風を捕まえる手 ― 再会は逃れられない衝動

梵天丸

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第32話 鍵の記憶 ー Key in the Dark

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 明かりを落とした部屋。
 ここは彼の部屋であって、篠原匠真の部屋ではない。薄く洗剤の匂いが残るシーツに、微かな体温と、甘いココアの記憶が染みている。枕元には、昼間受け取ったばかりの合鍵が、金属の冷たさを保ったまま置かれていた。



 ベッドの上では、浅見颯が静かに眠っている。茶色がかった髪が、街灯の橙にふわりと照らされて、縁だけやわらかく光る。
 彼は「出会いは三年前」だと信じている。
 ――本当は、もっと前から知っていたのに。

 匠真は目を閉じて、カーテンの隙間を抜ける外の明かりをまぶたの裏で確かめる。記憶は、音もなく逆流する。



 一年前の、夏の終わり。
 匠真はまだD&M系列のAI事業会社にいた。大規模な展示会。蛍光灯の白が、均一に床を磨く。自社のブースの向かい、小さなベンチャーのスペースで、茶系の髪の若い男が、身振りを最小限に抑えた説明をしていた。

 声がいい。
 語尾が落ちない。
 ――そして、笑うと、目元に少しだけ寂しさが出る。
 英語も発音がいい。
 外国人のクライアントに対しても、物怖じすることなく対応している。

 終わり際を見計らって、ほんの一言だけ話しかけた。
「さっきのデモ、構成がきれいだ」
「ありがとうございます。浅見といいます」
「篠原です」

 それだけだった。名刺は渡さなかった。渡してしまえば、もう戻れない気がしたからだ。ブースの脇を離れるとき、彼はもう別の相手に笑っていた。その笑顔が、妙に胸に残った。

 その日以来、業界ニュースで「浅見颯」という名前を探す癖がついた。学会のレポート、受賞の一行記事、誰かのSNSの写真。断片だけでも、脳のどこかが確かに反応した。

 ほどなくして、噂を耳にした。
 ――五年交際している恋人がいる。
 ――彼女は金融系の会社に勤めていて、結婚の準備をしている。
 噂の出どころは、取引先の酒席か、共通の知人の曖昧な伝聞か。どれでもよかった。頭は理解した。心は、拒んだ。

 ある昼、偶然、彼が電話をしているのを見かけた。
 何を話しているのかは分からないが、プライベートのことだろうと察しはついた。
 あまり、彼にとって良い状況の話ではなさそうだ。
 彼は「分かってる」と低く答えて、ため息をひとつ落とした。次の瞬間にはもう仕事の顔に戻る。
 その一拍の隙間が、刺さった。

(完璧じゃない。完璧であろうとして、どこか息が切れる)

 そう思った。
 奪いたい、という言葉が脳裏を掠めて、すぐに打ち消した。卑劣だ。だが、目はもう逸らなかった。



 転職情報は、意外なほど早く見つかった。彼が所属する会社――そのDX企画課が人材を探している。
 ベンチャーへの転職は、キャリアの線だけ見れば格下だ。周囲は止めた。だが、理屈は最初から役に立たなかった。堤社長とは旧知だった。面談の席で、配属希望をDX企画課に限定した。志望動機は、無難にまとめた。
 内定の連絡が来た夜、胸の奥で何かが静かに鳴った。

(彼のいる場所を、選んだだけだ)

 初出勤の日。
 エレベーターホールの先、社長室につながる廊下で、スマホを持った茶色の髪が見えた。彼は通話を切り、息を短く整える。顔を上げたとき、目が合った。
 大柄な自分を警戒するでもなく、きょとんとした目。すぐに営業スマイルが乗る。
 来客のふりをして声をかける。「社長の部屋は――」
 颯は迷いなく案内を買って出た。

 社長室のドアをノックして通された瞬間、堤が手を打った。
「ちょうどいいところに。浅見君、今日から君の課に配属になる篠原君だ」
 隣に立っていた来客が、新人に変わった。
 彼は、わずかに目を見開いて、すぐに一礼した。
「篠原匠真です。よろしくお願いします」

 声が、記憶に重なった。
 その場で、もう手遅れだと悟った。



 それからの自分を、匠真は“偶然を装う天才”だと皮肉る。
 昼の時間を合わせた。帰路が重なるように段取りした。
 彼女がいることは知っていた。結納の日取りも、風の噂で知った。
 祝福の言葉は口にした。胸の中では、嵐が吹いた。

(隙があれば、必ず奪う)

 そんな決意を、人に見せることはなかった。
 ただ、彼がため息を飲み込む瞬間だけを、見逃さないようにした。
 そして、今、彼は自分の腕の中にいる。



 暗い部屋に、現在が戻る。
 彼は今、ここで眠っている。匠真の知らないところで傷つき、匠真の知らない言葉で笑ってきた男が、今は胸の内側に収まっている。
 合鍵を指先で転がす。小さな音が、静けさに溶けた。

 枕元のスマホが一瞬だけ光る。ニュース速報。

《九条ホールディングス、AI事業への出資を検討――国内外数社と協議》

 画面はすぐに暗くなった。薄闇がまた部屋を満たす。

 胸の底で、古い痛みが小さく身じろぎをする。
 まだ、彼は知らない。
 ――自分の母親が、その苗字と同じ家に生まれたことも。
 ――その家の事情が、どこまでも人の心を食うことも。

 眠る颯の髪に、指先をほんの一瞬だけ落とす。
 触れたら、また熱が戻りそうで、すぐに離す。

(守る。守るために、手を汚すことがあるなら、それでも構わない)

 合鍵が掌の中で落ち着く位置を見つける。
 窓の外で、遠く、終電の音が薄く流れた。
 夜は、まだ終わらない。

******************

「風を捕まえる手 ― 再会は逃れられない衝動」は、YouTubeチャンネル「BL Soundscape」 にて公開されるオリジナル楽曲と完全連動しています。

今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「鍵の記憶 ー Key in the Dark」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫

♫「鍵の記憶 ー Key in the Dark」はこちら⇒ https://youtu.be/Z9xcgQrbMps
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