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第57話 風の誓火(せいか)
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夜が明ける前から、京の空は鈍く霞んでいた。
遠くで鐘が鳴る。まだ戦の匂いが抜けきらぬ都に、冷たい風が吹き抜けた。
地図の上に指を滑らせると、墨の線が朝靄に滲んで見えた。
「……義昭残党、北の寺町に籠もっております」
光秀殿が報告を終える。柔らかな声だが、その眼差しは鋭い。
その隣で、勝家さんが唸った。
「奴らの数はわずか。正面から押せば片がつく」
「ですが、勝家。寺町は狭く、火が出れば京の町が――」
長秀さんの言葉を、勝家さんは手で制した。
「女の理屈は要らん。戦は速さだ」
その一言に、一気にその場の空気が悪くなる。
勝家さんは、時々、空気が読めないときがある。
僕は息を吸い、地図の上に石を置いた。
「……風を読めば、北東に抜ける路が一本あります。
そこを抑えれば、敵は退路を断たれ、自ずと崩れるはずです」
利家が眉を上げた。
「北東? それでは、風下になる」
「ええ。だからこそ、風を使います。煙を起こせば、敵の目は塞がる。
混乱したところを、勝家さんが正面から押し、利家が南へ回る。いかがでしょうか?」
沈黙。
信長様は地図を眺め、わずかに唇の端を上げた。
「――よかろう。相馬蓮、初陣の采配、見せてみよ」
その声音に、誰も逆らわなかった。
心臓が、鼓動というよりも、炎のように鳴っていた。
いよいよ、僕の力が試されるときがきたのだ。
◆
陽が昇ると同時に、戦が始まった。
寺町の屋根の向こうから、僧兵たちの法螺が響く。
武将たちが指示を飛ばし、兵が走る。
藤吉郎が声を張り上げた。
「軍師様、煙の準備、整いました!」
「風を待て!」
風が西から東へと流れ始める。
俺は扇を高く掲げた。
戦場での、信長様の覇気を思い出す。
「――火を放て!」
瞬間、炎がうねった。
灰が舞い、煙が風に乗って流れ込む。
僧兵たちの視界が奪われ、混乱が走る。
勝家さんの軍勢が突撃し、利家が側面から回り込む。
地鳴りのような足音と怒号。
風が、俺たちの背を押していた。
「押し切れ!」
「崩れるぞ、もう一歩だ!」
火の粉が鎧を焦がす。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
信長様がくれた“采配”という炎が、胸の奥で燃えていた。
◆
戦は半刻ほどで終わった。
義昭残党は散り、京の北に逃げ延びたわずかな者が残るだけ。
だが、報告を聞いた時、胸が痛んだ。
「……小隊の一つが、煙に巻かれ、戻りませんでした」
藤吉郎の声が沈む。
勝利の歓声の裏で、確かに命が失われていた。
その現実が、初めて“軍師”という名の重みを教えてくれた。
俺は、手を強く握りしめた。
◆
夕刻、陣屋の大広間。
信長様が座す前に、将たちが並んでいた。
火が灯され、盃が順に配られる。
勝家さん、利家、光秀殿、長秀さん、藤吉郎――そして俺。
「今日の采配、見事であった」
信長様の声が響く。
「相馬蓮、初陣にして風を掴む。これより、織田の軍師として名実を得たと心得よ」
その言葉に、光秀殿が微笑む。
藤吉郎が拍手をし、勝家さんが「若造もやるな」と笑った。
盃が重なり、火がぱちりと弾ける。
けれど、信長様の目がこちらを向いた瞬間、すべての喧噪が遠のいた気がした。
あの金の瞳が、まっすぐに俺を射抜いていた。
◆
夜。
陣は静まり、風だけが幕を揺らしている。
僕は、今回の戦の報告書をまとめていた。
背後で足音がして、振り返る。
「……まだ起きておるのか」
信長様だった。
赤い髪が灯に照らされ、影がゆらめく。
手にした盃を俺の前に置く。
「今日の采配、あの場におった誰よりも冴えていた。
だが、顔は晴れぬな」
「失いました。命を……自分の策で」
「それでいい」
信長様は盃を傾け、淡く笑った。
「死を恐れる軍師は、風を鈍らせる。だが、重みを知る者は強い。
