32 / 64
第32話 鍵の記憶 ー Key in the Dark
しおりを挟む
明かりを落とした部屋。
ここは彼の部屋であって、篠原匠真の部屋ではない。薄く洗剤の匂いが残るシーツに、微かな体温と、甘いココアの記憶が染みている。枕元には、昼間受け取ったばかりの合鍵が、金属の冷たさを保ったまま置かれていた。
ベッドの上では、浅見颯が静かに眠っている。茶色がかった髪が、街灯の橙にふわりと照らされて、縁だけやわらかく光る。
彼は「出会いは三年前」だと信じている。
――本当は、もっと前から知っていたのに。
匠真は目を閉じて、カーテンの隙間を抜ける外の明かりをまぶたの裏で確かめる。記憶は、音もなく逆流する。
◆
一年前の、夏の終わり。
匠真はまだD&M系列のAI事業会社にいた。大規模な展示会。蛍光灯の白が、均一に床を磨く。自社のブースの向かい、小さなベンチャーのスペースで、茶系の髪の若い男が、身振りを最小限に抑えた説明をしていた。
声がいい。
語尾が落ちない。
――そして、笑うと、目元に少しだけ寂しさが出る。
英語も発音がいい。
外国人のクライアントに対しても、物怖じすることなく対応している。
終わり際を見計らって、ほんの一言だけ話しかけた。
「さっきのデモ、構成がきれいだ」
「ありがとうございます。浅見といいます」
「篠原です」
それだけだった。名刺は渡さなかった。渡してしまえば、もう戻れない気がしたからだ。ブースの脇を離れるとき、彼はもう別の相手に笑っていた。その笑顔が、妙に胸に残った。
その日以来、業界ニュースで「浅見颯」という名前を探す癖がついた。学会のレポート、受賞の一行記事、誰かのSNSの写真。断片だけでも、脳のどこかが確かに反応した。
ほどなくして、噂を耳にした。
――五年交際している恋人がいる。
――彼女は金融系の会社に勤めていて、結婚の準備をしている。
噂の出どころは、取引先の酒席か、共通の知人の曖昧な伝聞か。どれでもよかった。頭は理解した。心は、拒んだ。
ある昼、偶然、彼が電話をしているのを見かけた。
何を話しているのかは分からないが、プライベートのことだろうと察しはついた。
あまり、彼にとって良い状況の話ではなさそうだ。
彼は「分かってる」と低く答えて、ため息をひとつ落とした。次の瞬間にはもう仕事の顔に戻る。
その一拍の隙間が、刺さった。
(完璧じゃない。完璧であろうとして、どこか息が切れる)
そう思った。
奪いたい、という言葉が脳裏を掠めて、すぐに打ち消した。卑劣だ。だが、目はもう逸らなかった。
◆
転職情報は、意外なほど早く見つかった。彼が所属する会社――そのDX企画課が人材を探している。
ベンチャーへの転職は、キャリアの線だけ見れば格下だ。周囲は止めた。だが、理屈は最初から役に立たなかった。堤社長とは旧知だった。面談の席で、配属希望をDX企画課に限定した。志望動機は、無難にまとめた。
内定の連絡が来た夜、胸の奥で何かが静かに鳴った。
(彼のいる場所を、選んだだけだ)
初出勤の日。
エレベーターホールの先、社長室につながる廊下で、スマホを持った茶色の髪が見えた。彼は通話を切り、息を短く整える。顔を上げたとき、目が合った。
大柄な自分を警戒するでもなく、きょとんとした目。すぐに営業スマイルが乗る。
来客のふりをして声をかける。「社長の部屋は――」
颯は迷いなく案内を買って出た。
社長室のドアをノックして通された瞬間、堤が手を打った。
「ちょうどいいところに。浅見君、今日から君の課に配属になる篠原君だ」
隣に立っていた来客が、新人に変わった。
彼は、わずかに目を見開いて、すぐに一礼した。
「篠原匠真です。よろしくお願いします」
声が、記憶に重なった。
その場で、もう手遅れだと悟った。
◆
それからの自分を、匠真は“偶然を装う天才”だと皮肉る。
昼の時間を合わせた。帰路が重なるように段取りした。
彼女がいることは知っていた。結納の日取りも、風の噂で知った。
祝福の言葉は口にした。胸の中では、嵐が吹いた。
(隙があれば、必ず奪う)
そんな決意を、人に見せることはなかった。
ただ、彼がため息を飲み込む瞬間だけを、見逃さないようにした。
