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第60話 盃の静けさ
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夜の名残が消えるころ、陣の外はひどく静かだった。
城下の通りを掃く竹箒の音が、一定の間隔で耳に届く。
胸の奥では、昨夜の出来事がまだ規則正しく打っている。
あの人は去った。僕は見送った。ただ、それだけの報告が、こんなにも重い。
帳場で書きつけを整えると、光秀殿が戸口に現れた。
「殿がお呼びです」
それだけ。余計な言葉はない。けれど、視線が一瞬だけ柔らかく揺れたのを、僕は見た。
◆
信長様は机の前に座し、薄明の光のなかで紙片を眺めていた。
机上には、昨夜僕が持ち帰った小さな地図と、封蝋の欠片。灯心は短くなり、白い煙が細く立っている。
「――行かせたか」
背を向けたまま、静かな声が落ちた。
「はい」
「斬ることも、繋ぐこともできたはずだ」
「……できませんでした」
正直に伝えるしかなかった。
僕がしたことは、織田にとって良かったのか悪かったのか。
今でも分からない。
しばし沈黙。
信長様は紙片を置き、こちらを見た。その目に責める色はない。
代わりに、遠いものを計るような冷ややかな透明があった。
「よい」
その一言は、刀の背で肩を軽く叩かれたような感触を残した。
「生かして流した方が、世の形は整う。あれがどこへ辿り着くかで、残る者の並びが見える。――それだけだ」
情ではない。計だ。
だが、完全な冷たさとも違う。境目に残る温度のようなものが、言葉の端に滲む。
「蓮」
「はい」
「昨夜、お前は“討たずに見届ける”を選んだ。それは兵の役ではない。采配に携わる者の判断だ」
胸の奥で、鼓動がひとつ強く鳴った。
(信長様が、褒めて…くれている…?)
僕は深く頭を垂れる。
「……ありがとうございます」
「礼は要らぬ。結果で答えよ」
信長様は立ち上がり、棚から朱盃を二つ取り出した。
片方を僕の前に置き、もう片方に少量の酒を注ぐ。
朝の空気に、米の匂いがほのかに立つ。
「世は静かになったわけではない。ただ音が遠のいただけだ」
「はい」
「松永が外れで動いている。“あの道”を使ったと報せが入った」
「久秀……」
「泳がす。だが、こちらで速さを合わせるのはやめる。手筋はこちらで決める」
盃の縁に映る光が、わずかに揺れた。
信長様はそれを一息に空け、もう一つの盃に酒を移して僕に示した。
「受け取れ。これは情ではない。役目だ」
両手で盃を受けると、掌に冷たさが伝わる。
口に含むと、舌の上で静かに広がった。
「蓮」
「はい」
「お前の目で“紙にない道”を拾え。松永は必ず隙を見せる。――見つけたら、切らずに塞げ。音も立てるな」
「承知しました」
「勝家と利家は北を絞る。長秀は市井の口を抑え、藤吉郎に米を流し替えさせる。息継ぎの間隔を乱せ」
命がいくつも、短い言葉に畳まれていく。
ここから先は、刀よりも間合いの読みがものを言う。
僕の役は、端で音を消し、線を繋ぎ替えることだ。
信長様は盃を置いて、こちらを真っ直ぐに見た。
「もう一つ、問う」
「……はい」
「昨夜の女は、泣いていたか」
胸の奥で何かが鳴った。
嘘はつけない相手だ。僕は短く息を吸う。
「……笑っていました。別れの時だけ」
信長様は目を伏せ、頷いた。それ以上は何も問わなかった。
その横顔に、ほんの一瞬だけ影が差し、それはすぐに消えた。
今日の信長様は徹底して織田の当主だった。
だけど、義昭様の話の時だけ、『情』がにじんでいたように感じた。
そのことに、僕は心の奥底で少し安堵した。
もう信長様は、織田の当主としての顔に戻っている。
「行け。朝のうちにもう一度、北の出口を確かめろ。――戻ったら、飯を食え」
最後の一言が、妙に心に残った。
僕は深く礼をして部屋を辞した。
◆
廊に出ると、長秀殿が帳場から顔を出した。
「北の交代は刻の半ば。市の口には私の手勢を回します」
「お願いします」
短い言葉を交わし、足を進める。
土間を抜けた先に、藤吉郎が米俵の控えを抱えて走ってきた。
「軍師様、米は四分割にします。二つは表、二つは裏。――見張りが二度数えるうちに、数が変わる算段で」
「任せる」
「へい!」
軽い足音が遠ざかる。
槍も刀も光らないが、こうして目に見えないところで秩序が組み替わる。
その継ぎ目の静けさが、一番怖い。
門の影で、光秀殿が立ち止まっていた。
彼女は僕の足音に振り向き、小さく頷いた。
「行ってらっしゃいませ」
「すぐ戻ります」
「ええ。――戻ってください」
それだけを残し、彼女は背を向けた。
肩越しに見えた横顔は澄んでいて、感情の色を読み取れない。
けれど、掌にさっきの盃の冷たさを思い出すと、不思議と足が軽くなった。
***************
戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「祈りの月 ― Moonlit Farewell ―」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
