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第58話 影の策動
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朝、京の空はよく晴れていた。
焼けた匂いは薄れ、かわりに濡れた土の匂いが立つ。町では店の戸が上がり、子どもの声がのぞく。戦の翌朝にしては、静かな始まりだった。
帳場で損耗の記録をまとめる。名を一つひとつ、墨でなぞるたび、指先が重くなる。筆先を止めたとき、背後から声がした。
「お加減は?」
光秀殿だった。いつも通りの笑み。けれど、視線は僕の手元に落ちている。
「大丈夫です」
「そうですか。――殿にお目通りを。お呼びです」
それだけを告げて、踵を返す。余白だけを残して去る、その立ち居振る舞いが、昨夜の記憶を無言で撫でていった。
(光秀殿は…昨夜、見ていた。そしてそれを、快く思っていないのかもしれない…)
何となくそんな気がした。
確かに、僕のような立場の者が、信長様と誤解されるようなことをしていたとなると、家中の動揺を心配して光秀殿が過敏になるのも理解できる。
(信長様はああいう人だから、何も気にしていないのだろうけれど…)
僕自身は、織田の軍師という立場を与えられた以上、光秀殿のように他の臣たちへの影響も考えながら行動するべきなのかもしれない。
◆
主座には信長様。脇に勝家さんと利家、長秀さん、藤吉郎。地図の上に小石が散り、早馬の封蝋が割られている。
「山城の寺に、義昭の残党が再び籠ったと」
長秀殿が報せを読む。勝家さんが身を乗り出す。
「すぐに叩き潰せばよろしい。火は小さいうちに――」
「待て」
信長様の一言で、空気が止まった。
「動かぬ。……泳がせよ」
ざわめきは起きない。ただ、誰もが互いの呼吸を確かめ合う沈黙が流れる。利家が低く問う。
「放置は、再燃の危険が」
「火種は、動かぬ者をあぶり出す。誰が誰に糸を掛けておるのか、見える」
そこで信長様の視線が、短く僕を掠めた。名指しではない。けれど、呼ばれた気がした。
「相馬」
「はっ」
「行け。ただし、討つな」
勝家さんの眉が跳ねる。藤吉郎が息を呑む。
「討たずに……」
「見て、聞け。寺の内と外、両方だ。兵の出入り、物資の行方、使者の足。……それから」
信長様は封蝋の欠片を指で弾いた。
「久秀の影を探れ」
名前が置かれた瞬間、広間の温度がひとつ下がった気がした。長秀殿が目を細める。光秀殿は表情を変えない。藤吉郎だけが小さく首をすくめ、僕と目を合わせる。
「承知しました」
「護衛は少数。目立つな。勝家、利家は京の外縁を締めろ。長秀は寺町の出入口を見張れ。藤吉郎は補給と連絡を」
次々に指示が落ちていく。誰も異を挟めない。信長様は最後に、軽く息を吐いた。
「人の心ほど扱いづらい兵はない。だから、焦るな」
それは叱咤でも慰めでもない。確かめるような声音だった。
◆
支度を整え、夕刻の帳場で必要な書付を仕舞っていると、光秀殿が戸口に立っていた。灯に照らされた横顔は薄く、影は深い。
「護符を。……道々、寺は山の背を使います。夜に入るなら、足音を拾われぬよう」
小さな麻袋を差し出す。受け取ろうと手を伸ばすと、光秀殿の指が一瞬だけ止まった。
「殿は、人の近さ遠さで判断なさいません」
顔を上げる。
「ですから、気に病むのは、あなたの仕事ではない」
それだけ言って、袋を僕の掌に置く。まるで針一本のような言葉だった。痛みは小さいのに、後から沁みてくる。
「ありがとうございます」
光秀殿は微笑んだ。昨夜のことは、結局ひと言も口にしなかった。
◆
山城の寺は、町はずれの杉木立の奥にあった。山門の灯は落とされ、内側は不自然なほど静かだ。裏手の谷筋から回り、屏の陰に身を沈める。女の囁き声がする。僧のものではない。
「荷は明け六つ。道者装いで。南の口は避けて」
旧幕臣の手配か、宗門の女か。足取りは軽い。気配の乱れがない。慣れている。僕は短く息を吐き、別の影に視線を移した。
裏門の板戸が開く。二人、出る。袈裟に旅笠。だが、足運びが違う。軍の歩き方だ。踵から踏まず、音を殺す。ひとりは左の腰が硬い。剣を手にした癖が抜けていない。
