戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》

梵天丸

文字の大きさ
60 / 64

第60話 盃の静けさ

しおりを挟む
 夜の名残が消えるころ、陣の外はひどく静かだった。
 城下の通りを掃く竹箒の音が、一定の間隔で耳に届く。
 胸の奥では、昨夜の出来事がまだ規則正しく打っている。
 あの人は去った。僕は見送った。ただ、それだけの報告が、こんなにも重い。

 帳場で書きつけを整えると、光秀殿が戸口に現れた。

「殿がお呼びです」

 それだけ。余計な言葉はない。けれど、視線が一瞬だけ柔らかく揺れたのを、僕は見た。



 信長様は机の前に座し、薄明の光のなかで紙片を眺めていた。
 机上には、昨夜僕が持ち帰った小さな地図と、封蝋の欠片。灯心は短くなり、白い煙が細く立っている。

「――行かせたか」

 背を向けたまま、静かな声が落ちた。

「はい」

「斬ることも、繋ぐこともできたはずだ」

「……できませんでした」

 正直に伝えるしかなかった。
 僕がしたことは、織田にとって良かったのか悪かったのか。
 今でも分からない。

 しばし沈黙。
 信長様は紙片を置き、こちらを見た。その目に責める色はない。
 代わりに、遠いものを計るような冷ややかな透明があった。

「よい」

 その一言は、刀の背で肩を軽く叩かれたような感触を残した。

「生かして流した方が、世の形は整う。あれがどこへ辿り着くかで、残る者の並びが見える。――それだけだ」

 情ではない。計だ。
 だが、完全な冷たさとも違う。境目に残る温度のようなものが、言葉の端に滲む。

「蓮」
「はい」
「昨夜、お前は“討たずに見届ける”を選んだ。それは兵の役ではない。采配に携わる者の判断だ」

 胸の奥で、鼓動がひとつ強く鳴った。

(信長様が、褒めて…くれている…?)

 僕は深く頭を垂れる。

「……ありがとうございます」

「礼は要らぬ。結果で答えよ」

 信長様は立ち上がり、棚から朱盃を二つ取り出した。
 片方を僕の前に置き、もう片方に少量の酒を注ぐ。
 朝の空気に、米の匂いがほのかに立つ。

「世は静かになったわけではない。ただ音が遠のいただけだ」
「はい」
「松永が外れで動いている。“あの道”を使ったと報せが入った」
「久秀……」
「泳がす。だが、こちらで速さを合わせるのはやめる。手筋はこちらで決める」

 盃の縁に映る光が、わずかに揺れた。
 信長様はそれを一息に空け、もう一つの盃に酒を移して僕に示した。

「受け取れ。これは情ではない。役目だ」

 両手で盃を受けると、掌に冷たさが伝わる。
 口に含むと、舌の上で静かに広がった。

「蓮」
「はい」
「お前の目で“紙にない道”を拾え。松永は必ず隙を見せる。――見つけたら、切らずに塞げ。音も立てるな」

「承知しました」

「勝家と利家は北を絞る。長秀は市井の口を抑え、藤吉郎に米を流し替えさせる。息継ぎの間隔を乱せ」

 命がいくつも、短い言葉に畳まれていく。
 ここから先は、刀よりも間合いの読みがものを言う。
 僕の役は、端で音を消し、線を繋ぎ替えることだ。

 信長様は盃を置いて、こちらを真っ直ぐに見た。

「もう一つ、問う」
「……はい」
「昨夜の女は、泣いていたか」

 胸の奥で何かが鳴った。
 嘘はつけない相手だ。僕は短く息を吸う。

「……笑っていました。別れの時だけ」

 信長様は目を伏せ、頷いた。それ以上は何も問わなかった。
 その横顔に、ほんの一瞬だけ影が差し、それはすぐに消えた。

 今日の信長様は徹底して織田の当主だった。
 だけど、義昭様の話の時だけ、『情』がにじんでいたように感じた。
 そのことに、僕は心の奥底で少し安堵した。
 もう信長様は、織田の当主としての顔に戻っている。