「祈りの月 ― Moonlit Farewell ―」はこちら ⇒ https://youtu.be/HD4RFz-BaQ0
城下の通りを掃く竹箒の音が、一定の間隔で耳に届く。
胸の奥では、昨夜の出来事がまだ規則正しく打っている。
あの人は去った。僕は見送った。ただ、それだけの報告が、こんなにも重い。
帳場で書きつけを整えると、光秀殿が戸口に現れた。
「殿がお呼びです」
それだけ。余計な言葉はない。けれど、視線が一瞬だけ柔らかく揺れたのを、僕は見た。
◆
信長様は机の前に座し、薄明の光のなかで紙片を眺めていた。
机上には、昨夜僕が持ち帰った小さな地図と、封蝋の欠片。灯心は短くなり、白い煙が細く立っている。
「――行かせたか」
背を向けたまま、静かな声が落ちた。
「はい」
「斬ることも、繋ぐこともできたはずだ」
「……できませんでした」
正直に伝えるしかなかった。
僕がしたことは、織田にとって良かったのか悪かったのか。
今でも分からない。
しばし沈黙。
信長様は紙片を置き、こちらを見た。その目に責める色はない。
代わりに、遠いものを計るような冷ややかな透明があった。
「よい」
その一言は、刀の背で肩を軽く叩かれたような感触を残した。
「生かして流した方が、世の形は整う。あれがどこへ辿り着くかで、残る者の並びが見える。――それだけだ」
情ではない。計だ。
だが、完全な冷たさとも違う。境目に残る温度のようなものが、言葉の端に滲む。
「蓮」
「はい」
「昨夜、お前は“討たずに見届ける”を選んだ。それは兵の役ではない。采配に携わる者の判断だ」
胸の奥で、鼓動がひとつ強く鳴った。
(信長様が、褒めて…くれている…?)
僕は深く頭を垂れる。
「……ありがとうございます」
「礼は要らぬ。結果で答えよ」
信長様は立ち上がり、棚から朱盃を二つ取り出した。
片方を僕の前に置き、もう片方に少量の酒を注ぐ。
朝の空気に、米の匂いがほのかに立つ。
「世は静かになったわけではない。ただ音が遠のいただけだ」
「はい」
「松永が外れで動いている。“あの道”を使ったと報せが入った」
「久秀……」
「泳がす。だが、こちらで速さを合わせるのはやめる。手筋はこちらで決める」
盃の縁に映る光が、わずかに揺れた。
信長様はそれを一息に空け、もう一つの盃に酒を移して僕に示した。
「受け取れ。これは情ではない。役目だ」
両手で盃を受けると、掌に冷たさが伝わる。
口に含むと、舌の上で静かに広がった。
「蓮」
「はい」
「お前の目で“紙にない道”を拾え。松永は必ず隙を見せる。――見つけたら、切らずに塞げ。音も立てるな」
「承知しました」
「勝家と利家は北を絞る。長秀は市井の口を抑え、藤吉郎に米を流し替えさせる。息継ぎの間隔を乱せ」
命がいくつも、短い言葉に畳まれていく。
ここから先は、刀よりも間合いの読みがものを言う。
僕の役は、端で音を消し、線を繋ぎ替えることだ。
信長様は盃を置いて、こちらを真っ直ぐに見た。
「もう一つ、問う」
「……はい」
「昨夜の女は、泣いていたか」
胸の奥で何かが鳴った。
嘘はつけない相手だ。僕は短く息を吸う。
「……笑っていました。別れの時だけ」
信長様は目を伏せ、頷いた。それ以上は何も問わなかった。
その横顔に、ほんの一瞬だけ影が差し、それはすぐに消えた。
今日の信長様は徹底して織田の当主だった。
だけど、義昭様の話の時だけ、『情』がにじんでいたように感じた。
そのことに、僕は心の奥底で少し安堵した。
もう信長様は、織田の当主としての顔に戻っている。
「行け。朝のうちにもう一度、北の出口を確かめろ。――戻ったら、飯を食え」
最後の一言が、妙に心に残った。
僕は深く礼をして部屋を辞した。
◆
廊に出ると、長秀殿が帳場から顔を出した。
「北の交代は刻の半ば。市の口には私の手勢を回します」
「お願いします」
短い言葉を交わし、足を進める。
土間を抜けた先に、藤吉郎が米俵の控えを抱えて走ってきた。
「軍師様、米は四分割にします。二つは表、二つは裏。――見張りが二度数えるうちに、数が変わる算段で」
「任せる」
「へい!」
軽い足音が遠ざかる。
槍も刀も光らないが、こうして目に見えないところで秩序が組み替わる。
その継ぎ目の静けさが、一番怖い。
門の影で、光秀殿が立ち止まっていた。
彼女は僕の足音に振り向き、小さく頷いた。
「行ってらっしゃいませ」
「すぐ戻ります」
「ええ。――戻ってください」
それだけを残し、彼女は背を向けた。
肩越しに見えた横顔は澄んでいて、感情の色を読み取れない。
けれど、掌にさっきの盃の冷たさを思い出すと、不思議と足が軽くなった。
***************
戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「祈りの月 ― Moonlit Farewell ―」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
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