(兵が寺に――。物資だけではない)
小道を谷の方へ辿る。木の根が露出した急斜面。行先は、谷底の小さな庵。灯が一つ、虫のように灯っている。
戸口に扇が立て掛けられていた。黒漆。骨に薄く金の細工。
目が覚めるような既視感が走る。あの扇――。
扉がわずかに開き、笑う気配が滲んだ。
「来ましたか」
声を聞いただけで、背筋が粟立つ。姿は見えない。けれど、名前は分かっていた。
松永久秀。
「京は、夜が美しい。どれだけ焦がしても、朝にはまた白くなる」
中から足音が近づく。扉は開かない。
「相馬蓮殿。――あなたはどれだけ近くに立つおつもりです?」
名を呼ばれ、喉が鳴った。内側から、笑みが扉越しに透けて見える気がした。
「信長様の隣の話か。兵の距離の話か」
「どちらでも成り立ちます」
指先が扉の木肌を撫でる音がした。
「あなたが近寄るほど、私は愉快になる。人は近さで盲になる。殿ほどの御方でも、です」
反論はしなかった。挑発に乗る余裕はない。僕は耳を澄ます。庵の奥、低い咳。男が一人、息を飲む気配。薬湯の匂いが微かに漏れている。
(……義昭――ではない。声が違う。だが、重い客だ)
沈黙の後、久秀が笑いを止めた。
「明け六つ、寺の北。荷の中に手の目を潜ませましょう。あなたの“目”が本物なら、拾えるはずです」
「なぜ教える」
「試したいのです。あなたを」
扉のこちらで、風が巻いたような気配がする。実際には、木々の葉が擦れただけだ。
「それと――殿にも申し上げてください。“泳がせよ”は妙手です。だからこそ、溺れる者も出る」
扉が内へ叩かれ、灯が消えた。気配が途絶える。庵の周囲は、虫の声だけになった。
(罠か、誘導か、あるいは――両方)
僕は庵を離れ、谷筋を戻った。寺の裏手に近づくほど、土の匂いに混じって米俵の匂いが濃くなる。荷の出入りは確かだ。明け六つ。時間は少ない。
***************
戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「沈む朝、揺らぐ影 ー The Dawn That Trembles in Silence」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
「沈む朝、揺らぐ影 ー The Dawn That Trembles in Silence」はこちら ⇒ https://youtu.be/_rtnh5SlP0c
焼けた匂いは薄れ、かわりに濡れた土の匂いが立つ。町では店の戸が上がり、子どもの声がのぞく。戦の翌朝にしては、静かな始まりだった。
帳場で損耗の記録をまとめる。名を一つひとつ、墨でなぞるたび、指先が重くなる。筆先を止めたとき、背後から声がした。
「お加減は?」
光秀殿だった。いつも通りの笑み。けれど、視線は僕の手元に落ちている。
「大丈夫です」
「そうですか。――殿にお目通りを。お呼びです」
それだけを告げて、踵を返す。余白だけを残して去る、その立ち居振る舞いが、昨夜の記憶を無言で撫でていった。
(光秀殿は…昨夜、見ていた。そしてそれを、快く思っていないのかもしれない…)
何となくそんな気がした。
確かに、僕のような立場の者が、信長様と誤解されるようなことをしていたとなると、家中の動揺を心配して光秀殿が過敏になるのも理解できる。
(信長様はああいう人だから、何も気にしていないのだろうけれど…)
僕自身は、織田の軍師という立場を与えられた以上、光秀殿のように他の臣たちへの影響も考えながら行動するべきなのかもしれない。
◆
主座には信長様。脇に勝家さんと利家、長秀さん、藤吉郎。地図の上に小石が散り、早馬の封蝋が割られている。
「山城の寺に、義昭の残党が再び籠ったと」
長秀殿が報せを読む。勝家さんが身を乗り出す。
「すぐに叩き潰せばよろしい。火は小さいうちに――」
「待て」
信長様の一言で、空気が止まった。
「動かぬ。……泳がせよ」
ざわめきは起きない。ただ、誰もが互いの呼吸を確かめ合う沈黙が流れる。利家が低く問う。
「放置は、再燃の危険が」
「火種は、動かぬ者をあぶり出す。誰が誰に糸を掛けておるのか、見える」
