖女ミヤに貸してもらった少女趣味全開の小説の内容を思い出してハラハラしてきてしまう。
小説の中では浮気相手は本妻にいじめ抜かれていたが、もしお相手と遭遇しても仲良くできるように努力しようとエレオノーラは心中で固く決意した。
そんな彼女には取り合わずにシルベスタは遠い目をする。
「一目惚れなんだ、俺の。以来ずっと片想いを続けている。魔物に襲われたところに偶然居合わせて、俺は震えて動けなかったが彼女は違った。怖いはずなのに幼い妹を守るために立ちはだかる姿を美しいと思った。幸いにも騎士たちによって魔物は退治されたが、あのときほど悔しい気持ちになったことはない。また同じような状況になったら必ず守れるように鍛えてきたが、俺に剣の才能はなかった」
「そのお気持ち分かりますわ! 私も同じような状況になったことがあります。だからアルノルト卿に教えを乞うて多少は戦えるようになったのです。本職の方々から見ればお遊びにしか見えないでしょうけれど。シルベスタ様に初めてお会いしたとき、あなたのことを騎士のようだと思いました。それほど鍛えてらっしゃるように見えたのです。シルベスタ様の努力は無駄ではありません。才能なんて必要ないのです。守りたいと思って今まで鍛錬を続けてきたことが素敵なのだと思います」
手を握りながら真摯に訴える。まさかシルベスタにも自分と似たような経験があるとは思わなかった。一気に親近感が増してしまい、つい力が入ってしまう。
みるみるうちにシルベスタの顔が真っ赤になっていく。もしかして初恋の話をしたせいで照れているのかもしれないと思うと可愛らしくも感じた。
やはり性に奔放な方という噂は真実ではないのだろう。彼の話してくれた内容に嘘はないように思えたし、どう考えても純愛だ。こうなっては後押しするしかないと気合いを入れる。
「本命の方と両想いになれるといいですわね」
「……ああ。そうだな」
シルベスタは目を細める。もっと彼の恋の話を聞き出したかったけれど、それ以上の情報は得られなかった。
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翌朝。
目を覚ますと手は繋がれたままだった。
寝惚けながら身支度を終え、シルベスタと共に朝食を摂る。エレオノーラは朝が特に弱かった。
完全に目が覚めるまでに午前中いっぱいかかるときもあるくらいだ。
今日は外出するという話に辛うじて頷き、見送りをしようとエントランスホールまでついていく。
その間もフラフラと歩くエレオノーラを見兼ねたのか手は握られたままだった。
「いってらっしゃいませ。お戻りは明朝ですか?」
「残念だが夕食には帰ってくる」
遂に浮気相手との密会に出かけるのかと思ったのだが仕事の用事で出るだけらしい。
むう、と頬を膨らませていると彼は「ところで」と思い出したように言った。
「世の夫婦というのは行きがけにキスをし合うものらしい」
「へぇ。そうなんですね」
知りませんでした、と呑気に相槌を打つ。
目の前に差し出されたシルベスタの頬を眺め、数秒遅れて(もしやキスをしろと?)と彼の言わんとするところに気がついた。
当然断ろうとしてエレオノーラは周囲の使用人たちの存在に気がついた。彼らは自分たちの主人が密約を交わした上で契約結婚したことなど知らない。
仲睦まじい夫婦仲を演じなければいけない。
それでもキスなんてとても恥ずかしくて、到底人前でできるものではない。もじもじと下を向いていると、額に柔らかい感触が当たる。
すぐに離れていったが、エレオノーラはそこに手を当ててポカンとした。
「それでは行ってくる」
さっと踵を返した夫に手を振るも頭の中は真っ白だった。
並び立って主人を見送る使用人たちを振り返る。皆微笑ましそうにしていた。ギギギと軋む音が出そうなくらいぎこちなく向き直り、馬車に乗り込む夫の後ろ姿を見つめる。
キスだ。人生初めてのキス。
そこからの記憶は曖昧だった。ぼうっとしたまま一日を過ごした。
日が暮れ出したあたりでようやく頭が動き始める。
聖女たちの間で密かに共有していた数々の少女向け小説の内容を必死で思い出そうとした。物語の中の女性たちは皆普通に男性とキスをしていた。とても信じられない。なぜ異性からの口付けを肩を竦める程度の恥じらい方で済ませることができるのだろう。
エレオノーラは羞恥心で居ても立っても居られなくなる。付き従っている使用人たちの目がなければ今頃は屋敷中を走り回ったことだろう。
(どんな顔をして顔を合わせたらいいのか分からないわ)
落ち着いて夫の帰りを待つ妻の姿を演じようと試行錯誤しているうちに時間は過ぎ去っていく。
平然を装ってベッドの上でシルベスタの戻りを待った。
眠ってしまうつもりはなかったのだがハッと目を開けたときには周囲はシン、と静まり返っていた。
いつの間に帰宅したのかシルベスタは隣に横たわっていた。
目と目が合う。
「起こしたか?」
「いいえ」当たり前のように手を繋いでいた。エレオノーラの頬に朱が差す。「申し訳ございません。お出迎えもせず寝てしまうなんて」
シルベスタはギリギリまで絞ったランタンの薄明かりで書類に目を通していたらしい。それを傍らに置くと片手で目元を抑えた。
「待たせて悪かった。所用が長引いたせいで帰りが遅くなってしまった」