そして、今、彼は自分の腕の中にいる。
◆
暗い部屋に、現在が戻る。
彼は今、ここで眠っている。匠真の知らないところで傷つき、匠真の知らない言葉で笑ってきた男が、今は胸の内側に収まっている。
合鍵を指先で転がす。小さな音が、静けさに溶けた。
枕元のスマホが一瞬だけ光る。ニュース速報。
《九条ホールディングス、AI事業への出資を検討――国内外数社と協議》
画面はすぐに暗くなった。薄闇がまた部屋を満たす。
胸の底で、古い痛みが小さく身じろぎをする。
まだ、彼は知らない。
――自分の母親が、その苗字と同じ家に生まれたことも。
――その家の事情が、どこまでも人の心を食うことも。
眠る颯の髪に、指先をほんの一瞬だけ落とす。
触れたら、また熱が戻りそうで、すぐに離す。
(守る。守るために、手を汚すことがあるなら、それでも構わない)
合鍵が掌の中で落ち着く位置を見つける。
窓の外で、遠く、終電の音が薄く流れた。
夜は、まだ終わらない。
******************
「風を捕まえる手 ― 再会は逃れられない衝動」は、YouTubeチャンネル「BL Soundscape」 にて公開されるオリジナル楽曲と完全連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「鍵の記憶 ー Key in the Dark」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
♫「鍵の記憶 ー Key in the Dark」はこちら⇒ https://youtu.be/Z9xcgQrbMps
ここは彼の部屋であって、篠原匠真の部屋ではない。薄く洗剤の匂いが残るシーツに、微かな体温と、甘いココアの記憶が染みている。枕元には、昼間受け取ったばかりの合鍵が、金属の冷たさを保ったまま置かれていた。
ベッドの上では、浅見颯が静かに眠っている。茶色がかった髪が、街灯の橙にふわりと照らされて、縁だけやわらかく光る。
彼は「出会いは三年前」だと信じている。
――本当は、もっと前から知っていたのに。
匠真は目を閉じて、カーテンの隙間を抜ける外の明かりをまぶたの裏で確かめる。記憶は、音もなく逆流する。
◆
一年前の、夏の終わり。
匠真はまだD&M系列のAI事業会社にいた。大規模な展示会。蛍光灯の白が、均一に床を磨く。自社のブースの向かい、小さなベンチャーのスペースで、茶系の髪の若い男が、身振りを最小限に抑えた説明をしていた。
声がいい。
語尾が落ちない。
――そして、笑うと、目元に少しだけ寂しさが出る。
英語も発音がいい。
外国人のクライアントに対しても、物怖じすることなく対応している。
終わり際を見計らって、ほんの一言だけ話しかけた。
「さっきのデモ、構成がきれいだ」
「ありがとうございます。浅見といいます」
「篠原です」
それだけだった。名刺は渡さなかった。渡してしまえば、もう戻れない気がしたからだ。ブースの脇を離れるとき、彼はもう別の相手に笑っていた。その笑顔が、妙に胸に残った。
その日以来、業界ニュースで「浅見颯」という名前を探す癖がついた。学会のレポート、受賞の一行記事、誰かのSNSの写真。断片だけでも、脳のどこかが確かに反応した。
ほどなくして、噂を耳にした。
――五年交際している恋人がいる。
――彼女は金融系の会社に勤めていて、結婚の準備をしている。
噂の出どころは、取引先の酒席か、共通の知人の曖昧な伝聞か。どれでもよかった。頭は理解した。心は、拒んだ。
ある昼、偶然、彼が電話をしているのを見かけた。
何を話しているのかは分からないが、プライベートのことだろうと察しはついた。
あまり、彼にとって良い状況の話ではなさそうだ。
彼は「分かってる」と低く答えて、ため息をひとつ落とした。次の瞬間にはもう仕事の顔に戻る。
その一拍の隙間が、刺さった。
(完璧じゃない。完璧であろうとして、どこか息が切れる)
そう思った。
奪いたい、という言葉が脳裏を掠めて、すぐに打ち消した。卑劣だ。だが、目はもう逸らなかった。
◆
転職情報は、意外なほど早く見つかった。彼が所属する会社――そのDX企画課が人材を探している。
