噺屋コトザメ

プルエ

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 久義は戦慄した。なんとなく急いた気持ちになってホームの一番手前に着いていた車両に飛び乗ったのがいけなかった。
 ぎゅうぎゅう詰めの車内、減速のたびに押し寄せる圧迫感。しかし、右斜め前の座席は──空いている。
 丁度大人二人が座れる程のスペースが、ぽっかりと空いている。
 そう、ここはコトザメと初めて会った日にも偶然乗っていた、「ま」の居る車両だ。
 久義はこめかみからあごを伝って落ちる汗の感覚に表情を歪める。乗客の誰も座席を気にする様子はない。「ま」を除けば、動くこともままならない超満員の車両。まるで日常そのものの光景。
 ここまであからさまになっても気付かないものなのか──と、剣呑な面持ちで俯いたときである。
「そろそろ埋めないと危ないな」
 あの、胸の中に囁くような声が言った。
 久義は吃驚びっくりして叫ぶ。
「わっ、コトザメ!」
 周囲の乗客が一斉に振り向いた。赤面して「すみません」と頭を下げた久義は、次いでばつの悪そうな顔で白い頭を見上げて声を潜める。
「いつから居たんだよ」
「普通に久義と同じ駅から乗って、ずっとここに居たよ」
 さも当然のようにそう答えたコトザメに、久義は肩身を狭くしたまま項垂れる。
 コトザメという人間は今日も変わらず光を帯びているかのように真っ白だ。なのに、こんなに目立つ容姿の彼が隣に居ることに何故気付かなかったのだろう……と、いくらか呆れながらいるところへ電車がカーブに差し掛かり、遠心力に乗客達の姿勢が傾いてコトザメがふらついた。久義は押し返すようにしてコトザメを支え、真っ白な手を取って余っていた吊革を握らせる。
「危なっかしいな。ちゃんと持ってろよ」
「すまない。人の多い電車には慣れてないんだ」
 コトザメはそう言うと、ちらりと上を見上げた。久義も釣られて視線を上げる。すると、荷物の置かれていない網棚に何やら焦げ茶色の毛玉のような物体がうねうねと動いているのが見える。初めは子猫でも迷い込んでいるのかと思ったが、よくよく見るとそれには頭も手足も尻尾もついていない。
「〈ケモドキ〉だ」コトザメは声を低くした。「『ま』を気にしてる。この車両は、元々ケモドキの縄張りだったんだろう」
 〈ケモドキ〉は頼り無い動きでバランスを取りながら、今居る位置に留まろうとしている。久義はつい手を貸してしまいそうになるのを堪えて平然を装う。
「ふうん、この前は乗ってたときは気付かなかったな。縄張りなんてあるのか」
「そりゃあるさ。だけど、『ま』はどこにでも現れる。弱いケモドキには逃げるか食われるかしか選択肢がない」
「『ま』は強いのか?」
「大きさに比例するんだ。大抵の『ま』は生じた直後に消されてしまうが、稀にこいつのように気づかれないまま残るやつがいる。このくらい大きくなってしまうと、もう殆どの怪は太刀打ちできないだろう」
「まさか、こいつも人を食うとかじゃないよな」
「食う、というより、飲み込む」
「……有り得ないだろ。だって、実体が──」
 実体が無い。久義にとって、「ま」はただぽっかりと虚しく空いた空間でしかないのだ。
 ──でも、本当に?
「なあ、もしかしてコトザメには何か見えてるのか?」
「こいつは目に見えるものじゃない。だけど普段は怪が見えない人でも気付けるほどの存在だ」
「え? じゃあ、ここに居る皆も気付いてる?」
「今は気付けない。『ま』に気付けるのは、ふとしたときに『ま』が発生した僅かな時間だけだろう。会話の最中、音が途絶えた瞬間、例えばお笑い芸人が直後のアレだ。あの微妙な『』こそが、怪である〈〉の正体なのさ」
「〈間〉……」
「『おい、今の間は何だよ』ってセリフ。不自然な間の多くは、この台詞で消されてしまう。たまたま消されなかったものが、こんな風に大きくなって、やがて他者を飲み込むまでになる。今目の前に居る〈間〉は、乗客がここで不自然に隙間を空けて座ったせいで生まれてしまったんだろうね」
 コトザメは他人事のように飄々として言い終えるなり躊躇なく空席に腰を下ろし、その後すぐに立ち上がると、疲れた顔の若いサラリーマンの隣に居た不機嫌顔の妊婦に席を譲った。





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