そう言いながらエレオノーラを自然な動作で腕の中に収めてしまう。
もう頭の中はパニックだった。
何が起きているのか分からない。昨夜からのシルベスタの行動はエレオノーラには刺激が強過ぎた。
胸を押して体を離そうとする。顔を上に向けると、鼻先同士がぶつかりそうになった。もぞもぞと再び腕の中に埋もれるように沈んでいくと彼は笑ったようだった。
「意地悪しないでくださいませ……」
弱々しく訴えると遂には声を出して笑い始めるのでエレオノーラはむくれてしまう。ひどい、と責めると優しく頭を撫でられた。
「もう寝ます。シルベスタ様もお早くお休みなさいませ」
「エレオノーラ。何か忘れていないか?」
「忘れていません。知りません」
揶揄うような口調にエレオノーラは臍を曲げた。耳を両手で塞いで小さく丸まっていると抱きしめてくる力が少しだけ弱まった。
シルベスタはまだ何か言い足りないのか名前を呼んでくる。三度目までは無視を貫いていたけれど、遂には根負けした。
「何でしょうか」
「帰ってきたぞ」
「ええ。承知しております。おかえりなさいませ」
「エレオノーラ。君は知らないだろうが帰宅した夫に妻はキスをして迎えるものらしい」
「……できません」
「なぜ?」
「恥ずかしいのです」
そもそも仮初の夫婦なのだから世の夫婦と同じようなことをする必要は全くない。今朝の一連の彼の行動は周囲に違和感を抱かせないためのパフォーマンスであると思えば納得できたが、ここは寝室だ。
キスは愛し合うもの同士がするのだ。小説に書いてあったから間違いない。
どうあっても受け入れてくれないようだと判断したのか、シルベスタはまた勝手に額に口付けてきた。
ちゅ、という軽い音に全身がカッとなった。下から見上げるようにして彼を睨む。
「いけません、シルベスタ様。キスは好き同士でないとしてはいけないんです。常識です」
「そうか」
聞いているのかいないのか、今度は頬にキスをされる。抵抗しようとする手首を掴まれてしまった。
鼻先から口の端、次は口かと思ったけれど遠回りして耳に唇を押しつけてきた。
彼の口元を手のひらで押さえつける。しばらく無言で攻防を続けたけれど指を噛まれてエレオノーラは「あっ!」と声を上げた。
続け様にその指に舌が這う。背筋が泡立つのを感じた。
「おやめくださいっ」
「慣れてもらわないと困る」
「では困ってください」
シルベスタはエレオノーラの返答に驚いた顔をした後で降参と言わんばかりに両手を上げた。
「今日はもう終わりです」
「分かった。今日はもうしない。そんなに怒らないでくれ」
怒ったわけではなかったけれど、最後のその一言で火がついてしまった。エレオノーラは「シルベスタ様!」と彼の胸元を指差した。
「いくら夫婦とはいえ、合意のない性行為は良くないと思います! あんな、破廉恥なっ!」
「ただの親愛のキスだ。挨拶みたいなものだ」
「絶対に嘘です。それにキスだけじゃありません。噛まれもしました」
ほらここ、と手を前に出す。目を凝らしても、辛うじてこの赤みがそうか?と判断に迷うくらいの小さな小さな痕だった。
異性とのまともな接触に慣れていないエレオノーラはもはや自分が何を言っているのかもよく分かっていない。
駄々をこねるように訴え続けたが、シルベスタは根気良く頷いたり謝罪をした。
次第に落ち着いてきて勢いがなくなってきた頃合いになって初めて、彼は呟く。
「俺のことが嫌いになったか?」
その静かな問いにエレオノーラは冷や水をかけられたような気分になった。
エレオノーラを宥めていたときとは打って変わって、何の感情も映さない目をしていた。
嫌いになったわけではない。
ただ慣れていないだけだ。どうしていいのか分からない。
触れられるとそこばかりが気になってしまって、熱を持つから逃げたくなる。
それを彼にどう伝えたらいいのかもエレオノーラには判然としなかった。
迷った末に離れていた手を繋ぐ。
上目遣いで見上げて表情を窺った。
顔を近付けて唇同士を触れ合わせる。彼の頬に甘えるように額を擦りつけ、そうしてまた腕の中に戻った。
「……嫌いじゃありません」
呟いて体を反転させる。
背を向けたまま動かずにいると、腹側に回された腕の締めつけが強くなった。
「すまなかった。調子に乗ってしまった。君が寝言で俺の名前を呼ぶものだから、つい」
夢の記憶はないが、あながち嘘とも言い切れない。シルベスタのことを直前まで考えていたのは確かだ。
ご機嫌を取るかのようにシルベスタは優しくエレオノーラを呼んだ。
「君からキスをしてくれて嬉しい」
「言わないでください」
「エレオノーラ。明日は出かけないか? 観劇のチケットをもらってきた」
無言で頷くと、彼は嬉しそうにした。
初めてのキスはエレオノーラの心の中を酷く掻き乱した。勢いとはいえ自分から唇を押し当ててしまった。全身が熱を持っていて、まだしばらくは冷めそうもない。
そうだというのにぎゅううっと抱きしめてきた彼が続け様に首筋に口付けを落としてくるものだから、エレオノーラは彼の腕の中でジタバタと暴れる。
抵抗とは裏腹に胸の奥では温かいものが芽生え始めたような気がしていた。
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