ベンチャーへの転職は、キャリアの線だけ見れば格下だ。周囲は止めた。だが、理屈は最初から役に立たなかった。堤社長とは旧知だった。面談の席で、配属希望をDX企画課に限定した。志望動機は、無難にまとめた。
内定の連絡が来た夜、胸の奥で何かが静かに鳴った。
(彼のいる場所を、選んだだけだ)
初出勤の日。
エレベーターホールの先、社長室につながる廊下で、スマホを持った茶色の髪が見えた。彼は通話を切り、息を短く整える。顔を上げたとき、目が合った。
大柄な自分を警戒するでもなく、きょとんとした目。すぐに営業スマイルが乗る。
来客のふりをして声をかける。「社長の部屋は――」
颯は迷いなく案内を買って出た。
社長室のドアをノックして通された瞬間、堤が手を打った。
「ちょうどいいところに。浅見君、今日から君の課に配属になる篠原君だ」
隣に立っていた来客が、新人に変わった。
彼は、わずかに目を見開いて、すぐに一礼した。
「篠原匠真です。よろしくお願いします」
声が、記憶に重なった。
その場で、もう手遅れだと悟った。
◆
それからの自分を、匠真は“偶然を装う天才”だと皮肉る。
昼の時間を合わせた。帰路が重なるように段取りした。
彼女がいることは知っていた。結納の日取りも、風の噂で知った。
祝福の言葉は口にした。胸の中では、嵐が吹いた。
(隙があれば、必ず奪う)
そんな決意を、人に見せることはなかった。
ただ、彼がため息を飲み込む瞬間だけを、見逃さないようにした。
そして、今、彼は自分の腕の中にいる。
◆
暗い部屋に、現在が戻る。
彼は今、ここで眠っている。匠真の知らないところで傷つき、匠真の知らない言葉で笑ってきた男が、今は胸の内側に収まっている。
合鍵を指先で転がす。小さな音が、静けさに溶けた。
枕元のスマホが一瞬だけ光る。ニュース速報。
《九条ホールディングス、AI事業への出資を検討――国内外数社と協議》
画面はすぐに暗くなった。薄闇がまた部屋を満たす。
胸の底で、古い痛みが小さく身じろぎをする。
まだ、彼は知らない。
――自分の母親が、その苗字と同じ家に生まれたことも。
――その家の事情が、どこまでも人の心を食うことも。
眠る颯の髪に、指先をほんの一瞬だけ落とす。
触れたら、また熱が戻りそうで、すぐに離す。
(守る。守るために、手を汚すことがあるなら、それでも構わない)
合鍵が掌の中で落ち着く位置を見つける。
窓の外で、遠く、終電の音が薄く流れた。
夜は、まだ終わらない。
******************
「風を捕まえる手 ― 再会は逃れられない衝動」は、YouTubeチャンネル「BL Soundscape」 にて公開されるオリジナル楽曲と完全連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「鍵の記憶 ー Key in the Dark」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
♫「鍵の記憶 ー Key in the Dark」はこちら⇒ https://youtu.be/Z9xcgQrbMps
22
あなたにおすすめの小説
【完結】ネクラ実況者、人気配信者に狙われる
ちょんす
BL
自分の居場所がほしくて始めたゲーム実況。けれど、現実は甘くない。再生数は伸びず、コメントもほとんどつかない。いつしか実況は、夢を叶える手段ではなく、自分の無価値さを突きつける“鏡”のようになっていた。
そんなある日、届いた一通のDM。送信者の名前は、俺が心から尊敬している大人気実況者「桐山キリト」。まさかと思いながらも、なりすましだと決めつけて無視しようとした。……でも、その相手は、本物だった。
「一緒にコラボ配信、しない?」
顔も知らない。会ったこともない。でも、画面の向こうから届いた言葉が、少しずつ、俺の心を変えていく。
これは、ネクラ実況者と人気配信者の、すれ違いとまっすぐな好意が交差する、ネット発ラブストーリー。
※プロットや構成をAIに相談しながら制作しています。執筆・仕上げはすべて自分で行っています。