そこで信長様の視線が、短く僕を掠めた。名指しではない。けれど、呼ばれた気がした。
「相馬」
「はっ」
「行け。ただし、討つな」
勝家さんの眉が跳ねる。藤吉郎が息を呑む。
「討たずに……」
「見て、聞け。寺の内と外、両方だ。兵の出入り、物資の行方、使者の足。……それから」
信長様は封蝋の欠片を指で弾いた。
「久秀の影を探れ」
名前が置かれた瞬間、広間の温度がひとつ下がった気がした。長秀殿が目を細める。光秀殿は表情を変えない。藤吉郎だけが小さく首をすくめ、僕と目を合わせる。
「承知しました」
「護衛は少数。目立つな。勝家、利家は京の外縁を締めろ。長秀は寺町の出入口を見張れ。藤吉郎は補給と連絡を」
次々に指示が落ちていく。誰も異を挟めない。信長様は最後に、軽く息を吐いた。
「人の心ほど扱いづらい兵はない。だから、焦るな」
それは叱咤でも慰めでもない。確かめるような声音だった。
◆
支度を整え、夕刻の帳場で必要な書付を仕舞っていると、光秀殿が戸口に立っていた。灯に照らされた横顔は薄く、影は深い。
「護符を。……道々、寺は山の背を使います。夜に入るなら、足音を拾われぬよう」
小さな麻袋を差し出す。受け取ろうと手を伸ばすと、光秀殿の指が一瞬だけ止まった。
「殿は、人の近さ遠さで判断なさいません」
顔を上げる。
「ですから、気に病むのは、あなたの仕事ではない」
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「ありがとうございます」
光秀殿は微笑んだ。昨夜のことは、結局ひと言も口にしなかった。
◆
山城の寺は、町はずれの杉木立の奥にあった。山門の灯は落とされ、内側は不自然なほど静かだ。裏手の谷筋から回り、屏の陰に身を沈める。女の囁き声がする。僧のものではない。
「荷は明け六つ。道者装いで。南の口は避けて」
旧幕臣の手配か、宗門の女か。足取りは軽い。気配の乱れがない。慣れている。僕は短く息を吐き、別の影に視線を移した。
裏門の板戸が開く。二人、出る。袈裟に旅笠。だが、足運びが違う。軍の歩き方だ。踵から踏まず、音を殺す。ひとりは左の腰が硬い。剣を手にした癖が抜けていない。
(兵が寺に――。物資だけではない)
小道を谷の方へ辿る。木の根が露出した急斜面。行先は、谷底の小さな庵。灯が一つ、虫のように灯っている。
戸口に扇が立て掛けられていた。黒漆。骨に薄く金の細工。
目が覚めるような既視感が走る。あの扇――。
扉がわずかに開き、笑う気配が滲んだ。
「来ましたか」
声を聞いただけで、背筋が粟立つ。姿は見えない。けれど、名前は分かっていた。
松永久秀。
「京は、夜が美しい。どれだけ焦がしても、朝にはまた白くなる」
中から足音が近づく。扉は開かない。
「相馬蓮殿。――あなたはどれだけ近くに立つおつもりです?」
名を呼ばれ、喉が鳴った。内側から、笑みが扉越しに透けて見える気がした。
「信長様の隣の話か。兵の距離の話か」
「どちらでも成り立ちます」
指先が扉の木肌を撫でる音がした。
「あなたが近寄るほど、私は愉快になる。人は近さで盲になる。殿ほどの御方でも、です」
反論はしなかった。挑発に乗る余裕はない。僕は耳を澄ます。庵の奥、低い咳。男が一人、息を飲む気配。薬湯の匂いが微かに漏れている。
(……義昭――ではない。声が違う。だが、重い客だ)
沈黙の後、久秀が笑いを止めた。
「明け六つ、寺の北。荷の中に手の目を潜ませましょう。あなたの“目”が本物なら、拾えるはずです」
「なぜ教える」
「試したいのです。あなたを」
扉のこちらで、風が巻いたような気配がする。実際には、木々の葉が擦れただけだ。
「それと――殿にも申し上げてください。“泳がせよ”は妙手です。だからこそ、溺れる者も出る」
扉が内へ叩かれ、灯が消えた。気配が途絶える。庵の周囲は、虫の声だけになった。
(罠か、誘導か、あるいは――両方)
僕は庵を離れ、谷筋を戻った。寺の裏手に近づくほど、土の匂いに混じって米俵の匂いが濃くなる。荷の出入りは確かだ。明け六つ。時間は少ない。
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