「行け。朝のうちにもう一度、北の出口を確かめろ。――戻ったら、飯を食え」

 最後の一言が、妙に心に残った。
 僕は深く礼をして部屋を辞した。



 廊に出ると、長秀殿が帳場から顔を出した。

「北の交代は刻の半ば。市の口には私の手勢を回します」
「お願いします」

 短い言葉を交わし、足を進める。
 土間を抜けた先に、藤吉郎が米俵の控えを抱えて走ってきた。

「軍師様、米は四分割にします。二つは表、二つは裏。――見張りが二度数えるうちに、数が変わる算段で」
「任せる」
「へい!」

 軽い足音が遠ざかる。
 槍も刀も光らないが、こうして目に見えないところで秩序が組み替わる。
 その継ぎ目の静けさが、一番怖い。

 門の影で、光秀殿が立ち止まっていた。
 彼女は僕の足音に振り向き、小さく頷いた。

「行ってらっしゃいませ」
「すぐ戻ります」
「ええ。――戻ってください」

 それだけを残し、彼女は背を向けた。
 肩越しに見えた横顔は澄んでいて、感情の色を読み取れない。
 けれど、掌にさっきの盃の冷たさを思い出すと、不思議と足が軽くなった。

***************

戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。

今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「祈りの月 ― Moonlit Farewell ―」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫

「祈りの月 ― Moonlit Farewell ―」はこちら ⇒ https://youtu.be/HD4RFz-BaQ0
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?

青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。 最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。 普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた? しかも弱いからと森に捨てられた。 いやちょっとまてよ? 皆さん勘違いしてません? これはあいの不思議な日常を書いた物語である。 本編完結しました! 相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです! 1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…

40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです

カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
部長に傷つけられ続けた私 とうとうキレてしまいました なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが 飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした…… スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます

【完結】スーパーの店長・結城偉介 〜異世界でスーパーの売れ残りを在庫処分〜

かの
ファンタジー
 世界一周旅行を夢見てコツコツ貯金してきたスーパーの店長、結城偉介32歳。  スーパーのバックヤードで、うたた寝をしていた偉介は、何故か異世界に転移してしまう。  偉介が転移したのは、スーパーでバイトするハル君こと、青柳ハル26歳が書いたファンタジー小説の世界の中。  スーパーの過剰商品(売れ残り)を捌きながら、微妙にズレた世界線で、偉介の異世界一周旅行が始まる!  冒険者じゃない! 勇者じゃない! 俺は商人だーーー! だからハル君、お願い! 俺を戦わせないでください!

優の異世界ごはん日記

風待 結
ファンタジー
月森優はちょっと料理が得意な普通の高校生。 ある日、帰り道で謎の光に包まれて見知らぬ森に転移してしまう。 未知の世界で飢えと恐怖に直面した優は、弓使いの少女・リナと出会う。 彼女の導きで村へ向かう道中、優は「料理のスキル」がこの世界でも通用すると気づく。 モンスターの肉や珍しい食材を使い、異世界で新たな居場所を作る冒険が始まる。

異世界のんびり放浪記

立花アルト
ファンタジー
異世界に転移した少女リノは森でサバイバルしながら素材を集め、商人オルソンと出会って街アイゼルトヘ到着。 冒険者ギルドで登録と新人訓練を受け、採取や戦闘、魔法の基礎を学びながら生活準備を整え、街で道具を買い揃えつつ、次の冒険へ向けて動き始めた--。 よくある異世界転移?です。のんびり進む予定です。 小説家になろうにも投稿しています。

大和型戦艦、異世界に転移する。

焼飯学生
ファンタジー
第二次世界大戦が起きなかった世界。大日本帝国は仮想敵国を定め、軍事力を中心に強化を行っていた。ある日、大日本帝国海軍は、大和型戦艦四隻による大規模な演習と言う名目で、太平洋沖合にて、演習を行うことに決定。大和、武蔵、信濃、紀伊の四隻は、横須賀海軍基地で補給したのち出港。しかし、移動の途中で濃霧が発生し、レーダーやソナーが使えなくなり、更に信濃と紀伊とは通信が途絶してしまう。孤立した大和と武蔵は濃霧を突き進み、太平洋にはないはずの、未知の島に辿り着いた。 ※ この作品は私が書きたいと思い、書き進めている作品です。文章がおかしかったり、不明瞭な点、あるいは不快な思いをさせてしまう可能性がございます。できる限りそのような事態が起こらないよう気をつけていますが、何卒ご了承賜りますよう、お願い申し上げます。

【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活

シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!

処理中です...