……そなたは、前者ではない」
その言葉に、胸の奥の痛みが少し溶けた。
沈黙の中、火がまた小さく爆ぜた。
信長様が、ふいに手を伸ばした。
頬を撫でる指先。
熱いのか冷たいのか、わからない。
「蓮。……この身に仕えることを、悔いたことはあるか?」
「ありません。どんな未来でも、信長様の隣に立てるなら」
その言葉のあと、
唇が、触れるか触れないかの距離で止まった。
信長様の睫毛が、震えた。
その目に映るのは――俺ではなく、何か遠い炎のようにも見えた。
(信長様は……どういう気持ちで、キスをするんだろう)
心臓の音が耳を打つ。
嬉しいのに、怖かった。
自分が“信頼”の延長にいるのか、それとも――違うのか。
尋ねたかった。けれど、声にならなかった。
唇が軽く触れた。
まるで、僕を慰めるかのように。
だけど、それはすぐに離れていった。
「……今宵は、風が穏やかだな」
その言葉とともに、幕が揺れた。
夜風が二人の間を通り抜け、焔が揺らぐ。
その一瞬に、 信長様の瞳がわずかに翳ったのを、俺は見逃さなかった。
夜風が二人の間を通り抜け、焔が揺らぐ。
その一瞬に、信長様の瞳がわずかに翳ったのを、俺は見逃さなかった。
――けれど、その揺らぎを見ていた者が、もう一人いた。
廊の陰、灯の届かぬ場所で。
光秀殿は、何も言わず、ただ静かに目を閉じた。
唇に浮かんだ表情は、怒りでも哀しみでもなく、
“理解”に似た静かな影だった。
(この人の“戦”の先には、何があるんだろう)
けれど――その夜だけは、何も考えたくなかった。
ただ、信長様の隣で、同じ風を感じていたかった。
夜は静かに更けていく。
燃え尽きた薪の残り火が、二人の影を長く揺らした。
やがて、火が落ちる音だけが残った。
***************
戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「風の誓火(せいか)」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
「風の誓火(せいか)」はこちら ⇒ https://youtu.be/5KEQl-wTyBg
遠くで鐘が鳴る。まだ戦の匂いが抜けきらぬ都に、冷たい風が吹き抜けた。
地図の上に指を滑らせると、墨の線が朝靄に滲んで見えた。
「……義昭残党、北の寺町に籠もっております」
光秀殿が報告を終える。柔らかな声だが、その眼差しは鋭い。
その隣で、勝家さんが唸った。
「奴らの数はわずか。正面から押せば片がつく」
「ですが、勝家。寺町は狭く、火が出れば京の町が――」
長秀さんの言葉を、勝家さんは手で制した。
「女の理屈は要らん。戦は速さだ」
その一言に、一気にその場の空気が悪くなる。
勝家さんは、時々、空気が読めないときがある。
僕は息を吸い、地図の上に石を置いた。
「……風を読めば、北東に抜ける路が一本あります。
そこを抑えれば、敵は退路を断たれ、自ずと崩れるはずです」
利家が眉を上げた。
「北東? それでは、風下になる」
「ええ。だからこそ、風を使います。煙を起こせば、敵の目は塞がる。
混乱したところを、勝家さんが正面から押し、利家が南へ回る。いかがでしょうか?」
沈黙。
信長様は地図を眺め、わずかに唇の端を上げた。
「――よかろう。相馬蓮、初陣の采配、見せてみよ」
その声音に、誰も逆らわなかった。
心臓が、鼓動というよりも、炎のように鳴っていた。
いよいよ、僕の力が試されるときがきたのだ。
◆
陽が昇ると同時に、戦が始まった。
寺町の屋根の向こうから、僧兵たちの法螺が響く。
武将たちが指示を飛ばし、兵が走る。
藤吉郎が声を張り上げた。
「軍師様、煙の準備、整いました!」
「風を待て!」
風が西から東へと流れ始める。
俺は扇を高く掲げた。
戦場での、信長様の覇気を思い出す。
「――火を放て!」
瞬間、炎がうねった。
灰が舞い、煙が風に乗って流れ込む。
僧兵たちの視界が奪われ、混乱が走る。
勝家さんの軍勢が突撃し、利家が側面から回り込む。
地鳴りのような足音と怒号。
風が、俺たちの背を押していた。