【完結】ルガルの星―冷徹な社長は、僕の運命を知っていた―
綾波絢斗
BL
この世界には、二つの特別な称号を持つ者たちが存在する。
一つは、絶対的な権力を持つ王の称号――ルガル(lugal)。
もう一つは、ルガルと対をなし、その力を補う「番」――ムル(mul)。
ルガルは生まれながらに選ばれし存在。
国家からエリート教育と地位を与えられ、能力に応じて厳格なランク分けが行われる。
最上位のルガルは、政治さえも動かす絶対者だ。
一方で、ムルは生まれた瞬間にはその正体がわからない。
遺伝子検査や学力テストを経て候補が絞られるが、
最終的に「真のムル」かどうかを見極められるのは――ルガルだけ。
ムルが覚醒したとき、同じ場所に「紋章」が現れ、その瞬間から、ルガルとムルの力は共鳴し始める。
ムルの能力はルガルの力を最大限に引き出す。
ゆえにルガルたちは、自らのムルを求め、時には他人のムル候補を奪い合う。
そして、すべての出生データと遺伝情報を管理するのは、
巨大企業イルジオン――国家をも超える存在。
その頂点に立つ社長、一条レイ。
冷徹なルガルの頂点に君臨する彼が「自分のムル」と出会った。
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
こじらせ委員長と省エネ男子
みずしま
BL
イケメン男子の目覚まし担当になりました……!?
高校一年生の俺、宮下響はワケあって一人暮らし中。隣に住んでいるのは、同じクラスの玖堂碧斗だ。遅刻を繰り返す彼の目覚まし係になるよう、担任から任命され……。
省エネ男子(攻め)と、ちょっとひねくれた委員長(受け)によるわちゃわちゃ青春BL!
宮下響(みやしたひびき)
外面の良い委員長。モブ顔。褒められたい願望あり。
玖堂碧斗(くどうあおと)
常に省エネモードで生活中。気だるげな美形男子。
血のつながらない弟に誘惑されてしまいました。【完結】
まつも☆きらら
BL
突然できたかわいい弟。素直でおとなしくてすぐに仲良くなったけれど、むじゃきなその弟には実は人には言えない秘密があった。ある夜、俺のベッドに潜り込んできた弟は信じられない告白をする。
【完結】かわいい美形の後輩が、俺にだけメロい
日向汐
BL
番外編はTwitter(べったー)に載せていきますので、よかったらぜひ🤲
⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆
過保護なかわいい系美形の後輩。
たまに見せる甘い言動が受けの心を揺する♡
そんなお話。
⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆
【攻め】
雨宮千冬(あめみや・ちふゆ)
大学1年。法学部。
淡いピンク髪、甘い顔立ちの砂糖系イケメン。
甘く切ないラブソングが人気の、歌い手「フユ」として匿名活動中。
【受け】
睦月伊織(むつき・いおり)
大学2年。工学部。
黒髪黒目の平凡大学生。ぶっきらぼうな口調と態度で、ちょっとずぼら。恋愛は初心。
猫カフェの溺愛契約〜獣人の甘い約束〜
なの
BL
人見知りの悠月――ゆづきにとって、叔父が営む保護猫カフェ「ニャンコの隠れ家」だけが心の居場所だった。
そんな悠月には昔から猫の言葉がわかる――という特殊な能力があった。
しかし経営難で閉店の危機に……
愛する猫たちとの別れが迫る中、運命を変える男が現れた。
猫のような美しい瞳を持つ謎の客・玲音――れお。
彼が差し出したのは「店を救う代わりに、お前と契約したい」という甘い誘惑。
契約のはずが、いつしか年の差を超えた溺愛に包まれて――
甘々すぎる生活に、だんだんと心が溶けていく悠月。
だけど玲音には秘密があった。
満月の夜に現れる獣の姿。猫たちだけが知る彼の正体、そして命をかけた契約の真実
「君を守るためなら、俺は何でもする」
これは愛なのか契約だけなのか……
すべてを賭けた禁断の恋の行方は?
猫たちが見守る小さなカフェで紡がれる、奇跡のハッピーエンド。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