「押し切れ!」
「崩れるぞ、もう一歩だ!」
火の粉が鎧を焦がす。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
信長様がくれた“采配”という炎が、胸の奥で燃えていた。
◆
戦は半刻ほどで終わった。
義昭残党は散り、京の北に逃げ延びたわずかな者が残るだけ。
だが、報告を聞いた時、胸が痛んだ。
「……小隊の一つが、煙に巻かれ、戻りませんでした」
藤吉郎の声が沈む。
勝利の歓声の裏で、確かに命が失われていた。
その現実が、初めて“軍師”という名の重みを教えてくれた。
俺は、手を強く握りしめた。
◆
夕刻、陣屋の大広間。
信長様が座す前に、将たちが並んでいた。
火が灯され、盃が順に配られる。
勝家さん、利家、光秀殿、長秀さん、藤吉郎――そして俺。
「今日の采配、見事であった」
信長様の声が響く。
「相馬蓮、初陣にして風を掴む。これより、織田の軍師として名実を得たと心得よ」
その言葉に、光秀殿が微笑む。
藤吉郎が拍手をし、勝家さんが「若造もやるな」と笑った。
盃が重なり、火がぱちりと弾ける。
けれど、信長様の目がこちらを向いた瞬間、すべての喧噪が遠のいた気がした。
あの金の瞳が、まっすぐに俺を射抜いていた。
◆
夜。
陣は静まり、風だけが幕を揺らしている。
僕は、今回の戦の報告書をまとめていた。
背後で足音がして、振り返る。
「……まだ起きておるのか」
信長様だった。
赤い髪が灯に照らされ、影がゆらめく。
手にした盃を俺の前に置く。
「今日の采配、あの場におった誰よりも冴えていた。
だが、顔は晴れぬな」
「失いました。命を……自分の策で」
「それでいい」
信長様は盃を傾け、淡く笑った。
「死を恐れる軍師は、風を鈍らせる。だが、重みを知る者は強い。
……そなたは、前者ではない」
その言葉に、胸の奥の痛みが少し溶けた。
沈黙の中、火がまた小さく爆ぜた。
信長様が、ふいに手を伸ばした。
頬を撫でる指先。
熱いのか冷たいのか、わからない。
「蓮。……この身に仕えることを、悔いたことはあるか?」
「ありません。どんな未来でも、信長様の隣に立てるなら」
その言葉のあと、
唇が、触れるか触れないかの距離で止まった。
信長様の睫毛が、震えた。
その目に映るのは――俺ではなく、何か遠い炎のようにも見えた。
(信長様は……どういう気持ちで、キスをするんだろう)
心臓の音が耳を打つ。
嬉しいのに、怖かった。
自分が“信頼”の延長にいるのか、それとも――違うのか。
尋ねたかった。けれど、声にならなかった。
唇が軽く触れた。
まるで、僕を慰めるかのように。
だけど、それはすぐに離れていった。
「……今宵は、風が穏やかだな」
その言葉とともに、幕が揺れた。
夜風が二人の間を通り抜け、焔が揺らぐ。
その一瞬に、 信長様の瞳がわずかに翳ったのを、俺は見逃さなかった。
夜風が二人の間を通り抜け、焔が揺らぐ。
その一瞬に、信長様の瞳がわずかに翳ったのを、俺は見逃さなかった。
――けれど、その揺らぎを見ていた者が、もう一人いた。
廊の陰、灯の届かぬ場所で。
光秀殿は、何も言わず、ただ静かに目を閉じた。
唇に浮かんだ表情は、怒りでも哀しみでもなく、
“理解”に似た静かな影だった。
(この人の“戦”の先には、何があるんだろう)
けれど――その夜だけは、何も考えたくなかった。
ただ、信長様の隣で、同じ風を感じていたかった。
夜は静かに更けていく。
燃え尽きた薪の残り火が、二人の影を長く揺らした。
やがて、火が落ちる音だけが残った。
***************
戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。
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「風の誓火(せいか)」はこちら ⇒ https://youtu.be/5KEQl-wTyBg
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